『世界中がアイ・ラヴ・ユー』:1996、アメリカ

ホールデン・スペンスは恋人のスカイラー・ダンドリッジとデートは、キスを交わして幸せな気分になる。スカイラーの妹のDJが、この物語の語り手だ。彼女の家族はリッチで、パーク・アベニューのペントハウスで暮らしている。DJの継父のボブは弁護士で、前妻との間にローラとレインという2人の娘がいる。DJはミーハーな彼女たちと仲良しだ。ボブと前妻の息子のスコットは利口だが保守的共和党派で、ボブとは全く意見が合わない。
DJの母のステフィーは資産家の生まれで、富を罪悪視している。彼女はボランティア活動に身を捧げ、NYフィルの後援パーティーも主催している。レインとローラは名門女子校に通っており、良く見掛ける青年に恋心を抱く。DJの親友のクレールには、分析医の母親がいる。DJたちは壁に秘密の穴を開け、診察の様子を覗き見ている。フォン・シデールという女性は、男の夢ばかり見ることへの罪悪感を相談する。ホールデンの父親は徘徊癖があり、メイドのフリーダが世話をしている。
DJの実父のジョーはパリ住まいで、ステフィー&ボブ夫妻とは仲良くしている。離婚して何年も経つが、彼はステフィーを想い続けている。彼は何度も若い女と付き合っては、その度に振られている。今回はジゼルという女性に捨てられ、ステフィーは選ぶ女が悪いのだと告げる。ホールデンはスカイラーに贈る婚約指輪を選ぶため、DJを呼んでハリー・ウィンストンの店に行く。勧められた指輪の金額に動揺したホールデンだが、最低価格である8千ドルの商品を購入した。
ボブはスカイラーとホールデンの結婚を歓迎するが、DJは「スカイラーは自分をさらってくれる王子様を夢見てるだけよ」と手厳しい。ホールデンはレストランでスカイラーとデートし、結婚後の計画を語る。彼は親元で暮らし、子供は4人、スカイラーは専業主婦と考えていた。しかしスカイラーが「NYで暮らす。子供は2人。建築家になる」と言うと、全て彼女に合わせた。ホールデンはデザートに指輪を飾り、プロポーズしようと考えていた。しかしスカイラーは指輪に気付かず食べてしまい、病院で診てもらう羽目になった。
DJは7月をステフィーとNYで過ごし、8月に入るとヴェニスでジョーと合流した。ジョーはジゼルへの失恋を引きずっていたが、夕食を取っている時にカップルが通り掛かると「振り向くな。ホテルに泊まってる女性だ。魅力的だが結婚してる」とDJに言う。DJは女性がフォンだと気付き、「パパにピッタリだわ。美術史家で、テイントレットの絵を見に来たのよ。夫は役者だけど上手くいってない」と話す。彼女はフォンが朝は1人でジョギングすると知っており、2人きりになるチャンスだとジョーに告げた。
翌朝、ジョーはジョギング中のフォンに話し掛けるが息切れを起こし、そこへ彼女の夫であるグレッグが来てしまった。DJはフォンが美術館へ行くことをジョーに教え、知識を学んで引き付けるよう助言した。書物で勉強したジョーは美術館でフォンに話し掛け、狙い通りに彼女の気を引いた。夜、DJはジョーをパーティーに連れて行き、ゴンドラ漕ぎのアルベルトを紹介して「1月に結婚する」と告げた。5日前に出会ったばかりの相手と結婚すると言い出した彼女にジョーは驚き、「どうかしてる」と結婚に反対した。
ジョーはフォンと遭遇し、DJから仕入れた彼女の悩み事を語った。フォンは自分の気持ちを理解してくれると思い込み、ジョーにキスをした。翌朝、ジョーはパリに戻り、DJはNYヘ向かった。彼女は家族にアルベルトとの結婚を話し、コロンビア大学を中退するつもりだった。しかし空港で大学教授の教え子であるケンと遭遇したDJは、彼に乗り換えた。彼女がNYへ戻ると、ホールデンの父とボブは競馬の趣味で仲良くなっていた。レインとローラは気になっていたジェフリーと仲良くなり、彼が富豪の御曹司だと知った。
10月、ステフィーの誕生パーティーが開かれ、家族だけでなくホールデンと両親も参加した。ステフィーはパーティーに、出所したばかりのフェリーを招待していた。スコットは「犯罪者を家に入れるのか」と反発し、ボブはフェリーを警戒する。ステフィーは「更生した」と言うが、フェリーは自身の殺人を自慢げに語った。スカイラーはフェリーに口説かれると、あっさりと落ちた。フォンは分析医に会うと、ジョーについて「私のことを全て分かってくれる。今、NYに来てる」と語った。
DJの祖父が死去し、幽霊となった彼は葬儀で「今を楽しめ」と家族に言い残す。フォンはジョーとセックスし、一緒にパリへ来てほしいと誘われる。スカイラーはボブとステフィーに、「ホールデンとの結婚はキャンセルする。フェリーを好きになった」と明かす。ボブとステフィーは驚いて反対するが、スカイラーは耳を貸さなかった。ローラはステフィーに、「ジェフリーがレインとデートする」と泣いて漏らす。DJはケンと別れ、ラッパーに惹かれる…。

脚本&監督はウディー・アレン、製作はロバート・グリーンハット、製作総指揮はJ・E・ボーケア&ジーン・ドゥーマニアン、共同製作総指揮はジャック・ロリンズ&チャールズ・H・ジョフィー&レッティー・アロンソン、共同製作はヘレン・ロビン、撮影はカルロ・ディ・パルマ、美術はサント・ロカスト、編集はスーザン・E・モース、衣装はジェフリー・カーランド、振付はグラシエラ・ダニエレ、編曲&指揮はディック・ハイマン。
出演はアラン・アルダ、ウディー・アレン、ドリュー・バリモア、ルーカス・ハース、ゴールディー・ホーン、ギャビー・ホフマン、ナターシャ・リオン、エドワード・ノートン、ナタリー・ポートマン、ジュリア・ロバーツ、ティム・ロス、デヴィッド・オグデン・スティアーズ、スコッティー・ブロック、パトリック・クランショー、ビリー・クラダップ、トルード・クレイン、ロバート・ネッパー、エドワード・ヒバート、イツァーク・パールマン、ジョン・グリフィン、バーバラ・ホランダー、ティモシー・ジェローム、フレデリック・ロルフ他。


『ブロードウェイと銃弾』『誘惑のアフロディーテ』のウディー・アレンが脚本&監督を手掛けたミュージカル映画。
ボブをアラン・アルダ、ジョーをウディー・アレン、スカイラーをドリュー・バリモア、スコットをルーカス・ハース、ステフィーをゴールディー・ホーン、レインをギャビー・ホフマン、DJをナターシャ・リオン、ホールデンをエドワード・ノートン、ローラをナタリー・ポートマン、フォンをジュリア・ロバーツ、フェリーをティム・ロス、ホールデンの父をデヴィッド・オグデン・スティアーズ、ホールデンの母をスコッティー・ブロック、DJたちの祖父をパトリック・クランショー、ケンをビリー・クラダップ、フリーダをトルード・クレイン、グレッグをロバート・ネッパーが演じている。

ゴールディー・ホーンやエドワード・ノートンのように、ミュージカル経験があって歌唱力に期待できる俳優も何人か出演している。だが、お世辞にも歌が上手いとは言えない俳優もチラホラといる。
有名な俳優たちが得意ではない歌に挑戦している姿を、「微笑ましい」ってことで好意的に捉えることが出来る人もいるだろう。
だけど残念ながら私は、そういう気持ちになれなかった。
やはりミュージカル映画なので、「歌える人が歌い、踊れる人が踊れる」ってのが、あるべき形だと思うのだ。

「まだ吹き替えに頼らないだけマシじゃないか」と思うかもしれないが、ドリュー・バリモアの歌声は別人が担当しているので、そういう擁護も成立しない。
っていうか、他にも歌唱力が高いとは言えない俳優がいる中で、ドリュー・バリモアだけが吹き替えなのよね。他は甘い査定にしていたウディー・アレンでも「これは厳しい」と感じたぐらい、ドリュー・バリモアの歌は酷かったってことなのか。だとしたら、そんな人を、なぜ起用したのかと。
ミュージカル好きのウディー・アレンが念願のミュージカル映画を作ったはずなのに、なんで芸達者な役者を揃えなかったのか。
彼の人脈なら、それは可能だったはずだろうに。

ただ、「好き」と「上手」は全くの別物なので、演出にも難がある。それはオープニングから感じることだ。
まずデート中のホールデンが歌い始めるのだが、そこからカットが切り替わると、別の場所にいるベビーシッター3人組が歌う。そこから老女&看護婦、ホームレスと、それぞれ別の場所にいる面々が歌い継ぐ。
だけど、別の場所に切り替えながら数名が歌を繋げていくのなら、それは全て主要キャラにしておくべきだ。
そこだけのキャラに歌わせるのなら、ホールデンが街を歩く中で、その周辺にいる面々にすべきだ。

ミュージカル映画なんだから、基本的には歌と踊りで魅了していけばいいものを、ウディー・アレンの悪い癖というか、いつも通りの作風というか、かなり饒舌に台詞を喋りまくっている(DJのナレーションも多いし)。
それがミュージカシーンと上手く混じり合っていれば文句は無いが、残念ながら互いを殺し合っている。
台詞を重視するのなら、会話劇でリズムを作っていけばいい。
そっちをメインで見ると、ミュージカルシーンは邪魔になっている。

ホールデンが宝石店で高額な指輪に動揺すると、そこから「僕の恋人は高い指輪を欲しがったりはしない」と歌い始める。だけど、「そのタイミングは果たして正解なのか」と言いたくなる。
ミュージカルシーンでは歌い出すタイミングがものすごく重要なんだけど、そこで一発目から失敗していると感じる(オープニングは会話劇から入るのではなく、いきなり歌からスタートなのでタイミングも何も無い)。
あと、そこしか登場しない店員が歌を途中で引き継ぐのも、なんだかなあと思っちゃうわ。
これが「歌ってもらうためのゲスト」ってことでフィーチャーするならともかく、そういうことでもないんだし。

病院でスカイラーが診察してもらうシーンでは、レントゲンを見ていた医師が結婚に関する歌を歌い始める。
そこから看護婦や患者が歌い継いでいくのだが、「そこは歌うようなシーンじゃないだろ」と言いたくなる。
歌うとしても、せめて担当するのはホールデンだろ。登場したばかりの医師や患者たちに歌われても、「お前らは誰だよ」と言いたくなる。
ここも前述した宝石店のシーンと同じで、主要キャラじゃない連中が歌うシーンの多さは、どういうつもりなのかと。

ヴェニスでフォンが歌うシーンなんかは、直前まで話していたジョーが画面から消えて彼女だけになった時点で「これは歌い出すな」という匂いが漂いまくっている。
そういう意味では、ちゃんと準備が整っていると言えるかもしれない。
段取りとしては、「ジョーに心を惹かれた」という状況なので、タイミングを大きく間違えているわけではない。
ただ、歌にふさわしいほど雰囲気が高まっているのかというと、答えはノーだ。

そこに限らず全てのミュージカルシーンに言えることは、そのためのキャラもドラマも弱すぎるってことだ。
多くのキャラクターを配置して串刺し式にエピソードを並べているのだが、大きなストーリーが見えて来ない。
小さな出来事のスケットを散文的に並べているだけで、「この男女はどうなっていくのか」「この話はどう進んでいくのか」という興味を掻き立ててくれない。
次から次へと色んな出来事が起きるが、テンポがいいわけではなくて、ただ慌ただしいだけ。

コメディーとして描いているのは分かるが、DJが簡単に男を乗り換えるのも、スカイラーがフェリーに落ちてホールデンを捨てるのも、全く笑えない。
スカイラーはフェリーの強盗に巻き込まれて彼と別れ、ホールデンとヨリを戻すのだが、それはホールデンがバカみたいにお人好しだっただけで、スカイラーはクソみたいな女なのだ。
これを「軽い浮気に過ぎないよね。最終的にはハッピーだからいいよね」ってことで、楽しい気分で受け入れるのは難しい。

太い中心軸が見当たらず、これは何を描こうとしている映画なのかと言いたくなる。
例えばホールデンとスカイラーの恋愛が軸で、その周囲の人間模様も絡めて描くというわけではない。
たぶん、これは群像劇として捉えるべきなんだろう。
だけど群像劇としても散漫な上、それがミュージカルとしての作りと全く合っていない。タイトルが示す通り、様々な人々の恋愛模様を描こうとしているのは分かるけど、それが綺麗にまとまっていない。

例えば序盤でホールデンとスカイラーの恋愛関係が提示されるが、そこが軸になるわけではなく、しばらくは消えている。
ジョーは会ったばかりのフォンと簡単に親しくなるが、ここも淡白に切り上げて別の話に移る。姉を「白馬の王子を待っているだけ」と扱き下ろしたDJは出会ったばかりの男と結婚を決めるが、すぐ別の男に鞍替えする。
そんな中で、出て来たばかりのケンが恋愛について歌い始めても、「お前が歌うんかい」とツッコミたくなるだけ。
こんな奴に歌われても、ちっとも心地良くないのよ。

ハロウィーンのシーンでは、近所に住む子供たちが仮装して次々にダンドリッジ邸を訪れて歌うのだが、そこしか登場しない面々なので「お前らは誰なんだよ」と言いたくなる。知らない奴らにミュージカルシーンを担当されても、まるでピンと来ない。
映画パーティーのシーンでは主催者が呼んだグループによるミュージカルが披露されるが、これも同じことだ。
ラストの歌と踊りはゴールディー・ホーンが担当しており、それだけなら「ようやく見せ場と呼べるミュージカルシーンが訪れた」ってことになる。
だけど、「よりによって、なぜダンス・パートナーがウディー・アレンなのか」と言いたくなるんだよなあ。

(観賞日:2018年10月26日)

 

*ポンコツ映画愛護協会