『ジョニーは戦場へ行った』:1971、アメリカ

砲弾を浴びたジョー・ボーナムは陸軍医療隊によって収容され、軍医長のティレリー大佐は「軍の所有としよう」と言う。長引くことを部下が告げると、ティレリーは「こういう研究のためなら、1年ぐらい惜しくない。意識は無いが、脳髄だけは無傷で生き残った。つまり生きているんだ」と語る。ジョーは身元不明の負傷兵として、施設に運ばれた。ティレリーたちは「感情も意識も無いまま生き続ける」と捉えていたが、ジョーには感情や意識が残っていた。
ジョーは戦地へ赴く前に交際していたカリーンのことを思い出す。出征の前日、彼はカリーンの家で2人きりになった。心配するカリーンに、ジョーは「大丈夫だ」と告げた。ジョーは国のために奉仕すべきだという考えを口にするが、カリーンは大半の人間が戦死している事実を指摘する。そこへ父親が帰宅したので、カリーンは自分の寝室へ移動した。ジョーは叱責されるのではないかと考えるが、カリーンの父は「娘は怖がってる。傍に行ってやれ」と促した。ジョーはカリーンの部屋へ行き、肌を重ねた。翌朝、彼はカリーンに見送られ、戦地へ向かう列車に乗り込んだ。
ジョーは耳が聴こえず、体が全く動かないので、自分の状態が把握できなかった。ティレリーの指示によって、彼は占領軍第三基地病院へ運ばれた。ジョーはパン工場で働いていた時の出来事を振り返った。母からの電話を受けた彼は、父の死を知らされた。帰宅した彼は、もう動かない父に語り掛けた。ジョーは抜歯の時の感覚で、両腕が切断されている事実に気付いた。「働けなくなるじゃないか。切るなら同意を取れ」と彼は激怒するが、その声は誰の耳にも届かなかった。
ティレリーは医師たちに、「目立たない部屋へ移したい。空きが無ければ何度でもいい」と言う。ジョーは格納庫に運ばれ、外部の人間に見られないよう鎧戸が閉じられた。ジョーは戦地へ向かう列車を待っていた時の出来事を回想する。彼は仲間やキリストと呼ばれる男に、カード賭博に興じた。仲間の一人には幼い息子がいて、もう会えないことを覚悟していた。そのことを彼が冗談めかして話すと、キリストは「50歳の息子に会える。君は23歳のままだ」と述べた。
ジョーは両脚も切断され、「こんな状態で患者を生かしておくなんて、残酷なことを」と嘆く。彼はコロラドからロサンゼルスへ引っ越す時のことを回想する。幼い彼は父とボートに乗ったり、家族で教会へ出掛けたりした。ティレリーは看護婦たちに「後は看護するだけだ。何かあれば総司令部にいる」と告げ、病院を去った。顔の包帯を外されたジョーは、顎が無いことに気付いた。さらに念入りに確認した彼は、顔全体がえぐれて眼も口も歯も舌も鼻も無いことに気付いた。
ジョーはネズミが体の上を這い回っている感覚に襲われるが、どうやら夢らしいと分かる。自分が起きているか寝ているかも分からない彼は、心の中でキリストに問い掛ける。「どうすれば現実と夢の違いが分かるんだ」と訊かれたキリストは、すぐに答えを導き出した。しかしジョーが自身の状態を全て説明すると、彼は「君の現実が悪夢以上に悲惨なら、救えるフリをすることの方が残酷だ」と口にした。「今のこれは現実ですか、夢ですか」とジョーが尋ねると、キリストは「夢だよ」と言う。「僕は信じない」とジョーが告げると、彼は「誰も信じないよ。だから私は叶わぬ夢と同様に実在しない」と口にした。
師長はジョーの部屋を確認すると、鎧戸が締め切ってある状態を改善するよう担当看護婦に指示する。看護婦は「先生の指示なんです」と説明するが、師長は「日光を入れないと」と鎧戸を開けた。さらに彼女は、ベッドに毛布ではなくシーツを敷くよう命じた。彼女はジョーの体に触れ、「本当に気の毒な青年だわ」と呟いた。ジョーは日光とシーツの交換によって、昼夜の違いと日数の経過を把握できるようになった。彼は心の中で日数を数え続け、1年が経過した。ただし、今が何月なのかは良く分からなかった。
ジョーは自分が砲弾を浴びた時のことを思い出した。彼は仲間とはぐれ、英国軍の分隊と合流した。彼が塹壕でカリーンに手紙を書いていると、准将がやって来た。塹壕の前に放置されているドイツ兵の死体が悪臭を放っていたため、准将はティムロン伍長に回収して埋葬するよう命じた。ティムロンはジョーを含む数名を指名し、夜になって死体を埋葬した。敵軍からの砲撃が開始されたため、部隊は急いで避難する。ジョーは塹壕に逃げ込むが、砲弾を浴びてしまったのだった。
ジョーの担当看護婦が4人目に交代した。新しい看護婦はジョーの体に触れ、涙を流した。ジョーは触れた手の感覚で、彼女が自分への嫌悪感を抱いていないと気付いた。ジョーは夢の中でカリーンと再会し、「随分と呼んだけど、貴方は来なかった」と言われる。ジョーが「捕まってた。僕が行ってから、どれぐらい経った?」と訊くと、彼女は「分からない。永遠かもしれないわ。思い出せない」と答える。ジョーは「頼むよ。思い出してくれ。時間に追い付こうとしているんだ」とカリーンに告げる。
カリーンが「時間は人を老けさせるわ」と言うと、ジョーは「僕の場合は違う。僕と一緒に居れば、君は年を取らない。ずっと若いままだ。世界中で僕だけが、君を時間から守ってあげられる」と語る。ジョーがカリーンとキスを交わしていると、彼女の父が現れた。カリーンの父から「娘を妊娠させておきながら、手紙を書くのを止めた」と責められたジョーは、書ける状況に無かったことを釈明する。しかしカリーンの父は、ジョーを受け入れずに姿を消す。カリーンも「お別れよ」と言い、ジョーの前から立ち去った。
格納庫には新しいベッドが運び込まれ、ジョーは窓の近くに移された。4番目の看護婦のは点滴を用意し、ジョーの額に接吻する。ジョーは「彼女がアメリカ人ならいいな」と考え、今までに会った唯一のアメリカ人女性のことを思い出す。それはラッキーという娼婦で、彼女には5歳の息子がいた。ラッキーはニューヨークの寄宿学校に息子を入れていたが、それは将来の生活を考えてのことだった。私立なので授業料は高いが、ラッキーには充分な稼ぎがあった。
それからジョーは、父と親友のビルの3人で出征直前に出掛けたキャンプのことを回想する。ジョーは父の大切にしている釣竿を借りて、湖へ出掛けた。しかさ魚に引っ張られて釣竿を無くしたので、テントに戻った彼は申し訳なさそうな様子で父に打ち明けた。すると父は、「たかが釣竿じゃないか。最後の旅を楽しもう」と述べた。ある日、看護婦が体に「メリー・クリスマス」と文字を書いてくれたことで、ジョーは初めて日付を知った。夢の中で父から助言を貰った彼は、頭を動かして自分の意志を伝える方法を思い付く…。

監督はダルトン・トランボ、原作&脚本はダルトン・トランボ、製作はブルース・キャンベル、製作協力はトニー・モナコ&クリストファー・トランボ、撮影はジュールス・ブレンナー、美術はハロルド・ミケルソン、編集監修はウィリアム・P・ドーニッシュ、編集はミリー・ムーア、衣装はセアドラ・ヴァン・ランクル、音楽はジェリー・フィールディング。
出演はティモシー・ボトムズ、キャシー・フィールズ、マーシャ・ハント、ジェイソン・ロバーズ、ドナルド・サザーランド、ダイアン・ヴァーシ、ドナルド・バリー、エリック・クリスマス、エドュアルド・フランツ、ケリー・マクレーン、チャールズ・マックグロー、バイロン・モロー、サンディ・ブラウン・ワイエス、エドムンド・ギルバート、ベン・ハマー、ロバート・イーストン、マージ・レドモンド、ジョディーン・ルッソ、アリス・ナン、ケンデル・クラーク、マイク・リー、ジョセフ・カウフマン他。


『栄光への脱出』『いそしぎ』のダルトン・トランボが、自身の小説を映画化した作品。
カンヌ国際映画祭ではパルム・ドールを逃したものの、審査員特別グランプリ&FIPRESCI(国際映画批評家連盟)賞&国際エヴァンジェリ映画委員会賞の三冠に輝いた。
ジョーをティモシー・ボトムズ、カリーンをキャシー・フィールズ、ジョーの母をマーシャ・ハント、父をジェイソン・ロバーズ、キリストをドナルド・サザーランド、4人目の看護婦をダイアン・ヴァーシが演じている。
ジョーの夢に出て来る演説者を「ロバート・コール」という人物が演じているが、これはダルトン・トランボの変名だ。

映画が始まった直後は、ジョーの視点からの映像が写し出される。
そこからカメラがジョーの視点を離れた時に「現在の彼の姿」を描写するのかと思いきや、まだ出て来ない。それどころか、最後までジョーの姿が描かれることは無い。顔も体もスッポリと覆われているため、肉体の状態は見えないのだ。
肉体の損傷具合はジョーの独白による説明に留まっており、そのために残酷さは伝わりにくくなっている。
キワモノになる恐れはあるが、肉体を見せた方がインパクトが出ることは確かだ。
ただし当時の技術だと陳腐な作り物になってしまうことも考えられるので、肉体を見せない形を取るのも仕方が無いかな。

ジョーが病院にいるシーンは全てモノクロで、回想シーンや夢のシーンはカラー映像によって表現される。
現在のジョーにとっては、病院にいる自分よりも夢や妄想の方が「現実」なのだ。
ジョーは意識こそあるものの、眼も鼻も口も全て失われ、両手も両脚も切断された。何の自由も無い中で意識だけが動き続ける。
そんな状態で病院で生かされ続けているのは、傍から見れば「紛れも無い現実」だろうが、本人にとっては「悪夢」以外の何物でもないのだ。

原作小説は第二次世界大戦が起きた1939年に発表されるが、反戦的な内容だと判断されて1945年に絶版となった(実質的には発禁処分)。終戦後に復刊されるが、朝鮮戦争が勃発すると再び絶版となった。
それだけアメリカ政府や軍部が「反戦的なメッセージが強い小説だ」と捉えていると解釈していいだろう。
この映画版も、やはり反戦のメッセージは感じられる。
ジョーは戦地で砲弾を浴びて「生きた肉塊」になってしまうが、死ぬことを許されずに研究用として生かされ続ける。そういう話なのだから、そこから戦争や軍部に対する批判的な主張を読み取ることは出来る。

幼少期のジョーが父と釣竿について話すシーンは、反戦のメッセージが分かりやすく表現されている。
ジョーは父に「世界から民主主義を守るんだろ」と言われると、「民主主義って?」と尋ねる。「俺にも分からんが、他の政府と同じで若者に殺し合いをさせるんだろう」と父は答える。
「大人は殺し合わないの?」というジョーの質問に、「大人は家を守らないと。若者は家が無いから殺し合いに行かされる」と父は語る。
戦争を始めるのは大人なのに、前線に行かされて犠牲となる大半は若者だ。そういう意味での反戦メッセージが、そこからは読み取れる。

ただし、この映画に反戦メッセージが込められているのは確かだろうが、それだけには思えない。
もっと広く深いメッセージがあるように感じられる。
そもそもジョーが生かされ続けるのは「医療に役立たせるための研究用」という目的だから、そうなると「研究のために平気で患者を利用する医療現場への批判」という見方も出来なくはない。
まあ軍の医療施設による研究だから、それも含めて軍部批判という捉え方をした方がいいのかもしれないが、だとしても「人間の尊厳」とか「神の不在」とか、その辺りにまでテーマが広がっているように感じられるのだ。

例えばキリストを自称する男が登場するシーンなどは、単純に反戦を訴えたいだけなら全く必要性が無いはずだ。
ジョーが回想したり妄想を膨らませたりするのは、「出征する前の生活」や「幸せだった頃の日常」だけでいいはずだ。
出征して砲弾を浴びるまでは平穏に生活していたし、恋人もいて幸せだった。しかし砲弾を浴びて「生きた肉塊」に変貌してしまい、その全ては夢でなければ見られないモノになってしまった。
そういう形にしておけば、「だから戦争は悪い」という答えに結び付くのだから。

最初にキリストが登場するカード賭博のシーンでは、「不思議だ。12だと勝てない。13と同じはずだ」と口にしたり、死を覚悟する仲間に「50歳の息子に会える。君は23歳のままだ」と告げたりする。
その時点では、まだ彼の存在意義が見えて来ない。何のためにキリストと名乗る男を登場させたのかが、まだ全く分からない。
っていうか、単に「そういう呼ばれ方をしている仲間」というだけに留まっている。
しかし、次に登場した時には、彼が「キリスト」である意味が明確に表れている。

次にキリストが登場するのは、ジョーの妄想シーンだ。
彼はネズミが這い回る夢を見た後、「どうすれば現実と夢の違いが分かるんだ」と問い掛ける。「叫べばいい」とキリストが告げると、「でも僕は叫べない」と言う。「それなら自分に言い聞かせるんだ。目を開ければ夢は消える」という助言に、「でも僕には目が無い」と告げる。すぐにキリストは、「では寝る前に暗示を掛けろ」と適切な答えを導き出す。しかしジョーは、「眠気を感じない」と返す。
ここでキリストは少し思案し、「発想の転換が必要かもしれないな。本物のネズミなら追っ払ったはずだ。だから夢だよ」と言う。するとジョーは、それで大丈夫なのだと納得する。しかし直後、ハッと気付いて「「いや、もし本物でも、僕には追っ払う腕が無い」と口にする。
そこまで来た時、ついにキリストは答えを失う。そして「君の現実が悪夢以上に悲惨なら、救えるフリをすることの方が残酷だ」と言う。
その問答は、「ジョーの肉体は、神でさえ見放すような状態になってしまったのだ」ということを意味している。

ジョーは夢の中で、母親の声を耳にする。信仰の厚い母は、「神様だけが唯一の現実なのよ。人は神の姿に似せて作られた。お前は現実の神の反映だから、お前は現実」と語る。
しかし「生きた肉塊」へと変貌したジョーの姿は、もはや神様とは似ても似つかない状態になっている。
だから、もはや「神の姿と同じだから現実」という論法さえ成立しなくなっている。
母の声は、「現実は神であり、神の本質は愛よ。全ての恐れを消し去り、傷を癒やす完璧な愛」とも語る。
しかし神はジョーを癒やしてくれないし、愛を与えてくれない。

ジョーの夢には神父が登場し、「この聖なる正義の戦いにおいて若き命を捧げた全ての兵士たち。貴方たちの犯した全ての罪は許された」と語る。
しかしジョーは生かされ続けているので、許されることも無い。
ただの肉塊となった状態では、もはや「生」としての意味さえ危うい。ジョーが死を望んだとしても、大いに理解できる。それでもキリスト教の場合、自殺は罪になる。
しかし皮肉なことに、ジョーは自ら命を絶つことさえ出来ない。
だから彼は、もはや信仰心など失っていても、信仰を守ることになる。

終盤、ジョーは頭を動かしてモールス信号を打ち、自分の意思を伝える。外へ出たいと考えた彼は、見世物にしてくれと頼む。そうすれば、自分のような状態でも金を稼げるからだ。
しかしティレリーに拒否され、「それなら殺してくれ」と頼む。
もちろんティレリーは拒否し、窓を閉めるよう部下に命じる。そして、このことは口外しないよう同席した面々に要求する。ジョーに鎮静剤を打ち、静かにさせるよう指示する。
ジョーは確かに生きているし、自分の意思もある。しかし、その意志は封じられ、生きていることは秘密にされる。
その「生」は、もはや「死」よりも死んでいる。

ティレリーは同席した神父に、「せめて神を信じるよう彼に伝えてくれ」と言う。それに対し、神父は「彼のために一生祈るが、信仰では穴埋めできない」と告げる。
ティレリーが「それでも聖職者かね」と批判的に述べると、神父は「彼は軍隊が作った。神ではない」と辛辣な口調で言う。
そこで神父にティレリーを批判させることによって、また「反戦」としてのメッセージ性が強くなる。
ただし、そうやって宗教を善玉扱いしたところで、どっちにしろ神や信仰はジョーを救えないのだ。

(観賞日:2016年8月29日)

 

*ポンコツ映画愛護協会