『地獄の黙示録』:1979、アメリカ

ヴェトナム戦争の最中、米軍空挺隊所属のベンジャミン・ウィラード大尉はサイゴンのホテルで酒を飲んでいる。彼は指令が下るまで、ひたすら待機していた。ようやく彼は指令本部に呼び出され、コーマン将軍とルーカス大尉から指令を受けた。その指令は、特殊部隊のウォーター・カーツ大佐を抹殺せよというものだった。
コーマンとルーカスの話によれば、カーツは数々の叙勲暦を持つ優秀な軍人だったが、特殊部隊に入隊してから異常な言動が目立つようになったらしい。そして現在、カーツはカンボジアのジャングルに潜み、原地人を支配下に治めて自らの王国を築いているというのだ。カーツはヴェトナム軍将校を二重スパイと決め付け、独断で処刑したことで殺人罪に問われていた。
ウィラードは指令を承諾し、硝戒艇に乗った。ナン川を進んでカーツの足跡を辿り、彼の王国へと向かうのだ。硝戒艇にはウィラードの他に、元プロサーファーのシェフ、機関士のランス、17歳のクリーン、そして船長のチーフという4名が乗り込んだ。しかしカーツ抹殺という目的を知っているのは、ウィラードだけだ。
ウィラードたちは護衛を依頼するため、第一空挺部隊のキルゴア中佐と面会する。キルゴアはシェフの存在に気が付くと、一緒にサーフィンをしようと誘った。ウィラードが護衛を依頼したのは、ヴェトコン勢力下の危険区域だ。しかしキルゴアは、そこがサーフィンに適した大波の来る場所だと知り、『ワルキューレの騎行』を大音量で流しながら攻撃した。
ウィラードたちはキルゴアの部隊と別れ、さらにナン川を進む。ウィラードは船の中でカーツに関するファイルに目を通し、コーマンたちから聞いたのとは全く別の印象を受けた。給油で陸軍基地に立ち寄った夜、慰問活動で3名のプレイメイトがやって来た。しかし興奮した兵士達が襲い掛かろうとしたため、3人はヘリに乗って逃げるように去って行った。
ウィラードたちは給油を終え、再びナン川を進んだ。チーフはウィラードの反対を押し切り、数名のヴェトナム人が乗った小船を止めて積荷を調べる。ヴェトナム人の少女が動いたため、クリーンは反射的に機関銃を乱射する。だが、少女は隠していた子犬を守ろうとしただけだった。チーフは瀕死の少女を病院に連れて行こうとするが、ウィラードが射殺した。
ウィラードは派遣された兵士から文書を受け取り、自分より先に同じ指令を受けたコルビー中尉がカーツの配下となっていることを知る。カーツの王国が近付く中、クリーンが銃弾を受け、チーフは原住民の槍に胸を貫かれて死亡した。やがてウィラード達は、カーツの王国に足を踏み入れた。そこにいた報道カメラマンは、カーツを偉大な男だと称した。王国を歩き回っていたウィラードは拘束され、原住民から神と崇められているカーツと対面した…。

監督&製作はフランシス・コッポラ、脚本はジョン・ミリアス&フランシス・コッポラ、撮影はヴィットリオ・ストラーロ、編集はジェラルド・B・グリーンバーグ、美術はディーン・タヴォラリス、音楽はカーマイン・コッポラ&フランシス・コッポラ。
出演はマーロン・ブランド、ロバート・デュヴァル、マーティン・シーン、デニス・ホッパー、フレデリック・フォレスト、アルバート・ホール、サム・ボトムズ、ラリー・フィッシュバーン、G・D・スプラドリン、ハリソン・フォード、ジェリー・ザイスマー、スコット・グレン、ボー・バイアーズ、ジェームズ・キーン、ケリー・ロッサル、ロン・マックイーン、トム・メイソン、シンシア・ウッド、コリーン・キャンプ、リンダ・カーペンター他。


まだ未完成の状態で出品されたにも関わらず、カンヌ国際映画祭でパルム・ドールと国際映画批評家連盟賞を受賞した作品(パルム・ドールは『ブリキの太鼓』と同時受賞)。
カーツをマーロン・ブランド、キルゴアをロバート・デュヴァル、ウィラードをマーティン・シーン、報道カメラマンをデニス・ホッパーが演じている。
他に、シェフをフレデリック・フォレスト、チーフをアルバート・ホール、ランスをサム・ボトムズ、クリーンをラリー・フィッシュバーン、コーマンをG・D・スプラドリン、ルーカスをハリソン・フォードが演じている。また、コルビー役でスコット・グレン、プレイメイトの1人としてコリーン・キャンプが出演している。
コーマンとルーカスの役名は、間違いなくロジャー・コーマン(コッポラの師匠)とジョージ・ルーカスから取っているんだろう。

この映画、オープニングからどれだけ時間が経過しても、なかなかタイトルが表示されない。劇場公開版では最後にタイトルクレジットが入るが、最初にカンヌで上映されたヴァージョンでは最後までクレジットが無い。ただし、ウィラードがカーツの王国に入る時、壁にペンキで「apocalypse now」と落書きしてあるのが確認できる。
原作のクレジットは無いが、モチーフになっているのはジョセフ・コンラッドの小説『闇の奥』だ。これまでオーソン・ウェルズやアンジェイ・ワイダなどが映画化を目指したが、ことごとく挫折に終わっている。
ただし、小説はアフリカのコンゴが舞台になっている。
小説を基にして、ジョン・ミリアスがヴェトナム戦争下のジャングルを舞台にした最初のシナリオを書いたのは1969年。
つまり、この映画の時代設定と同じ時期である。

当初、コッポラはプロデュースのみで、ジョージ・ルーカスがメガホンを執る予定だった。しかし製作会社との交渉が暗礁に乗り上げたり、サイゴンが撮影不可能な情勢にあったりという事情で時が過ぎ、そうこうしている内にルーカスは『スター・ウォーズ』の製作に入った。
そのためルーカスは、こちらの監督をコッポラに譲った。
もし当初の予定通りにルーカスが本作品を撮っていれば、「スター・ウォーズ」シリーズしか監督できない人にならずに済んだかもしれない。

コッポラはウィラード役をスティーヴ・マックイーンにオファーしたが、あっさり断られる。さらにアル・パチーノに声を掛けたが、こちらも拒否。
両名とも、フィリピンでの長期ロケを嫌がったらしい。

結局、ハーヴェイ・カイテルが選ばれてフィリピンへ入った。
ところが今度はコッポラがカイテルの芝居を気に入らず、撮影2週間でクビにしてしまった。
で、ようやく決まったのがマーティン・シーンである。

しかし、マーティン・シーンは心臓発作を抱えており、場面によってはスタンド・インを使うハメになった。その中には、ジョー・エステヴェスも含まれているらしい。エステヴェスは、ナレーションの一部も担当しているそうだ。
さらにマーティン・シーンはロケの厳しさから、酒に溺れてしまった。
冒頭、ホテルでウィラードがアル中状態で暴れるシーンがあるが、実際にマーティン・シーンが酔っ払っていたらしい。
指を切ったのもシナリオではなく、アクシデントだそうだ。

ウィラード役と違って、カーツ役はマーロン・ブランドでスンナリと決まった。
ところが、カーツは精悍な体つきのはずだったのにブランドは自堕落にデブっており、さらに酒に溺れ、しかも台本も全く読まずに現地入りしたらしい。
そのため、コッポラはセリフを短くしたり、その場でブランドに教えたり、デブを目立たなくするように撮影したりという苦労を強いられたようだ。

問題は、役者だけではなかった。
台風の襲来により、セットの大半が破壊されるというアクシデントも発生した。
さらに、ヘリコプターの使用でも問題が生じた。フィリピン政府がゲリラと戦うために、撮影現場からヘリコプターとパイロットを何度も持って行ったのである。
もちろん、その間の撮影は中断せざるを得なくなる。
トラブルの連続により、当初は4ヶ月を予定した撮影は、最終的に16ヶ月まで延びてしまった。
約1年の遅れである。
当然、撮影期間が長くなれば、それだけ製作費も増えてしまう。前述した台風でのセット破壊により、再びセットを組み直すための金も必要だ。
莫大な追加予算が必要になったため、コッポラは自腹を切るハメになっている。
ちなみに時間が掛かったのは撮影だけでなく、その後の編集作業だけでも2年という時間が掛かっている。

撮影が延びたのは、しかし前述したトラブルばかりが原因ではない。
コッポラがミリアスの仕上げた脚本を気に入らず、撮影を進めながらその場で変更を加えていったことも、原因の1つだろう。
もちろん、不安定な現場の状況に応じて対応したという事情もあっただろうが、「シナリオが定まらないまま見切り発車で撮影に入った」という見方は間違いではないと思う。

トラブルが続発するわ、納得のいくエンディングが思い付かないわで、コッポラ監督は撮影中にノイローゼに陥り、自殺願望に襲われたそうだ。
話の収め方が決まらないまま撮影を進めていたため、映画は時間が経過する内に瞑想状態へと入り込んでいく。
複雑で難解なものを作ろうとしたわけではなく、コッポラ自身も良く分からない状態に陥っていたのだ。

ヴェトナム戦争の時代を描いているが、これは反戦映画ではない。
もちろん、好戦的映画というわけでもない。
これは、戦争の悪夢と狂気を観客に体感させる映画として作られている。
しかし前述した要因によって、戦争の悪夢と狂気よりも、映画撮影の悪夢と狂気が色濃く浮かび上がる結果となった。

「オタク野郎の考え方はウザいよ」と思われるかもしれないが、私はコッポラと富野由悠季に共通したモノを感じている。
富野由悠季はアニメ界に燦然と輝く作品『機動戦士ガンダム』で高い評価を受け、やりたいようにやろうとして突き抜けた怪作『伝説巨神イデオン』で、ある意味では「終わった人」になった。
それと同じように、コッポラも映画界に燦然と輝く作品『ゴッドファーザー』で高い評価を受けて、やりたいようにやろうとして収拾が付かなくなった今作品で、ある意味では「終わった人」になってしまったのではないだろうか。

 

*ポンコツ映画愛護協会