『シャーロットのおくりもの』:2006、アメリカ

サマセット郡は平和な町で、事件など起きたことも無い平凡な場所だった。住人も動物も普通で、何の疑問も持たずに同じ毎日を過ごしていた。だが、ある年の春、小さな農場で少女が全てを変える奇跡を起こした。大雨の夜、エラブルが経営する農場で11匹の子豚が産まれた。幼い娘のファーンは喜ぶが、エラブルは1匹の子豚を「小さすぎて育たない」という理由で殺処分を決めた。それを知ったファーンが反対すると、エラブルは「子豚は11匹だが、母豚の乳は10個しか無い」と教えた。ファーンは「私が育てる」と父から子豚を奪い取り、抱き締めて「私がお乳をやって、お前を育ててあげる」と話し掛けた。
翌日からファーンは、子豚の世話を始めた。朝食の時間に子豚にミルクを与え、小学校にも内緒で連れて行った。しかし教師に見つかり、母が校長室に呼び出された。母は「その子は豚なのよ。動物として扱わないと」と告げるが、ファーンは耳を貸さなかった。ファーンはベビーカーに子豚を入れて運び、キッチンのシンクで体を洗った。しかし子豚が大きくなったため、父は「お前には限界だ。いずれは家で飼えなくなる」と語る。「じゃあ納屋で飼わせて」とファーンが頼むと、父は「駄目だ。ウチは動物を売ったお金で農具を買ってる。納屋は農具を置く場所だ」と言う。ファーンが「私はウィルバーを育てると約束したの」と抗議すると、母は親戚のホーマー・ザッカーマンに売ったらどうかと提案する。ホーマーの農場なら近くだし納屋も広いので、豚の1頭ぐらいは置いてくれると母は語った。
次の日、ファーンはホーマーの農場を訪れ、ウィルバーを納屋に置いて去った。ウィルバーが柵に体当たりを繰り返すと、それを見た羊のサミュエルやガチョウのグッシー&ゴリー、牛のビッツィー&ベッツィー、馬のアイクたちが話し始めた。ウィルバーは柵を壊して逃亡するが、ホーマーの妻のイーディスが気付いた。イーディスはホーマーと使用人のラーヴィーに、豚が逃げたことを知らせた。ホーマーが餌の入ったバケツを叩くと、ウィルバーは戻って来た。
ファーンは登校前にザッカーマン農場に立ち寄り、ウィルバーに声を掛けてからスクールバスに乗るのが日課となった。ウィルバーは雨の中で泥遊びを始め、農場の動物たちに「一緒に遊ぼうよ」と呼び掛ける。しかし誰も応じず、アイクは「ここは働く場所だ」と口にする。グッシーは自分が卵を温めていて動けないことをウィルバーに教え、「ここは遊び場じゃないの」と述べた。ウィルバーは餌が運ばれて来ても、「餌じゃなくて友達が欲しい」と言う。するとウィルバーの餌に誘われ、ネズミのテンプルトンが現れた。彼が残飯を食べていると、ウィルバーは「一緒に遊ばない?」と誘う。テンプルトンは「専門外だ」と拒否し、巣穴に戻った。
その夜、ファーンが家を抜け出そうとすると、母が「豚に会うのは明日にしなさい」と注意する。ファーンが「ウィルバーが待ってるの」と言うと、母は「今夜は駄目。宿題をしなさい」と告げた。ウィルバーが「おやすみなさい」と何度も呼び掛けていると、それに応じる女性の声がした。彼が「誰?」と尋ねると、姿の見えない相手は「夜行性の生物よ」と答えた。ウィルバーが「寂しいんだ」と吐露すると、相手は「今夜は眠って、明日になったら会話しましょう」と提案した。ウィルバーは承諾し、眠りに就いた。
翌朝、カラスのブルックスとエルウィンはトウモロコシを狙って畑に来るが、カカシを人間だと思い込んで動けずにいた。目を覚ましたウィルバーは昨夜の相手に呼び掛け、蜘蛛のシャーロットだと知った。他の動物たちが蜘蛛への嫌悪感を示す中で、ウィルバーは「蜘蛛を見るのは初めて」と興味を示す。シャーロットは「朝食の支度よ」と言い、蜘蛛の巣で獲物のハエを捕獲した。毒で麻痺させてから血を吸うのだと彼女が説明すると、ウィルバーは「気持ち悪い」と告げた。
シャーロットは「貴方は食事を貰える。でも私は自分で餌を捕るしかないの」と主張し、「この納屋に、世界中に何匹の虫がいると思う?蜘蛛がいなければ世界は虫だらけ。私はみんなの救世主よ」と誇らしげに述べた。ウィルバーはシャーロットと友達になって大喜びするが、テンプルトンたちは呆れ果てた。やがて季節は春から夏へと移り変わり、ウィルバーはシャーロットとお喋りしたりファーンに絵本を読み聞かせてもらったりして日々を過ごした。羊たちは毛を刈られ、すっかりスリムになった。
グッシーの卵は孵化し、7羽の子供が誕生した。しかし1個だけ孵化しなかったため、テンプルトンが持ち去ろうとする。グッシーが孵化を諦めたため、テンプルトンは巣穴に持ち帰った。エイヴリーが納屋に来てシャーロットを捕まえようとしたので、ウィルバーが足を引っ張って妨害した。ファーンとエイヴリーが納屋を去った後、ウィルバーはテンプルトンから「クリスマスになったら燻製小屋に入れられる。ソーセージやベーコンに加工される」と知らされる。「でも人間は豚が好きなんだよ」とウィルバーが狼狽すると、テンプルトンは「連中が好きなのは豚肉だ」と告げる。シャーロットはウィルバーに「今の話は本当なの?」と訊かれ、「春に生まれた豚が雪を見るのは難しいわ」と答えた。「そんなこと信じない。雪を見たい。僕は往きたい」とウィルバーが訴えると、シャーロットは「私が約束するわ。貴方を殺させたりしない」と述べた。
翌日、ファーンが納屋へ遊びに行こうとするので、母は「友達と遊んだら?」と促す。ファーンは「ネズミ以外は友達よ。絵本を読む約束だから」と笑顔で納屋に向かうが、心配した母は医師のドリアンに「動物が話すなんて有り得ないでしょう?」と相談する。ドリアンは「聞こうとしないだけかもしれない。子供の方が聞き上手なのかも」と言い、「まだ子供というだけです。悲しいことに、人はいずれ大人になる」と告げた。シャーロットはウィルバーを助ける方法を考え、夜の内に蜘蛛の巣で「SOME PIG(特別な豚)」という文字を書いた。次の朝、蜘蛛の巣を見たラーヴィーは慌ててザッカーマン夫妻に知らせ、異変に気付いたファーンも駆け付けた。
ザッカーマン夫妻は奇跡だと感じ、牧師のビーチャーとエラブル夫妻に知らせる。蜘蛛の巣を見たビーチャーは、「礼拝で話すので誰にも他言しないように」と釘を刺した。しかし目撃した面々は周囲の友人に話し、どんどん噂は広まっていった。農場には奇跡を見るため大勢の人々が集まり、ウィルバーはマスコミにも取り上げられる人気者になった。しかし数週間が経つと巣の文字はすっかり忘れ去られ、農場には平穏が戻った。
シャーロットは納屋で動物会議を開き、「いつ人間の気が変わるか分からない。ウィルバーを殺そうと思えなくなるような言葉は無い?」と問い掛ける。彼女は最終的にウィルバーの意見を聞き、今度は蜘蛛の巣で「TERRIFIC(最高)」という文字を書いた。また農場には多くの人々が集まるが、エラブル夫人はファーンが文字を作ったのではないかと推理してドリアンに相談する。ドリアンは彼女の考えを否定し、「蜘蛛は誰にも習っていないのに文字を作った。だから奇跡なんです」と語った。
夏が過ぎると観光客は来なくなり、シャーロットは再び動物会議を開いた。彼女はテンプルトンに、文字の書かれた紙を拾ってきてほしいと依頼した。「ウィルバーがいなくなったら残飯も無くなるのよ」と言われ、テンプルトンは引き受けた。ファーンはウィルバーかハムにされると知り、父に「知っていれば売らなかった」と抗議した。父は「豚は食用の動物だ」と言うが、彼女は「そうかしら」と反発する。サマセット郡の祭りで家畜の品評会が開かれることを知ったファーンは、チラシを近所に配ったり貼ったりした。
テンプルトンはブルックスとエルウィンに襲われて逃亡する途中、「Radinat!(ぴかぴか)」と書かれた紙を見つけた。彼は納屋に紙を持ち帰り、シャーロットが文字を作った。農場には大勢の人々が集まり、ホーマーはウィルバーを品評会に出すと宣言した。シャーロットは出産を控えていることをウィルバーに明かさず、「今は動けないから、品評会には行けないわ」とだけ告げた。品評会の朝、イーディスはバターミルクでウィルバーの体を洗う。ホーマーはエラブルから「負けたらどうする?」と訊かれ、「ベーコンにして売れば、参加費ぐらいは取り戻せる」と答えた。それを聞いたウィルバーは卒倒し、シャーロットは身重の体を押して付いて行くことに決めた。彼女はテンプルトンに「一緒に来て。決定的な言葉が必要なの」と訴え、ウィルバーのケージに同乗した。
シャーロットは品評会を翌日に控えた会場に到着し、「アンクル」と呼ばれる大きな豚に話し掛けた。彼女はウィルバーのために、「あの大きさに勝てる言葉を探して」とテンプルトンに頼む。テンプルトンはブルックスとエルウィンに狙われるが、罠を仕掛けて撃退した。テンプルトンは紙の切れ端を持ち帰り、シャーロットは「HUMBLE(ひかえめ)」の文字を作った。翌朝に文字を見たファーンたちは優勝間違いなしだと確信するが、既にアンクルが一等賞に選ばれていた。ファーンは落胆するが、巣の文字を目当てに大勢の人々が押し寄せた。審査員はファーンたちとウィルバーを呼び寄せ、表彰式で特別にメダルを授与する…。

監督はゲイリー・ウィニック、原作はE・B・ホワイト、脚本はスザンナ・グラント&キャリー・カークパトリック、製作はジョーダン・カーナー、製作総指揮はエドガー・M・ブロンフマン&ジュリア・ピスター&バーニー・ウィリアムズ&ポール・ニーサン、共同製作はアンソニー・ウィンリー、撮影はシェイマス・マクガーヴェイ、美術はスチュアート・ワーツェル、編集はスーザン・リッテンバーグ&サブリナ・プリスコ、衣装はリタ・ライアック、視覚効果監修はジョン・アンドリュー・バートンJr.、音楽はダニー・エルフマン。
出演はダコタ・ファニング、ケヴィン・アンダーソン、ゲイリー・バサラバ、ボー・ブリッジス、エッシー・デイヴィス、シオバン・ファロン・ホーガン、ネイト・ムーニー、ルイス・コーベット、ニコラス・ベル、ジュリアン・オドネル、ジョセフ・ロテスト、ロビン・アーサー、イアン・ワトキン、デニース・カービー、マイケル・ローランド、ドン・ブリッジス、ティーグ・ルック、ジュリア・ゼミロ、ロバート・プラゼク他。
声の出演はジュリア・ロバーツ、スティーヴ・ブシェミ、ジョン・クリーズ、オプラ・ウィンフリー、セドリック・ジ・エンターテイナー、キャシー・ベイツ、リーバ・マッキンタイア、ロバート・レッドフォード、トーマス・ヘイデン・チャーチ、アンドレ・ベンジャミン、ドミニク・スコット・ケイ、サム・シェパード他。


E・B・ホワイトによる同名の児童書を基にした作品。
監督は『スウィート・ナッシング』『13 ラブ 30 サーティン・ラブ・サーティ』のゲイリー・ウィニック。
脚本は『エリン・ブロコビッチ』『イン・ハー・シューズ』のスザンナ・グラントと『リトル・ヴァンパイア』『銀河ヒッチハイク・ガイド』のキャリー・カークパトリックによる共同。
シャーロットの声をジュリア・ロバーツ、テンプルトンをスティーヴ・ブシェミ、サミュエルをジョン・クリーズ、グッシーをオプラ・ウィンフリー、ゴリーをセドリック・ジ・エンターテイナー、ビッツィーをキャシー・ベイツ、ベッツィーをリーバ・マッキンタイア、アイクをロバート・レッドフォード、ブルックスをトーマス・ヘイデン・チャーチ、エルウィンをアンドレ・ベンジャミン、ウィルバーをドミニク・スコット・ケイが担当しており、ナレーターをサム・シェパードが務めている。
ファーンをダコタ・ファニング、エラブル氏をケヴィン・アンダーソン、ホーマーをゲイリー・バサラバ、ドリアンをボー・ブリッジス、エラブル夫人をエッシー・デイヴィスが演じている。

冒頭、ファーンは子豚の殺処分に反対し、自分で育てると主張する。彼女は父親から子豚を奪い取り、「私がお乳をやって、お前を育てて あげる」と話し掛ける。その態度は、子豚を犬や猫と同じようにペットとして可愛がろうとしているように見える。
しかし、それにしては大いに引っ掛かることがある。それは、「ファーンが子豚に名前を付けるシーンが無い」ってことだ。
普通、ペットとして意識したのなら、まず最初に名前を付けないか。でも彼女は子豚を「ウィルバー」と呼ぶのは、父から「そろそろ限界だ」と言われて抗議するシーンが初めてなのだ。
そこで普通に名前が出て来るってことは、ひょっとすると「育てると宣言した時点で名前も決めた」ってことかもしれない。ただ、「ファーンが名前を付ける」という手順を省略しているので、印象としては「名前を決めないまま子豚の面倒を見ている」ってことになっちゃうのよ。

少女が奇跡を起こしたとナレーションで説明しているけど、実際に奇跡を起こしたのはシャーロットなのよね。
冒頭のナレーションだと、まるで少女の名前がシャーロットみたいに思えるかもしれないけど、そうじゃないからね。
「納屋には多くの動物がいたが、生き生きとしていなかった。彼らを見違えるように変えたのはウィルバーだった」というナレーションもあるけど、ここでも動物たちを変えたのはファーンじゃなくてウィルバーだし。
なので、やっぱり冒頭の説明は間違いなのよ。

まるで「ファーンとウィルバーの絆を描く物語」みたいに始めているけど、実際は「シャーロットとウィルバーの絆を描く物語」なのよ。
いや、「シャーロットがウィルバーに無償の愛を捧げる物語」と表現した方が正確かもしれない。
ウィルバーはシャーロットがエイヴリーに捕まりそうになった時に助けているけど、基本的には「疑似母親であるシャーロットに守られる子供」という立場だし。
で、そういう話の構造を考えると、ファーンを主人公のように登場させたのは失敗だ。

序盤、ファーンと父の間で、ウィルバーについて「好きで小さいんじゃないわ。私が小さすぎたら殺す?」「お前は人間の子供だ。豚とは違う」「同じよ。パパの考えは不公平だわ。残酷すぎる」という会話がある。
だけど、人間と家畜である豚を同等に扱わないのは、そんなに批判されるようなことでもない。
それを「不公平」と言っちゃうと、例えば人間が動物を殺して肉を食べることも全否定される行動になってしまう。しかも殺しているから、「残酷」ってことになっちゃうよね。
「その子は豚なのよ。人形でも赤ちゃんでもないわ。動物として扱わないと」とエラブル夫人が言うけど、それに納得できちゃうのよね。

ファーンは「ウィルバーの世話をすると約束した」と強く主張していたのに、ホーマーへの売却は簡単に承諾する。それについては、全く抗議しない。
それは変だろ。ホーマーに売るってことは、自分で世話を出来なくなっちゃうんだからさ。
これが「ファーンはホーマーに懐いていて、彼ならウィルバーを大切に育ててくれると信じる」ってことならともかく、その時点ではホーマーが未登場でファーンとの関係性も全く分からない状態だし。
だから、そこでのファーンの対応には、違和感を禁じ得ない。

しかも、ファーンはウィルバーを連れて行く時も納屋に置いて立ち去ってしまい、ホーマーとは一言も交わさないのだ。
ウィルバーのことをホントに大切に思っているのなら、そして離れることが嫌であるならば、「ホーマーにウィルバーのことを頼む」という行動を取ろうとするんじゃないかと。
なぜ彼に会うこともなく、ただ納屋にウィルバーを放置するだけで済ませてしまうのか。
それは薄情な行動に見えてしまうぞ。

ホーマーは品評会でメダルを授与された時、「ウィルバーが平凡な町に奇跡を起こしました。ウチの農場も生き返らせてくれました」とスピーチする。
でも、ウィルバーが起こした奇跡って、「文字が作られる度に大勢の人々が集まった」というだけでしょ。それによって町にどんな風に変化したのか、どれほどの恩恵を受けたのか、それが全く伝わって来ない。
「ウチの農場も生き返らせてくれました」と言うけど、そもそも農場が経営難に陥っていた様子は無いし、奇跡によって大きく変化した様子も無い。大勢の人々が集まっても、農場だから何かを売って儲けるってのも難しいし。
じゃあ利益の面じゃなくて、何か精神的に「暗い気持ちだったけど明るく前向きになった」みたいな変化があるのかというと、そういうわけでもないし。

ウィルバーはファーンから名前を貰っているので、自分でも「ウィルバー」と認識しているのは分かる。しかし農場にいる他の動物たちは、たぶん名前を与えてもらっていないはず。それなのに個々の名前があって自分で認識しているのは、どういうことか。
まだ農場の動物に関しては「実はホーマーがそう呼んでいる」と解釈できないこともないが、シャーロットやテンプルトンに関しては「飼い主が名付けた」ってことは絶対に有り得ないし。
重箱の隅を突くような指摘かもしれないけど、そういうのが気になっちゃうのよね。
無粋なイチャモンに思えるかもしれないけど、そういうのが気になっちゃう類の作品になっちゃってるのよ。

そうなってしまった原因は、大きく2つあると思う。1つは、実写化したこと。
これが例えば幼児向けアニメーションだったら、そこは気にならないか、気になっても黙認できたんじゃないかと思う。でも、なまじ実写にしたせいで、そういうトコが余計なノイズとして浮き上がったんじゃないかと。
そして、こちらの方が重大な問題だが、もう1つは最初に「ファーンの物語」として始め、人間視点から描いたこと。
ウィルバーが置き去りにされた後、動物たちが台詞を話し始める。このタイミングで、「この映画は動物が喋るタイプの映画です」ってことが明らかになる。そして、そういう映画だと分かった時、「動物たちの物語として作れば良かったのに」と言いたくなる。
完全に「動物たちの物語」として描き、人間を「ほぼ背景」に徹底すれば、そういうトコは意識しなくても済んだはず。

シャーロットが「せめてもの気遣いとして、毒で麻痺させて痛くないようにする。最後に心から感謝の祈りを捧げる」と獲物を殺す行為について、ウィルバーに説明するシーンがある。
なので、それを「人間が家畜の動物を食べることの意味」に繋げるのかと思いきや、そこは完全に切り分けている。
「人間が動物を食べる」という行為については全く触れず、目を背けている。
だから、「ウィルバーを助けても、いずれウィルバーの兄弟は殺されて人間に食べられる」という確定事項についても、完全に黙殺している。

ホーマーは食べるために豚を育てているが、馬や羊やガチョウは別の目的で育てている。
しかし、ウィルバーのハム化を阻止して「豚を食べるために殺す」という人間の行動を否定してしまったら、「他の動物たちに課している目的も同じように捨て去るべき」ってことになってしまうんじゃないか。
馬に重い荷物を運ばせるのも、牛の乳を搾ってチーズを作るのも、羊の毛を刈って衣料品を作るのも、全てが「人間のエゴだからダメ」ってことになってしまうんじゃないか。

ファーンは全ての豚を愛して「食べるべきじゃない」と主張するわけじゃなくて、ウィルバーだけを特別扱いして助けようとしている。
でも、それって実は、不平等だよね。「家畜だからって安易に殺しちゃダメ」と主張したいのなら、全ての豚を守ろうとするべきで。
ここで「ウィルバーだげは特別」という扱いにしちゃうと、何が言いたいのか分からなくなってしまう。「それを肯定できるか否か」という問題はひとまず置いておくとして、テーマやメッセージが見えなくなってしまう。
ウィルバーがハムにされなかったら、彼の代わりに殺されて加工される豚がいるわけで。

ここまで書いて来た「他の豚はどうでもいいのか」「ウィルバーだけ特別扱いは不公平」という問題も、実は「ファーンが主人公」という見せ方をしなければ簡単に解消できる。
人間を背景として使い、「シャーロットがウィルバーを助けようとする」という動物たちだけの物語として構築すれば、そんな問題は全く気にならない。
シャーロットがウィルバーを助けようとするのは疑似母親として当然の行為だし、動物たちだけの話だから「豚は食用の動物」という人間の都合も無視できる。
訴求力を考えて人気子役のダコタ・ファニングをヒロインに据えたんだろうけど、それが大きな間違いだったのだ。

(観賞日:2021年9月1日)

 

*ポンコツ映画愛護協会