『真実の瞬間』:1991、アメリカ
1947年、米国下院の非米活動調査会は、ハリウッドに調査の手を伸ばした。協力を拒否する者は告訴されて実刑判決を言い渡される。調査会に喚問され証言を求められた者は、共産党員として知人や友人の名前を挙げないと、仕事に就くことも出来ない。
1951年のハリウッド。売れっ子映画監督のデヴィッド・メリルは、フランスでの映画撮影からハリウッドに戻ってきた。新作映画に取り掛かろうとしていたデヴィッドに対し、20世紀フォックス社長ダリル・ザナックは弁護士のフェリックス・グラフに会うよう告げる。
グラフに会ったデヴィッドは、非米活動調査会のブラックリストに自分の名が挙げられていることを知る。彼は10年以上も前に2・3度集会に参加しただけで、共産党員ではなかった。調査会に協力することを勧めるグラフだが、デヴィッドは拒否する。
しかし、そのせいでデヴィッドは新作映画から降板させられ、製作費として与えられていた5万ドルの返済を要求される。その後も仕事は全く来なくなってしまった。ニューヨークで仕事を探すデヴィッドだが、やはり仕事は見つからない。
ようやく映画機材の修理店で働き出したデヴィッドだが、店にFBIが来たせいで辞めることに。ようやく三流映画を監督する仕事が来たが、それも途中でクビになる。そんなデヴィッドに、ザナックが新作映画の話を持ってきた。ただし、調査会の喚問に出席することが条件だった…。監督&脚本はアーウィン・ウィンクラー、製作はアーノン・ミルチャン、製作総指揮はスティーヴン・ルーサー、共同製作はアラン・C・ブロムクイスト、製作協力はネルソン・マコーミック、撮影はミヒャエル・バルハウス、編集はプリシラ・ネッド、美術はレスリー・ディリー、衣装はリチャード・ブルーノ、音楽はジェームズ・ニュートン・ハワード。
主演はロバート・デ・ニーロ、共演はアネット・ベニング、ジョージ・ウェンド、パトリシア・ウェッティグ、サム・ワナメイカー、ルーク・エドワーズ、クリス・クーパー、バリー・プリマス、ゲイラード・サーテイン、ロビン・ギャメル、ブラッド・サリヴァン、トム・サイズモア、ベン・ピアッツァ、マーティン・スコセッシ、ロクサン・ビッグス、スチュアート・マーゴリン、バリー・タブ他。
プロデューサーとして多くの作品を手掛けてきたアーウィン・ウィンクラーの初監督作品。アメリカの映画界で吹き荒れたレッド・パージ(赤狩り)に立ち向かおうとする男の姿を描く。マーティン・スコセッシが、映画監督の役で出演している。
どうもこの映画では、「調査会に抵抗した者は善であり、密告者や協力者は全て悪だ」という図式で描いているように見受けられる。
デヴィッドを締め出した映画関係者でさえも悪者のような描かれ方をしているが、本当に「悪」として描かれるべき存在は、「赤狩り」を行った政府組織なのだ。脅迫を受けたことによって、協力せざるを得なかったという人物も多いはずだ。
そういった「同情できる協力者」もいたはずで、そういった人々の苦悩を深く描けば、赤狩りの恐ろしさはもっと伝わってくるはずなのだ。つまり、協力を拒否したデヴィッドと同じぐらいの比率で、密告してしまった人物も描けば良かったのだ。協力拒否でデヴィッドが追い詰められる様子が、今一つ描かれていない。もっと非米活動調査会やFBIの圧力を映像として明確に見せるべきだった。政府組織の陰湿なやり口をちゃんと描くべきだし、デヴィッドの焦りも、もう少しハッキリ描くべきだ。
デヴィッドの友人である女優ドロシーが自殺する場面がある。
「赤狩りに追い詰められて死を選んだ」ということを描いて赤狩りへの怒りを示しているのだろうが、前振りが弱いために効果が薄い。
アル中になる以外にも、ドロシーの追い詰められていく様子を描いておくべきだった。赤狩りを描く流れと並行して、デヴィッドと別れた妻ルースとの恋愛劇が展開されるのだが、その場面には「赤狩りが悪だということをアピールする力を弱くする」という効果しか無い。ルースがデヴィッドにとっての逃げ道になっている感もある。
序盤の間に、デヴィッドが映画を撮影している風景を描いておいた方が良かった。
そういう「平穏に映画を製作している」という場面を描くことによって、それ以降の「自由に映画を作ることが不可能な状況」と比較させることができる。デヴィッドには、例えばヨーロッパヘ渡って映画製作を続けるという選択肢もあったわけだ。映画が全てだというデヴィッドが、映画の仕事を失ってもアメリカから離れなかった理由が分からない。実際、赤狩りを逃れて渡欧した映画関係者も数多くいるのだから。そこは、もう少しフォローが必要だったのではないだろうか。