『ジャンパー』:2008、アメリカ&カナダ

ミシガン州アナーバーに暮らす15歳のデヴィッド・ライスは、同級生のミリーに恋心を抱いていた。ある冬の日、デヴィッドはミリーに スノーボールをプレゼントした。だが、いじめっ子のマークがそれを見つけてスノーボールを奪い、大声でからかった。さらにマークは、 凍った川にスノーボールを投げ捨てた。デヴィッドはスノーボールを取りに行くが、氷が割れて川に落ちてしまった。「もう死ぬ」と彼が 思った次の瞬間、その体は公立図書館に移動していた。それが彼にとって最初の「ジャンプ」だった。
ずぶ濡れのデヴィッドが夜遅くになって帰宅すると、酒浸りの父ウィリアムが怒鳴り付けた。デヴィッドは5歳の頃に母メアリーが家出 して以来、父と2人で暮らしていた。デヴィッドは部屋に閉じ篭もるが、ウィリアムが乗り込んで来た。デヴィッドが慌てて逃げようと すると、また図書館に瞬間移動した。デヴィッドは自分に瞬間移動の能力があることを理解し、その能力があれば父との息苦しい生活から 逃れることが出来ると考えた。彼はミリーの家の前にあるブランコにスノーボールを置き、田舎町を出た。
ニューヨークにやって来たデヴィッドは、見たことのある場所にはジャンプできること、行ったことが無くても写真があればジャンプが 可能であることを理解した。彼は銀行の金庫にジャンプし、大金を盗み出した。事件の後、NSAのバッジを持ったローランドが銀行に やって来た。だが、彼はNSAの捜査官ではなく、ジャンパーの抹殺を目的とする組織「パラディン」のリーダーだった。
8年後、デヴィッドは様々な銀行から金を盗んで裕福な生活を送っていた。彼はロンドのパブで女をナンパし、ビーチでサーフィンを 楽しみ、スフィンクスの上で昼食を取った。パブで女を口説いた時、店にいた青年グリフィンはデヴィッドがジャンパーだと気付いた。 一方、ローランドは部下から、8年前の銀行強盗の手掛かりを掴んだという報告を受けた。デヴィッドが部屋に戻ると、ローランドが 待ち受けていた。ローランドに捕まりそうになったデヴィッドは、ジャンプの能力を使って逃亡した。
久しぶりにアナーバーへ戻ったデヴィッドはミリーのことを思い出し、彼女が働くバーへ赴いた。彼は悪酔いしたマークに声を掛けられ、 ケンカになった。デヴィッドはマークにタックルして銀行の金庫にジャンプし、彼を置き去りにした。デヴィッドはミリーを誘い、ローマ への旅行に出掛けた。その様子を、グリフィンが密かに観察していた。デヴィッドは高級ホテルに宿泊し、ミリーと関係を持った。一方、 ローランドは警察に拘束されたマークを尋問し、ミリーのことを聞き出した。
観光を楽しんだデヴィッドは、拝観時間の過ぎたコロッセオにミリーを連れて侵入した。立ち入り禁止区域に一人で入ったデヴィッドの前 に、グリフィンが現れた。グリフィンはデヴィッドに、「何度もジャンプして奴らにバレないとでも思っていたのか」と呆れたように言う 。そこにローランドの手下2名が現れて襲ってくるが、グリフィンが倒した。グリフィンは「こいつらはパラディン。ジャンパーを狩る。 俺は、こいつらを狩る」と告げ、コロッセオからジャンプした。
デヴィッドはグリフィンを追い、彼の隠れ家へとジャンプした。しかしグリフィンに「俺なら今すぐ彼女の元に戻る。そうすれば彼女も 生きているだろう」と言われ、すぐにコロッセオへと戻った。デヴィッドはミリーを連れてコロッセオを出るが、職員の通報で駆け付けた 地元の刑事に逮捕された。警察署に連行されたデヴィッドの前に、母メアリーが現れた。メアリーは「早く逃げるのよ。彼女は置いて いきなさい。貴方と一緒にいたら死ぬ」と慌ただしく言うと、すぐに立ち去った。
デヴィッドは刑事を別の場所に置き去りにすると、ミリーを連れて警察署を出た。そのまま彼は空港へ行き、ミリーをアメリカへ戻る 飛行機に乗せた。ローランドはウィリアムの元を訪れ、デヴィッドのことを尋ねた。デヴィッドはグリフィンを訪ね、パラディンについて 質問した。グリフィンは「奴らは中世の頃からジャンパーを殺してきた。お前の家族や友人や恋人も、みんな死ぬ。覚悟しておけ」と言う 。デヴィッドが実家へジャンプすると、そこにはウィリアムの死体が転がっていた…。

監督はダグ・リーマン、原作はスティーヴン・グールド、脚本はデヴィッド・S・ゴイヤー&ジム・ウールス&サイモン・キンバーグ、 製作はアーノン・ミルチャン&ルーカス・フォスター&ジェイ・サンダース&サイモン・キンバーグ、共同製作はジョー・ ハートウィックJr.、製作協力はサイモン・クレーン&ジェフリー・ハーラッカー、製作総指揮はステイシー・マエズ&キム・ ウィンザー&ヴィンス・ジェラルディス&ラルフ・M・ヴィチナンザ、撮影はバリー・ピーターソン、編集はサー・クライン&ドン・ ジマーマン&ディーン・ジマーマン、美術はオリヴァー・スコール、視覚効果監修はジョエル・ハイネック&ケヴィン・イーラム、衣装は マガリー・ギダッシ、音楽はジョン・パウエル、音楽監修はジュリアン・ジョーダン。
出演はヘイデン・クリステンセン、ジェイミー・ベル、サミュエル・L・ジャクソン、ダイアン・レイン、レイチェル・ビルソン、 マイケル・ルーカー、アンナソフィア・ロブ、マックス・シエリオット、ジェシー・ジェームズ、 トム・ハルス、クリステン・スチュワート、テディー・ダン、バーバラ・ガーリック、マイケル・ウィンザー、マッシミリアーノ・ パッツァグリア、ショーン・ロバーツ、ナタリー・コックス、メレディス・ヘンダーソン他。


スティーヴン・グールドのSF小説『ジャンパー 跳ぶ少年』を基にした作品。
『ボーン・アイデンティティー』『Mr.&Mrs. スミス』のダグ・リーマンが監督を務めている。
デヴィッドをヘイデン・クリステンセン、グリフィンをジェイミー・ベル、ミリーをレイチェル・ ビルソン、メアリーをダイアン・レイン、ローランドをサミュエル・L・ジャクソン、ウィリアムをマイケル・ルーカー、少女時代の ミリーをアンナソフィア・ロブ、少年時代のデヴィッドをマックス・シエリオットが演じている。

最初から3部作を予定して、製作が開始されているらしい。
だからなのか、この第1部(まあ続編が作られない可能性もあるが)は、色んなことが放り出されたままで終わっている。
おまけに、かなり中身が薄い。
前者は受け入れるとしても、後者に関しては「3部作の1作目だから」というのは、何の言い訳にもならないよな。
だったら中身を厚くして、2部作にまとめればいいわけだから。

とにかく、何から何まで軽くて薄くて浅い。
意図的にやっているのかもしれないが、だとしたら、その狙いが何なのかは不明だ。
いずれにせよ、その超ライトな感覚に付いて行けないと、この映画を楽しむことは難しい。
何しろ、ビールを期待していて、「まあ発泡酒か第三のビールでもいいかな」と思っていたら、ノンアルコールビールが出て来たような モンだからなあ。ノンアルコービールに慣れていない人にはキツいだろう。
っていうか、この例えは合ってるのかな。たぶん違うような気がするぞ。

ローランドは部下から「銀行強盗の手篝を発見した」という報告を受けるが、具体的にどんな手掛かりを得たのかは全く教えてくれない。 なぜ8年も経過してから手掛かりが出て来たのかも良く分からない。
ローランドはデヴィッドの部屋で待ち伏せするが、どうやって彼のことや住所を知ったのかは全く分からない。
ジャンパーの能力をローランドは知っており、ジャンパー狩りは複数でやっているはずなのに、なぜか1人でデヴィッドの元に行き、 まんまと逃げられている。

ローランドは部下に連絡を取り、「奴のジャンプする場所は分かっている」と言う。
その時に部屋に飾られた無数の写真を見ているので、どうやら「そこにある写真の場所にジャンプする」という意味なんだろう。
だけど、ジャンパーは写真で見た場所ならどこでも移動できるから、そこに飾られた写真の場所に限定は出来ないでしょ。
別の場所で何かの写真を見れば、そこにジャンプできるはずだ。
つまり、デヴィッドがジャンプできる場所は無限なのだ。

誰一人として魅力のある登場人物はおらず、誰に対しても感情移入できない。
デヴィッドは私利私欲で特殊能力を使い、軽微とは言えない犯罪を平気で繰り返す。そして、そこに何の罪悪感も抱かず、何かに悩むこと も無い。だから、「全てのジャンパーは悪党や悪党予備軍」というパラディンの主張には偏りがあるものの、少なくともデヴィッドに 関しては、抹殺されても仕方が無いと感じる。
グリフィンにしても、ものすごく軽薄であり、決して好感の持てるキャラではない。ヒロインのミリーも、8年ぶりに現れたデヴィッドに 口説かれてホイホイとローマまで付いて行き、すぐに関係を持つのだから、尻軽女にしか見えない。
パラディンにしても、その主張はイカれたカルト宗教チックであり、冷酷で無慈悲にジャンパーを始末する様子は、決して賛同できるもの ではない。しかも彼らは、ジャンパーだけでなく、その身内まで残酷に殺していくのだ。

どう考えても能力的にはジャンパーの方が圧倒的に上なのに、普通の人間であるパラディンを相手にして苦戦するのは、ジャンパーがアホ だからだ。
何しろデヴィッドとグリフィンは、危機的状況に追い詰められても仲間割れを始めるぐらいアホなのだ。
身勝手な上にオツムも悪く、そして軽薄。
監督や脚本家は、デヴィッドのどこに魅力があると思ってキャラ造形をしているんだろうか。

アメコミ映画みたいな作品だが、「主人公の特殊能力は正義や世界平和のために行使されねばならない」とか、そんなことは決して 無い。
私利私欲のためでなく、誰かを助けるためとか、何かを守るためとか、そういう目的のために行使されるのであれば、スケールの大きさは 必須条件ではない。
この映画の場合、前半の主人公は私利私欲のためだけに能力を使っているが、「次第に考え方が変化していき、自分ではなく他人のための 能力を使うようになる」という筋書きがあれば、リカバリーは可能だ。

終盤に入り、デヴィッドはミリーを助けるために能力を使うようになる。つまり、誰かを助けるために特殊能力を使うのであり、それは 筋書きとしてはOKだ。
ところが、そこに気持ちが乗っていかない。それは、デヴィッドの行動理由に問題があるのではない。
その展開になってもテンションが高まらない原因は2つある。
1つは、デヴィッドとミリーの愛が軽薄に見えること。もう1つは、デヴィッドが今までにやってきた悪行に対して、反省したり悔い 改めたりしていないということだ。

この映画で描かれるのは、クソみたいなチンピラであるデヴィッドと、残虐な悪党であるローランド一味との戦いってことになる。 それを楽しむのは難しい。
そこに深作イズムでもあれば、悪党同士の戦いを魅力的に描き出すことが出来たのかもしれない。
しかしダグ・リーマンは深作欣二でもないしクエンティン・タランティーノでもないので、深作イズムは持ち合わせていないのである。
っていうか、そもそも、この映画が「身勝手なチンピラと冷酷な悪人の戦い」という構図になっている時点でマズいわな。

(観賞日:2011年4月13日)

 

*ポンコツ映画愛護協会