『ソウ5』:2008、アメリカ&カナダ

セスという男が目を覚ますと、手足を鎖で繋がれていた。室内に設置されたモニターにはビリー人形が写し出され、「ゲームをしよう」というジョン・クレイマーの声が聞こえてきた。ジョンはセスが殺人罪で終身刑の判決を受けたが5年で刑期を終えたことを語り、「命を奪うことの罪深さを思い知る機会を失った。私が本当の自由を与えてやろう」と述べた。彼は60秒後に振り子の刃が体を真っ二つにすること、脱出するには人殺しの道具である両手を万力で潰すことが必要であることを説明した。決断を迫られたセスは、覚悟を決めて両手を万力で潰した。しかし振り子は止まらず、セスの体は切断された。
ピーター・ストラムFBI捜査官はジェフ・デンロンを射殺してジョンとリンの死体を確認した後、マーク・ホフマン刑事によって監禁された。ストラムが隠し通路に吊るされたレコーダーを発見して再生すると、「警告しておく。これ以上は先に進むな」というジョンの声が録音されていた。通路の奥へ向かったストラムは襲撃され、意識を取り戻すと頭部にガラスの箱を装着されていた。箱に水が注入される中、ストラムはペンを喉に突き刺し、呼吸を確保した。
ギデオン工場を出たホフマンは、駆け付けたフィスクに「みんな死んだ」と告げる。生存者のストラムが救急隊員に運ばれる様子を見て、彼は驚愕の表情を浮かべた。ジルはジョンの弁護士であるバーニー・フェルドマン弁護士から連絡を受けて法律事務所へ赴き、ビデオの映像を見せられる。それはジョンの遺言ビデオであり、彼は「君に箱を残す。中には重要な物が入っている。どうすればいいか、君なら分かるはずはずだ」と語った。バーニーか箱を渡されたジルは蓋を開け、中身を確認して顔を強張らせた。
警察署長は記者会見を開き、ジャーナリストであるパメラ・ジェンキンスたちの前でジグソウ事件の終結を宣言した。ストラムは病室へやって来た上司のダン・エリクソンに、ジルとの面会を求めた。するとエリクソンは、担当から外したことを通達した。昇進して特別表彰を受けたホフマンがデスクに戻ると封筒が置いてあり、「正体は分かっている」というメッセージが入っていた。彼が病院を訪れると、ストラムは強い疑念と怒りをぶつけた。
ホフマンはアジトへ行き、建物の模型とモニターに写る5人の姿を確認した。ルバ、ブリット、チャールズ、マリック、アシュリーという面々である。薄暗い屋内で目を覚ました5人は、装置に拘束されていることを知った。モニターにはビリー人形が出現し、「お前たちは生き残るという共通の目標のために、1つになるのだ」と語った。首枷のケーブルが引っ張られると、大きな剃刀の刃で首が切断される。首枷を外す鍵は、目の前の台に乗ったガラスケースの中にある。しかし鍵を手に入れるために誰かが動けば、全員のタイマーが作動する。ジョンの「本能とは逆の方法を取れ。ゲームスタートだと」いう声と共に、タイマーが15分から動き出した。
マリックが勝手に行動を取ったため、全員のタイマーが60秒から作動した。5人は慌てて鍵を掴むが、アシュリーだけは取り損ねて死亡した。残りの面々は、次の部屋へと移動した。ストラムは独断でFBIの資料を調べ、セスがホフマンの妹を殺害していた事実を知った。フィスクから報告を受けたホフマンは、何も知らないフリをしてセスの死体発見現場へ赴いていた。ストラムはホフマンがセスを殺害し、ジグソウの仕業に偽装したことを確信した。
ルバたちが次の部屋に入ってドアを閉めると、仕掛けが作動した。モニターに出現したビリー人形は、壁の空洞に入れば安全であること、中に入るには鍵が必要だが3つしか無いこと、天井から吊るされているガラス瓶に入っていることを説明した。爆弾の存在が示された後、60秒のタイマーが動き出した。マリックが瓶を割り始めると、チャールズが背後から殴り倒した。ルバはチャールズを襲い、ブリット、マリックと共に鍵を使って空洞へ逃げ込んだ。残されたチャールズは、爆発に巻き込まれて死亡した。
ホフマンがジョンと出会ったのは、セスをジグソウの仕業に見せ掛けて殺害した後だった。彼はアパートのエレベーターでジョンに注射を打たれ、意識を取り戻すと手足を縛られていた。ジョンは模倣した行為への不快感を語り、「被験者を更生させるのに、もっと良い方法がある」と述べた。「チャンスが欲しければ与えよう。私を逮捕できるか。そうすれば君の人生は終わりだ。もしくは、更生の方法を深く探究するか。君は今、岐路に立っている。決断しろ」と、ジョンはホフマンに語り掛けた。
ストラムはジグソウ事件の資料を調べ、ポールという男が殺害された現場へ赴いた。かつてジョンとホフマンはポールを拉致し、地下室に監禁した。ジョンはホフマンにポールへのゲームを見学させ、「殺人と更正の違いを、その目で確かめろ」と告げた。タップ刑事が事件の核心に迫っていることをホフマンが話すと、ジョンは「彼のことは知っている」と言う。彼はホフマンに、タッブを誘導して自分の主治医であるゴードンを追わせるよう指示した。ホフマンはジョンの助手となり、ゲームの手伝いをするようになった…。

監督はデヴィッド・ハックル、脚本はパトリック・メルトン&マーカス・ダンスタン、製作はグレッグ・ホフマン&オーレン・クールズ&マーク・バーグ、製作総指揮はダニエル・ジェイソン・ヘフナー&ジェームズ・ワン&リー・ワネル&ステイシー・テストロ&ピーター・ブロック&ジェイソン・コンスタンティン、製作協力はトロイ・ベグナウド、撮影はデヴィッド・A・アームストロング、美術はトニー・イアーニ、編集はケヴィン・グルタート、衣装はアレックス・カヴァナー、音楽はチャーリー・クロウザー。
出演はトビン・ベル、コスタス・マンディロア、スコット・パターソン、ベッツィー・ラッセル、ミーガン・グッド、マーク・ロルストン、ジュリー・ベンツ、カルロ・ロタ、マイク・バターズ、グレッグ・ブリック、ローラ・ゴードン、アル・サピエンザ、ジョリス・ジャースキー、マイク・リアルバ、ジェフ・パスティル、デイナ・ソーマン、シーラ・シャー、サマンサ・レモール、ネーヴ・ウィルソン、リサ・ベリー、ビル・ヴィバート他。


シリーズ第5作。
2作目からプロダクション・デザインを担当してきたデヴィッド・ハックルが、初監督を務めている。
脚本は前作から引き続いてパトリック・メルトン&マーカス・ダンスタンが担当。
1作目からのレギュラー出演者は、ジョン役のトビン・ベルのみ。ホフマン役のコスタス・マンディロアは3作目から、ストラム役のスコット・パターソンとジル役のベッツィー・ラッセル、フィスク役のマイク・リアルバは前作からの続投。
ルバをミーガン・グッド、エリクソンをマーク・ロルストン、ブリットをジュリー・ベンツ、チャールズをカルロ・ロタ、ポールをマイク・バターズが演じている。

ジグソウのルールを破綻させ、シリーズを単なる残虐な連続殺人ショーへと変貌させたダーレン・リン・バウズマンは降板した。
しかし、今さら大幅な路線変更も出来なかったようで、相変わらずグロテスクな残虐描写で観客を引き付けようという意識が強くなっている。そして相変わらず、ゲームのルールは破綻している。
これまでのシリーズを見ていないと何のことやらサッパリ分からないってのも、前作と同じ。
まあ脚本家が前作と一緒だから、そんなに大幅な変化を期待するだけ無駄だわな。

冒頭のゲームで、セスがルールに従って犠牲を払ったのに殺される様子が描かれる。
つまり、また今回も、ジグソウのルールが守られないことを最初から明かしているわけだ。
そして、ルール違反を最初に見せることで、「どうせルールを守っても死ぬんだろ」という気持ちになってしまう。
つまり「ヒントを手掛かりに謎を解いたり必要な道具を集めたりして、犠牲を支払って脱出しようとする」というゲームの醍醐味は、全く味わえないってことが最初から露呈しているわけだ。

それはホフマンがジョンと出会う前のゲームだが、現在進行形のシーンでもルールを守っていない。
ストラムが拘束されるシーンでは「こういうゲームです」という説明が無いし、「こうすれば助かる」という条件も明示されていない。その時だけ利口になったストラムが、咄嗟の機転で危機を脱しただけだ。
しかもホフマンが驚愕しているってことは、彼はストラムに生き残るチャンスなど与えるつもりは無く、その装置はゲームの仕掛けでなく単なる殺人道具だったってことだ。
そして、今回も「殺すのが目的なら装置なんて要らないだろ」と言いたくなってしまうわけだ。

ルビたちのゲームは「5人が協力すれば全員が助かる」という仕掛けになっているけど、そこだけ急にルールを守ったところで、もう遅い。それ以外のトコで、ホフマンはルールを崩壊させちゃってるんだから。
むしろ、ルビたちのゲームに関しては、今までと比べて生存条件が異常にユルすぎるし。
「それぞれが1本のケーブルを持って弱電流を受ければ全員が助かる」って、なんで急に腑抜けみたいな設定になるんだよ。過去にゲームをクリアした人間が支払った犠牲の大きさからすると、雲泥の差じゃねえか。
最初のゲームは「1つの鍵で全員の首枷を外せた」、空洞のゲームは「2人が1つの空洞に入れば全員が助かる」という条件だから、何の犠牲も払わずに済むし。

今回は「FBI捜査官vs刑事(犯人も兼任)」ってのがメインに据えられているんだけど、そういう図式を用意している時点でシリーズの本質からズレているような気がするぞ。
まあ「じゃあ本質って何よ」と問われたら、そこからして完全に迷走する気もするけど。
で、じゃあストラムとホフマンの対決が面白いのかっていうと、そうでもないんだよな。
なんせストラムは呆気なく罠に落ちるボンクラだし、その上司も簡単に騙されるボンクラだし、ホフマンもキレ者ってわけじゃないから、「バカな奴らの対決」でしかないんだよな。

この5作目は、「今までの4作の後片付け」という意味合いも大きい。
既に2作目の段階で「回想シーンを入れることによって過去作の行動を説明する」という作業は始まっていたが、今回も同じ作業が行われる。アマンダの時には「私はこうしてジョンの弟子になりました」という回想シーンが挿入されていたが、今回はホフマンで同じことをやっている。
ただ、そういう説明を入れることで、アマンダの時には、「救済」というジョンの目的に一応の納得が出来るモノとなっていた。
しかしホフマンに関しては、わざわざ改心させてまで弟子にする意味がサッパリ分からない。辻褄合わせを図ろうとして、余計に辻褄が合わなくなっている印象を受ける。

この映画が抱えている大きなジレンマは、「ジョン・クレイマーは死んでいるのに、彼に頼らざるを得ない」ってことだ。
1作目を完成させた時点では、もちろん続編のことなんて何も考えちゃいないので、ジョン・クレイマーを「もはや治療不能な病気によって、死が間近に迫っている」という設定にした。そして、死が間近にあることを、「だからこそ死のゲームを被験者に要求する」という犯行動機にも結び付けていた。
ところが1作目が大ヒットしてシリーズ化が決定すると、そこが大きなネックになってしまった。
ジグソウとしてゲームマスターを担当するのはジョンだが、彼には死が迫っている。だが、彼を殺したらゲームも終わってしまう。
だからと言って今さら「末期癌が奇跡的に完治しまして」なんてことをやったら、そりゃあ観客から激しいバッシングを浴びることになることは間違いない。それに、彼の病気が治って「間近に迫る死」という要素が消えてしまったら、もはや死のゲームを続ける意味も無くなってしまう。

そこで製作サイドは、「ジョンの後継者がゲームを引き継ぐ」というアイデアを捻り出した。そうすればジョンが死んだ後もゲームを続行することが出来るし、ってことはシリーズを続けることも可能になる。
まあ苦肉の策ではあるし、あまり格好のいい方法とは言えないが、シリーズを続けるための選択肢としては大きく間違っちゃいない。
ただし問題は、後継者の面々が冴えない奴らってことだ。
アマンダにしろホフマンにしろ、ジョン・クレイマーと比べるとカリスマ性や存在感が圧倒的に劣る。

アマンダはジグソウの後継者としては、1作だけで実質的に御役御免となるので、まあ単なるイカれた女でも良しとしよう(ゲームのルールを破綻させたという意味も含めて、ホントはダメなんだけど)。
しかしホフマンは連続して「ジグソウの後継者」としての役目を担当するわけだから、アマンダと「どんぐりの背比べ」では困るはずだ。
だが、残念ながらホフマンも、ただのイカれた男でしかない。
物語を引っ張る黒幕としては、あまりにもチンケで「悪の華」としての魅力が無い。

製作サイドにとって、後継者の魅力が乏しいってのが意図的だったのか誤算だったのか、それは分からない。
しかし、ともかく後継者だけで物語を続けていくのは厳しいという考えがあったことは確かだろう。やはりジョン・クレイマーがいないと、シリーズを続けていくのは難しいという考えがあったことは確かだろう。
そこで何をやったかというと、「やたらと回想劇を盛り込む」という手口である。
そうすることによって、生きていた頃のジョン・クレイマーを登場させることが出来るからだ。

しかし、回想劇を盛り込めばジョン・クレイマーを登場させることは出来るが、それと引き換えに「現在進行形のドラマやゲームが疎かになる」という弊害が生まれる。
本来なら、現在進行形で描かれるゲームこそがシリーズの肝であり、そこに厚みを持たせるべきなのだ。
ところが、そのゲームに関してジョンは「関与していない人」なので、そこは薄っぺらく片付けられる。
一応、「かつてジョンが企てたゲームをホフマンが実行している」という形ではあるんだけど、実行犯はジョンじゃないのでね。

ただし根本的なことを言っちゃうと、実はジョンだって単なるイカれたジジイに過ぎないのよね。
だけど、少なくとも1作目のジョンは、それなりに「得体の知れない不気味な殺人ゲームマスター」としての存在感を持っていた。それは、「終盤まで犯人の正体が分からない」という部分が大きかったわけで。
だから2作目以降、ジョンの正体や過去や犯行に至る経緯などが詳しく語られたり回想シーンが挿入されたりすればするほどボロが出て、どんどん矮小化されてきたのよね。
そういう意味でも、回想シーンを増やすことが決して得策とは言えないのだ。
このシリーズは、ジョンを登場させるためには回想シーンが必要だが、回想シーンを入れて詳しく説明するとジョンが矮小化されるというジレンマを抱えているのだ。

「それが製作サイドの期待したような効果を発揮していたかどうか」ってことは別にして、前作まではラストにドンデン返しが用意されていた。
しかし今回は、それさえも放棄している。
既に前作の時点で、観客にとっても登場人物にとっても全く意味の無いドンデン返しになっており、サプライズのためのサプライズでしかなかったので、「どうせ大した効果の無いドンデン返ししか用意できないぐらいなら、いっそのこと無くしてしまえ」ということだったのかもしれない。
ある意味では潔い決断だが、まあ普通に考えりゃ「ちゃんと効果的で魅力的なドンデン返しを考えろよ」ってことだよな。

(観賞日:2015年8月21日)

 

*ポンコツ映画愛護協会