『SAYURI』:2005、アメリカ
貧しい漁村に住む老いた漁師の坂本は、2人の娘を売らないかと知人の田中から持ち掛けられて承諾した。こうして9歳の千代は、姉のサツと共に売り飛ばされた。田中は駅で女衒に2人を引き渡し、金を受け取った。女衒は姉妹を汽車に乗せ、花街の置屋に連れて行く。置屋のおばさんはサツを見て「こっちは要らない」と冷たく言い、千代だけを引き取った。女衒はサツを馬車に乗せて去った。
置屋を仕切る「お母さん」は千代を見て、あまりに気に入らない様子を示した。おばさんは千代を2階へ連れて行き、部屋に閉じ込めた。千代が「出して」と大声を出すと、部屋にいたおカボという少女が制止した。「私も最初は泣いたけど、どうにもならないの。ここに来る前のことは忘れた方がいい。お母さんの言うことを聞いていれば、芸者の学校に行ける。アンタのお姉ちゃんは、たぶん他の置屋にいると思う。アンタは親に売られた。ここにいるしかない」と彼女は話した。
置屋で働き始めた千代は、芸者の初桃から「魚臭いねえ。私の部屋に入るんじゃないよ」と告げられた。千代はおばさんから、態度の悪い初桃をお母さんが大目に見ているのは稼ぎがいいからだと聞かされた。千代はおカボと共に、芸者の稽古へ通うことになった。姉を捜すために逃げ出そうと考える千代だが、おカボが「私は芸者になりたいの。アンタを逃がしたら芸者になれない」と腕を掴み、芸者の学校へ連れて行った。千代は学校で踊りや三味線を習った。
千代は初桃から、訪ねて来たサツを追い返したことを聞かされる。「姉ちゃんはどこですか?」と千代が言うと、初桃は「何でも私の言うことを聞くなら教えてあげるよ」と告げた。初桃は女中に金を渡し、敵視している芸者・豆葉の着物を盗み出した。彼女は千代に命じて、その着物に筆で落書きをさせた。千代は初桃にから、その着物を届けるよう命じられた。千代は全ての罪を被せられ、お母さんとおばさんから激しい折檻を受けた。初桃は千代に、サツが女郎屋にいることを教えた。
初桃を料亭まで送った帰り、千代は姉のいる女郎屋へ走った。サツと再会した千代は、「今すぐ逃げよう」と言う。サツは「お金が無いから、明日までに盗み出す。日が暮れたら眼鏡橋においで」と告げた。千代が置屋に戻ると、初桃は納屋で恋人のコウイチと情事の最中だった。千代に気付いた彼女は、「どうして戻って来たの、逃げられたのに」と口にした。コウイチは「もう嫌だ、こんな惨めったらしい関係は」と初桃に苛立ちを吐露した。
お母さんに見つかりそうになった初桃は、「千代が姉と逃げようとしていた」と密告することで自分の情事を隠そうとする。お母さんに折檻された千代は、初桃が男と一緒だったことを暴露した。初桃の股間に触れたお母さんは、千代の証言が真実だと悟った。お母さんは初桃に平手打ちを浴びせ、「二度と男には会うんじゃないよ」と鋭く告げた。彼女は初桃を外に出さないよう、門を閉めさせた。
次の夜、千代は梯子を使って屋根に登り、眼鏡橋に向かおうとする。しかし屋根から転落して怪我をしてしまい、姉との約束を守ることは出来なかった。彼女はお母さんから、サツが一人で女郎屋から逃げ出したことを知らされた。故郷の村からは、両親の死を伝える手紙が届いていた。芸者の稽古に行くことも許されなくなった千代は、莫大な借金を返すため、奉公人として一生を過ごすことになった。
ある日、千代が橋にもたれて泣いていると、半玉を連れた一人の紳士が優しく声を掛けて来た。「会長」と呼ばれたその男は、春のをどりを見物に行く途中だった。会長にかき氷を買ってもらった千代は、笑顔を見せた。会長は「これで何かお食べ」と千代に金を渡し、その場を去った。千代は会長に再び会いたいと考え、そのために芸者になりたいと強く願うようになった。会長がくれたお金は1ヶ月分の食費が賄えるほどだったが、千代はそれを賽銭箱に投入し、また彼と会えるように祈って手を合わせた。
時が過ぎ、千代は15歳になったが、芸者の稽古もしていない彼女は奉公人としての生活を続けていた。おカボは芸者になり、初桃と一緒に座敷へ出る日々を送っていた。おカボが忘れた三味線を届けにお茶屋へ行った千代は、座敷にいた会長と遭遇し、慌てて逃げ出した。雪の降り積もった日、豆葉が置屋を訪れた。祇園で一番の売れっ子芸者である彼女は、妹分として千代を育てたいとお母さんに申し入れた。「稽古代を全て支払うだけでなく、千代が店出しから半年で借金が返せなければ倍額を渡す。ただし半年で返済できたら、それ以降の置屋の取り分は無し」という条件を、彼女は提示した。
話が上手すぎることに疑いを抱いたお母さんだが、千代を預けることを承諾した。初桃は「着物のことで今もアンタを恨んでいて、仕返しするつもりなんだよ」と嫌味っぽく千代に言い、おカボには「今日から千代と話すんじゃないよ。商売敵になるんだから」と命令した。豆葉は自分の旦那である男爵に千代を会わせ、「運が良ければ、いつか貴方にも旦那が付くわ」と告げた。彼女は着物の一件について、初桃の仕業だと知っていた。
豆葉は千代に「置屋はいずれ跡継ぎを選ぶことになる。普通は抱えている芸者を養女にして店を継がせる」と言い、そこを目指すよう促した。彼女は「普通なら数年は掛かるところを数ヶ月で仕上げなきゃ」と告げ、千代に芸者としての振る舞いを教えた。歌や踊りの稽古を積み、男の目を引き付ける術を会得した千代は、豆葉から「さゆり」という名前を貰った。半玉としてのお披露目の場は、男爵のいる宴の座敷だった。初桃は嫌味をぶつけても軽く受け流して言い返して来るさゆりに怒りを覚え、「お前を潰してやる」と宣告した。
豆葉はさゆりに、「初桃なら、貴方のあらぬ噂を流したり、付け回して客を奪ったりするでしょう。出し抜くしかないわ。彼女の現れそうもない場所で芸を磨くのよ」と語った。豆葉はさゆりを連れて相撲見物に出掛け、「長年の客である岩村電機の会長さんと社長の延さんの相手をするの」と言う。さらに彼女は、延が芸者を好きじゃないことも付け加えた。豆葉の言っていた岩村電機の会長さんとは、さゆりが好意を抱く会長のことだった。会長はさゆりを見ても、かつて自分が声を掛けた少女だと気付いていない様子だった。
初桃が来たのを見つけた豆葉は、さゆりに「延さんの気を引くのよ。初桃は延さんを嫌ってる。騙してやるの」と指示した。相撲に没頭している延に、さゆりは「相撲のことを教えて下さい」と話し掛けた。延が説明している間も、さゆりは会長が気になった。さゆりが延と一緒にいるのを目撃した初桃は、苛立ちを隠せなかった。さゆりと話した延は、豆葉に「この子はまた連れて来ていい」と告げた。さゆりは新聞で会長の写真を見つけると、それを切り取って箱に入れ、本当の気持ちは隠しておこうと心に決めた。
次の日、さゆりは豆葉から、「今日は初桃を出し抜いてやるのよ」と告げられる。「綱島亭で延さんと会うんだけど、作戦があるわ」と彼女は言い、脚を傷付けるよう指示した。豆葉は「カニ先生」と呼ばれる医者にさゆりを治療してもらい、綱島亭へ連れて行く。延はさゆりに恋心を抱いており、櫛を贈った。さゆりは豆葉から指示された通り、彼に「えくぼ」という餅菓子の入った箱を渡した。
さゆりは菓子箱が何を意味するのか、全く分かっていなかった。座敷を後にした彼女は、豆葉に「どういうことか、せめて説明して」と言う。すると豆葉は「競り合わせて、水揚げの売り値を上げてるのよ」と言い、カニ先生にも菓子箱を渡すよう促す。だが、さゆりはカニ先生から、会うことを拒絶されてしまう。さゆりはおカボを問い詰め、初桃が「さゆりは誰彼構わず男を垂らし込んでいる」という嘘をカニ先生に吹き込んだと知った。
おカボは初桃から意地悪をされて辛い日々を送っていたが、「私は大丈夫。この間、お母さんが自分を養女にするって約束してくれたの」と笑顔を見せた。置屋の跡継ぎを狙っているさゆりは、顔を強張らせた。豆葉はさゆりに、「カニ先生のことは忘れなさい。もっと網を広げましょう。殿方の憧れの対象になればいいのよ」と告げた。豆葉が裏から手を回し、華をどりのポスターにさゆりの写真が使われた。そのことはさゆりも知らされておらず、ポスターを見て驚いた。初桃はポスターを見て苛立ち、さゆりに「アンタの踊りが楽しみだねえ。しっかり踊りな」と嫌味っぽく告げた。
失敗することへの不安を抱きながらも、さゆりは華をどりの舞台に上がった。彼女の踊りは会場に集まった観客を圧倒し、拍手喝采が沸き起こった。さゆりは踊りに魅了されたカニ先生の元へ行き、「おかしな噂が流れているようですが、誤解を解きたいんです」と告げる。カニ先生は上機嫌でさゆりの言葉に耳を傾け、菓子箱を受け取った。豆葉は男爵から花見に誘われ、外せない用事があると言って断った。すると初桃は、さゆりを連れて行くよう男爵に勧めた。企みがあると察した豆葉は断ろうとするが、男爵は有無を言わせぬ態度で「さゆりは連れて行く」と告げた。豆葉はさゆりに、決して隙を見せないよう忠告した。
花見の宴に出席したさゆりは、会長から「延さんに良くしてくれて、ありがとう。奴は真面目すぎる。芸者なんて憎んでいたが、お前だけは別らしい」と告げられる。さらに会長は、満州で延が自分を庇って大怪我を負ったことを話した。男爵は「着物コレクションを見せる」と言ってさゆりを部屋に連れ込み、彼女の着物を脱がせた。裸を見られただけで体は売らなかったが、噂はたちまち広まった。豆葉は「計画が台無しよ。傷物の女に、競りで幾ら付くと思っているの」と激怒した。しかし競りの結果、さゆりは豆葉を抜く1万5千円の記録を作って水揚げされた。するとお母さんは途端に考えを変え、さゆりを養女にすると言い出した…。監督はロブ・マーシャル、原作はアーサー・ゴールデン、脚本はロビン・スウィコード、製作はルーシー・フィッシャー&ダグラス・ウィック&スティーヴン・スピルバーグ、共同製作はジョン・デルーカ、製作総指揮はロジャー・バーンバウム&ゲイリー・バーバー&パトリシア・ウィッチャー&ボビー・コーエン、撮影はディオン・ビーブ、編集はピエトロ・スカリア、美術はジョン・マイヤー、衣装はコリーン・アトウッド、音楽はジョン・ウィリアムズ、チェロ演奏はヨー=ヨー・マ、ヴァイオリン演奏はイツァーク・パールマン。
出演はチャン・ツィイー、渡辺謙、ミシェル・ヨー、コン・リー、大後寿々花、役所広司、工藤夕貴、桃井かおり、ツァイ・チン、ケイリー=ヒロユキ・タガワ、ランダル・ダク・キム、マコ、ケネス・ツァン、トーマス・イケダ、ゾーイ・ワイゼンバウム、カール・ユーン、サマンサ・ファターマン、ユージニア・ユアン、コトコ・カワムラ、伊川東吾、舞の海秀平、出羽嵐大輔、鵜池保介(30代木村庄之助)、松久信幸(ノブ・マツヒサ)、ナヴィア・ヌエン、ナツコ・トミタ、テッド・レヴィン、ポール・アデルスタイン他。
アーサー・ゴールデンの小説『さゆり』を基にした作品。
監督は『シカゴ』のロブ・マーシャル。
さゆりをチャン・ツィイー、会長を渡辺謙、豆葉をミシェル・ヨー、初桃をコン・リー、千代を大後寿々花、延を役所広司、おカボを工藤夕貴、お母さんを桃井かおり、叔母をツァイ・チン、男爵をケイリー=ヒロユキ・タガワ、クラブをランダル・ダク・キム、サカモトをマコ、少将をケネス・ツァン、ベックをトーマス・イケダ、少女時代のおカボをゾーイ・ワイゼンバウムが演じている。「貧しい少女が置屋に売り飛ばされ、厳しい修業を積んだり先輩の嫌がらせを受けたりしながら、祇園で一番の芸者として成長していき、その中で客との恋も芽生える」という一人の女性の一代記である。
今の日本映画界だと、そういうプロットの作品を映画化しようなんて考えるプロデューサーや製作会社は、なかなか現れないのではないだろうか。
その理由は簡単で、1980年代までに使い古されてしまい、噛んでも味がしなくなったような題材だからだ。
新しいヒロイン像を生み出したり、意外な切り口から描いてみたりすれば、まだ可能性が全く残っていないわけではない。だが、わざわざリスクを負ってまで勝負するほど魅力的な素材には感じられないだろう。
そういう話をハリウッドが映画化するというのは、まだアメリカでは、日本の古い伝統文化に対して「エキゾチック・ジャパン」ということで神秘性や魅力を感じる人が多いということなんだろう。ヒロインのキャラクター造形やドラマを厚くしたり、脇役やエピソードを充実させたり、構成や映像表現に凝ってみたり、様々なポイントで工夫すれば、手垢の付いた話であっても魅力的に仕上がる可能性が無いわけではない。
しかし本作品は、取り立てて魅力的な人物が登場するわけでもなく、これといった見せ場があるわけでもない。
映像表現が面白いわけでもなく、個々のエピソードやドラマに質の高さを感じるわけでもない。
プロットから感じる「今さら感」を払拭することが出来ずに、退屈な仕上がりとなっている。
「さゆりが会長への想いを秘めながら、芸者として成り上がろうとする」というドラマにも、全く惹き付けられるモノを感じないし。日本人の芸者を中国人のチャン・ツィイー、ミシェル・ヨー、コン・リーが演じていることに関して、疑問や不快感を抱く人がいるかもしれない。
しかし、私は全く気にならなかった。
なぜなら、ここに描かれている日本は我々の住んでいる国ではなく、同じ名前を持った架空の国だからだ。
例えば、中世ヨーロッパを舞台にしたヒロイック・ファンタジー作品を連想してみればいい。ドラゴンや魔法使いが登場するが、実際のヨーロッパでそんな時代は存在しなかった。しかし、それをイギリスやアイルランドで起きた出来事として描いている。
そのことに対して、イギリスやアイルランドの人々は、きっと「事実じゃない」と批判しないだろう。それと同じようなモンで、これはあくまでも架空の世界観における「日本」を舞台にした作品なのだ。
だから、そこで起きている出来事が我々の住んでいる日本では考えられないようなことであっても、目じら立てて怒ってはいけない。
中国人が日本人芸者を演じていても、日本人同士の会話で英語を喋っていても、中途半端に日本語が混じっても、幼い頃は日本語訛りの英語を喋っていたヒロインが成長して中国訛りの英語を喋るようになっても、「そういう世界観なのだ」として受け入れるしかないのだ。「Sayuri」「Mameha」「Hatsumomo」といった日本語の芸者名が並ぶ中で、1人だけ「Pumpkin」という英語名の奴がいるが(「おカボ」というのは日本版だけの役名で、配役表記は「Pumpkin」)、そういう世界観なんだから仕方が無い。
神社の鈴を鳴らしたのに「ゴーン」という鐘の音が鳴り響いても、さゆりが芸者の日本舞踊とは大きく異なるダンスを披露しても、祇園の風景が祇園っぽくなくても、そういう世界観なんだから仕方が無い。
戦争で疎開する描写があるまでは、いつの時代なのかもイマイチ良く分からんし。千代は会長と会って「あの人に会いたい、あの人の住む世界に近付きたい」ということから芸者を目指すようになるのだが、そこに説得力をまるで感じない。
そりゃあ、親切にしてもらって好感を抱くのは理解できるよ。でも、「また会いたいから芸者を目指す」ってのは、思考が飛躍しすぎている。
「会長が芸者を連れていたから、自分も芸者になればいいのだと考える」という論法は分かるのよ。
ただ、そこまでして再会したいと思えるほど会長にゾッコン惚れ込むという部分に、説得力が欠けているのよ。で、そうやって「芸者になりたい」と思った千代だが、お母さんから稽古に行くことは許されず、奉公人として働くよう命じられているわけだから、芸者になれるはずもない。
どうしても芸者になりたいのなら、お母さんを説得して稽古を再開させてもらうとか、誰かの仲介で稽古を認めてもらうとか、別のルートを使って芸者になる道を探るとか、何かしらの手順を踏んで「こうして千代は芸者になるための一歩を踏み出した」という展開が必要になる。
しかし、シーンが切り替わると、成長した千代は相変わらず奉公人の暮らしを続けている。「芸者になりたい」と望んだものの、そのために行動することは無かったらしい。
彼女は豆葉に気に入られることで、ようやく芸者への道を歩み出すことが出来る。ただ、なぜ豆葉が千代を育てようと思ったのかは、お母さんだけじゃなく、ワシにもサッパリ分からん。
「どこかで成長した千代を見た豆葉が彼女の資質を見抜いた」ということでもないし。説得力が欠けていると言えば、豆葉が祇園で一番の売れっ子芸者だとか、初桃が稼ぎの多い伝説の芸者だとか、そういう部分の説得力も全く感じない。
それはミシェル・ヨーやコン・リーの演技力が乏しいとか、そういうことではなくて、見せ方の問題だろう。彼女たちを売れっ子芸者として表現しよう、大人気の芸者として描写しようという意識は、これっぽっちも感じられない。
女優の持っているオーラやカリスマ性に頼っているのかもしれんが、それだけじゃ厳しいだろう。それに、特にコン・リーの方は悪玉としての色付けが強すぎて、仕事中でも不良っぽさしか出ていない。
置屋では気品や美しさが皆無でも構わないけど、お茶屋に出た時には「性格は悪いけど、さすがは売れっ子」と思わせる立ち振る舞いや華やかさがあった方がいいんじゃないのか。千代は自分から積極的に動いて芸者への道を歩み出すのではなく、たまたまチャンスが巡って来ただけであり、完全に受け身の女性だ。
ハリウッド映画では強い女性が好まれる傾向にある中でそういう性格にしているのは、それも含めて「エキゾチック・ジャパンへの憧れ」なのかと思いきや、半玉としてデビューした途端、嫌味をぶつけてくる初桃に真っ向から嫌味で返すという強気な態度を見せている。
「千代」から「さゆり」になると同時に、「弱気な自分にサヨナラ」という展開にしたかったということのようだ。映画は「さゆりと会長は互いに恋心を打ち明けて結ばれました、めでたし、めでたし」という形で終わっているが、会長には奥さんがいるはずだから、さゆりは妾になることしか出来ない。
それをハッピーエンドと捉えていいのかってのは気になるが、しかし、それをもって本作品を批判することは出来ない。
なぜなら、ひょっとすると本作品の世界観では一夫多妻制が敷かれているのかもしれないし、あるいは「妾になるのも女の幸せ」というのが常識として通用しているかもしれない。
だから、本作品の問題は1点に集約されていて、それは「良く分からない世界観に付いて行けない」ってことだ。(観賞日:2014年1月3日)