『ザ・メキシカン』:2001、アメリカ

5年前、ロサンゼルスに暮らすジェリーは、ギャングの親分マルゴリースの車と交通事故を起こした。そのせいでマルゴリースが刑務所送りになり、ジェリーは代償として組織で働かされることになった。しかしドジばかりで、幹部のネイマンを困らせている。
ジェリーは恋人サマンサに脅され、組織の仕事から足を洗おうと決意した。彼は最後のつもりで仕事を引き受けるが、またもミスをやらかした。ミスを償うため、ジェリーはメキシコへ行って、伝説の銃“メキシカン”をベックという男から受け取るよう命じられた。
メキシコに到着したジェリーは酒場でベックから拳銃を入手し、呪われた逸話を聞く。2人が酒場を出た時、祭りで男達が乱射していた弾丸の1発が命中し、ベックが死んでしまう。ジェリーは仲間のテッドに連絡し、ベックがマルゴリースの孫だと聞かされる。さらに電話を掛けている隙に、ジェリーは銃を置いた車を盗まれてしまう。
一方、サマンサはジェリーに愛想を尽かし、1人でラスベガスへと向かっていた。その途中、彼女は組織の殺し屋リロイに捕まってしまう。サマンサはジェリーが仕事を終わらせるまで、人質にされたのだ。だが、すぐにサマンサはリロイと意気投合するようになる。ゲイのリロイは、フランクという男と出会って親密な関係になった。
ジェリーは車泥棒を捕まえ、拳銃を取り戻した。だが、車に血が付着しているのを警官に見つかり、捕まってしまう。ジェリーは牢から出るが、拳銃は警官が質屋のジョーに売り払ってしまった。そこへテッドが現れ、リロイがサマンサを見張っていることを告げる。

監督はゴア・ヴァービンスキー、脚本はJ・H・ワイマン、製作はジョン・バルデッチ&ローレンス・ベンダー、共同製作はウィリアム・S・ビーズリー&ポール・ヘラーマン、製作総指揮はクリストファー・ボール&アーロン・ライダー&ウィリアム・タイラー&J・H・ワイマン、撮影はダリウス・ウォルスキー、編集はクレイグ・ウッド、美術はセシリア・モティエル、衣装はコリーン・アトウッド、音楽はアラン・シルヴェストリ。
出演はブラッド・ピット、ジュリア・ロバーツ、ジェームズ・ガンドルフィーニ、J・K・シモンズ、ボブ・バラバン、シャーマン・オーガスタス、マイケル・セルベリス、ジーン・ハックマン、リチャード・コカ、デヴィッド・クラムホルツ、カストロ・グエラ、マイラ・セルブロ、サルヴァドール・サンチェス他。


『マウス・ハント』のゴア・ヴァービンスキーがメガホンを執った作品。
ジェリーをブラッド・ピット、サマンサをジュリア・ロバーツ、リロイ(実は偽者)をジェームズ・ガンドルフィーニ、テッドをJ・K・シモンズ、ネイマンをボブ・バラバンが演じている。また、終盤に登場するマルゴリースを、ジーン・ハックマンが演じている。

わざと感覚をズラしたようなコメディーを、オフビート・コメディーと言ったりすることがある。オフビートは、ちゃんとビートを意識して、計算して上手く外しているからこそ意味がある。ただビートがデタラメなだけでは、オフビートではなくノービートだ。
さて、この映画は、どうやらオフビート・コメディーを狙っているようだ。ちょっとヌケた感じ、トボけた雰囲気を出したいのだろうが、残念なことに、トボけきれずにストレートに受け止めてたり、ヌケる前に走ってしまったり、ギャグのポイントが薄かったりしてしまう。

大まかなところでは、オフビートらしき感覚は覗える。しかし、細かいところ、すなわちカメラワークであったり、画面構成であったり、シーンの入り方や繋ぎ方であったり、間の取り方やタイミングであったりが、ことごとく別の意味で外しているのである。
そもそも、主演の2人が誰なのかということを考えて、オフビート・コメディーが可能かどうかを判断する必要がある。まだブラッド・ピットにはオフビートをやろうという意識も少しは見えるが、ジュリア・ロバーツは普通に騒がしくしているだけである。

ジェリーとサマンサは別行動を取っている時間が長く、顔を会わせたり電話で話したりするシーンでは、ほとんど言い争い。その口ゲンカが、笑いに繋がるようなことは無い。ただ騒がしいだけ、特にサマンサがヒステリックなだけである。
曲がりなりにもコメディーにしようとするのであれば、偽者リロイの登場シーンでの荒っぽい行動は、適当ではないだろう。外した笑いに繋がらない、殺伐とした雰囲気を醸し出してしまう。それ以外にも、無駄に人が死んだり傷付いたりしすぎ(特に偽者リロイの死は無意味)。その大半が笑いに繋がらず、シリアスになっているのが辛い。

メキシカンが誕生した頃の話が、3度に渡ってインサートされる。だが、そこに面白味は無く、笑いも見当たらず、メインストーリーに密接に絡んでくるわけでもない。なぜ3度にも渡って挿入されるのかと問われても、まるで答えが見つからない。
とにかく、この映画は繋がり、関連性というモノを拒絶しようとする。前述したように、件銃に関する伝説シーンもそう。ジェリーのストーリーとサマンサのストーリーは、ひたすら並行移動で、互いに相手のストーリーに影響を与えることは無い。例えばジェリーがリロイのことを聞いても、それで行動に変化が生まれるようなことは無い。

拳銃を巡る話とジェリー&サマンサの恋愛劇も、ほとんど無関係。リロイに恋愛指南をさせて銃の話に恋愛劇を絡めようとするが、そもそもジェリーが拳銃を取り戻すのに精一杯で恋愛なんて全くアウト・オブ・眼中なので、それはムリがある。
極端に言えば、サマンサのストーリーは要らないのではないかとさえ思えてしまう。何しろ、彼女は何をするわけでも無く、ダラダラと過ごしているだけなのだ。しかも、そのストーリーでは彼女が主役ではなく、偽者リロイが主役になっているのだ。
ついでにいえば、フランクが殺されるエピソードも、どこへ繋がっているのか全く分からない。

終盤に入ってコメディーであろうとする意欲さえ失った後、恋愛で話をまとめに掛かる。
ところが、そこで話がまとまらず、さらに拳銃を巡る話を続ける。
でも、どんなに頑張っても、拳銃を巡る話と男女の恋愛劇は、融合せずに分離したままなのである。

 

*ポンコツ映画愛護協会