『最高の人生のつくり方』:2014、アメリカ
オーレン・リトルは亡き妻であるサラの墓へ行くが、丘の上にあるので疲れて文句を言う。彼は「誕生日、おめでとう」と墓に語り掛け、持参した花束を置く。所有する敷地に野良犬が入って排便しようとしているのを見つけたオーレンは、ペイント弾を放って追い払った。不動産業者のオーレンは自宅である豪邸を売りに出しており、ベトナム人夫婦に紹介する。しかし相手が値下げ交渉を持ち掛けると、見学を打ち切る。仲介した若手のテッドから「現金の客を逃したな」と言われるが、オーレンは値段を下げるつもりなど全く無かった。
ビストロ「オークス」のステージでバンドをバックに歌っていたリアは、泣き出して「ごめんなさい、歌えない」と漏らす。オーレンは現在、自分が経営するアパートの1階に暮らしている。隣にはリアが住んでいるが、オーレンは住人と仲良くする気が全く無い。2階に住むカイルとケイトの夫婦が先に1階を希望していたことをリアから告げられても、まるで相手にしない。住人のレイが臨月を迎えた妻のケネディーと共に戻り、オーレンの車がスペースを独占しているせいで路上駐車を余儀なくされていることを抗議する。
「苦情は管理人に言え」とオーレンが突き放すと、レイは「とっくに言ってる」と告げる。彼はスペースの共有を求め、リアは「少しは思いやりを持つべきだわ」と諭す。するとオーレンは、「俺の妻は2年前に癌で死んだ。あれほど泣いたことは無い。思いやりはある」と反論した。翌日、オーレンはテッドの祖母である社長のクレアから、悠々自適に暮らしたければ家の値段を下げるよう促される。オーレンが黒人夫婦に自宅を紹介していると、息子のルークが現れる。ヤク中だったルークに対し、オーレンは冷たい態度を取った。
ルークは「母さんが死んで10年だし、墓参りに来た」と言い、ヤクとは手を切って刑務所に入ることを明かした。ルークは「娘のサラを預かってほしい。今月で10歳にになる。他に頼れる人がいない」と頼むが、オーレンは断って「子育ては経験したが、失敗した」と述べた。夜、オーレンはクレアとビストロを訪れ、リアの歌を聴く。結婚30周年を迎えた夫婦からリクエストを受けたリアは、自分も過去に結婚30周年を迎えたこと、夫を動脈瘤で亡くしていることを語った。
リアは歌い始めるが、すぐに泣き出してステージを降りてしまった。アパートに戻ったオーレンは、リアの泣き声を耳にした。リアが外へ出て来たので、オーレンは「大丈夫かい」と声を掛ける。リアは「いつものことよ」と笑う。外に置いてある料理を食べたオーレンは、「料理が上手いな」と褒めた。彼は「いい声をしてるな。胸に響く」と褒めた上で、トークには問題があると指摘する。「分かってるの。この仕事を始めたばかりで、上手く話せない」とリアが漏らすと、オーレンは死んだ人間の話をしないよう助言した。
翌朝、ルークがサラをアパートを連れて来る。オーレンは困惑するが、ルークは泣き出すサラに別れを告げる事情を知ったリアは、サラに「心配しないで。私が守ってあげる」と告げた。ルークはサラだけでなく、屋敷の近くで見つけた野良犬まで置いて行く。それはルークがペイント弾を浴びせた犬で、サラが「ペイント」と名付けていた。オーレンはリアに「とりあえず今日は預かってくれ。どうにかする」と言い、仕事に出掛ける。
クレアはルークが刑務所に入った理由について、「証券取引委員会に脅されたのよ。過去の株取引で上司の告発を迫られた凶暴者として長期刑をちらつかせ、司法取引を求めた。サラとの時間を守るため、彼は応じたの。でも上司は不起訴になり、ルークは無実の罪で刑務所に入れられた」とオーレンに説明した。テッドがフェイスブックでルークと親しくしており、詳細を聞かされていたのだ。アパートへ戻ったオーレンは、リアに「金を払うから数日だけ預かってくれ。母親を捜し出す」と言う。リアは「人の心に欠けてるわ」とオーレンを批判し、サラを自分の部屋で就寝させた。
翌朝、リアは沈んでいるサラを元気付け、一緒にイモムシを探しに出掛ける。オーレンはルークの悪友であるジェイソンを訪ね、ルークの妻について質問する。ジェイソンはリタという名前と、かつて彼女の両親が住んでいた家の住所をオーレンに教えた。オーレンがアパートへ戻ると、サラはケイトの子供たちと水遊びをしていた。オーレンは刑事のレイにメモを渡して「この家の10年前の持ち主を見つけたい」と告げ、駐車スペースで譲歩することを匂わせた。
ピアニストのアーティーがリアをデートに誘うためにアパートへ来ると、オーレンは「彼女は俺と寝てる。諦めろ」と追い払った。それを知ったリアが抗議に来ると、「君のギャラは安すぎる。俺が代理人になって収入を倍にしてやる」と語る。「代理人なんて要らない」とリアが拒むと、彼は「週休1200ドルの仕事を見つけるまで、家賃をタダにする」と持ち掛けた。オーレンはサラにサンドウィッチを作り、一緒にテレビを見た。リアが仕事から戻り、オーレンに寝ているサラを運ぶよう促す。オーレンから機嫌が悪いことを指摘されたリアは、「私はラウンジ歌手になりたい。だけど、もう65歳よ」と声を荒らげた。
オーレンはレイからリタの居場所を教えてもらい、サラに「金曜日にはママの所だ」と告げる。オーレンは電話で話しただけでリタとは会っていなかったが、荷造りを始めようとする。サラが「行きたくない」と漏らすので、リアはオーレンに「あの子の気持ちは?」と言う。オーレンは「調べたが、彼女はクリーンだ」と告げるが、かつてジャンキーだったと知ったリアは反対する。オーレンは「保護者は俺だ。母親の真似をしたければ犬でも飼え」と言い放ち、耳を貸さなかった。
サラは「おばあちゃん」と呼ぶリアに付き合ってもらい、オーレンの車でリタの家に向かった。リタはサラを見ると泣き出し、「貴方を忘れた日は一日も無かったわ」と抱き締める。しかしサラは彼女を突き飛ばし、オーレンに「いなきゃダメ?」と問い掛ける。リタが今もジャンキーだと知ったオーレンは、「いや、帰ろう」と言う。彼はリタに、「サラの誕生日だから、母親と会えたら嬉しいだろうと思っただけだ。これで再会できたし、来て良かった」と告げ、車で去った。
オーレンはサラを遊園地へ連れて行き、リアに「なぜ子供を持たなかった?」と尋ねる。リアは「夫と私は売れない役者で、どんな仕事も引き受けた。気付いた時は40歳になってた。その頃に妊娠したけど、両親が子育てのことで喧嘩ばかりしていたから怖かった。流産したから、自分が良い母親になれるかどうかは分からなかった。それ以来、子供のことは考えないようにした」と話す。オーレンは「俺は良い父親だったが、息子が悪かった。何をやっても長続きせず、続いたのはドラッグだけだ」と語った。
サラから「またママに会うの?」と訊かれたオーレンは、「お前が望むようにすればいい。今はおじいちゃんたちといればいい。パパを刑務所から出すまではね」と答える。アパートに戻ったオーレンはサラを寝かせた後、トークの練習をしているリアに話し掛ける。彼はショーの構成についてアドバイスし、「偏屈な俺も、君のことは好きだ。君の歌も好きだ。新しい曲を取り入れるといい」と言う。2人はキスを交わし、激しいセックスに及んだ。
オーレンがセックスを終えた直後に「そろそろ帰らなきゃ。サラが心配だ」と告げたので、リアは「そんなの酷い」と泣き出してしまう。翌朝になってオーレンは釈明するが、リアの機嫌は直らなかった。オーレンはルークを釈放してもらうため、有能な弁護士のデヴィッド・ショーを雇って判決に異議を申し立てる。ショーはルークの面会に出向いて事情を説明し、「すぐに出所できるよ」と告げる。オーレンはリアに週給1500ドルの仕事を決めて来たことを話し、機嫌を直してもらおうとする…。監督はロブ・ライナー、脚本はマーク・アンドラス、製作はロブ・ライナー&アラン・グライスマン&マーク・ダモン、製作総指揮はリズ・グロッツァー&ジャレッド・ゴールドマン&ロン・リンチ&アンドリュー・シェインマン&マーティン・シェイファー&タマラ・バークモー&レミントン・チェイス&グラント・クレイマー&ヴィタリー・グレゴリアンツ&ステパン・マーティローシアン、撮影はリード・モラーノ、美術はイーサン・トーマン、編集はドリアン・ハリス、衣装はリア・カッツネルソン、音楽はマーク・シェイマン、音楽監修はジュリア・ミシェルズ。
出演はマイケル・ダグラス、ダイアン・キートン、スターリング・ジェリンズ、フランシス・スターンハーゲン、モーリス・ジョーンズ、アンディー・カール、オースティン・リシー、アニー・パリッセ、スコット・シェパード、フランキー・ヴァリ、マイケル・テラ、ソーヤー・シンプキンズ、マックスウェル・シムキンズ、ヤヤ・アラフィア、ルーク・ロバートソン、メリル・ウィリアムズ、デヴィッド・アーロン・ベイカー、ジョニー・トラン、アルバート・ジョーンズ、アミラー・ヴァン、ルイス・フィゲロア、パロマ・グズマン、ロブ・ライナー他。
『最高の人生の見つけ方』『最高の人生のはじめ方』のロブ・ライナーが監督を務めた作品。
『最高の人生の描き方』というタイトルでテレビ放送されたこともある。
脚本は『恋愛小説家』『海辺の家』のマーク・アンドラス。
オーレンをマイケル・ダグラス、リアをダイアン・キートン、サラをスターリング・ジェリンズ、クレアをフランシス・スターンハーゲン、レイをモーリス・ジョーンズ、テッドをアンディー・カール、カイルをオースティン・リシー、ケイトをアニー・パリッセ、ルークをスコット・シェパード、終盤にリアが出演するクラブのオーナーをフランキー・ヴァリが演じている。『最高の人生の見つけ方』『最高の人生のはじめ方』『最高の人生のつくり方』という3本は邦題こそ似ているものの、内容としては何の関連性も無い全くの別物だ。
『最高の人生の見つけ方』がヒットしたので、「ロブ・ライナーが監督を務めている」という共通点を持つ『The Magic of Belle Isle』が便乗する形で『最高の人生のはじめ方』という邦題になった。
そして本作品も、それに続けとばかりに『最高の人生のつくり方』という邦題が付けられた。何か1つの映画がヒットした時、「同じ監督」とか「同じ主演俳優」という括りだけで、何の関係も無い映画に似たような邦題が付くというケースは少なくない。
安易に便乗しているだけなので、タイトルと内容が全く合致しないケースもあるが、この作品に関しては単純に「前の2作と似ていて紛らわしい」という問題がある。
ただ、それよりも気になるのが、実は『最高の人生のはじめ方』とプロットが似ているってことだ。
「妻を亡くして偏屈になっていた頑固で孤独な老人が、隣人や子供たちと交流することで少しずつ変化していく」というプロットが、まるで同じなのだ。
そんな似たような話の監督を、なぜロブ・ライナーは引き受けたんだろうか。この手の話が、よっぽど好きなのかねえ。オーレンは「偏屈で頑固、周囲と仲良くする気なんて全く無い」というジジイのキャラなのだが、実のところ、その設定は登場した直後に破綻していると言ってもいい。
そういう性格に設定して、そこから「隣人や孫娘と交流する中で少しずつ変化して」ってのを見せるのであれば、「偏屈で打ち解けようとしないから周囲から嫌われている」ってことにしておくべきだろう。
だけど、リアやケイト、ケイトの子供たちの様子を見る限り、オーレンってそんなに嫌われていないのよね。
オーレンの自慢げな言葉を受けてリアが笑ったり、オーレンが「うるさいぞ」と軽く注意したらケイトの子供たちが真似をしたりする様子が描かれるのだが、それだと「アパートの住人はオーレンの性格を理解した上で上手く付き合っている」という感じなのよ。
そうなると、「だったら無理してオーレンが変わる必要も無いよね」ってことになっちゃうでしょ。
登場した段階で、そんなに孤独でもないわけだから。その後にレイが登場し、本気でオーレンに文句を言う展開が訪れて、ようやく「ああ、やっぱり嫌われているのね」と感じることになるんだけど、だったら最初の子供たちやリアの反応は上手くないよ。そこからは「嫌われ者が少しずつ変化していく」という筋書きになるんだから、掴みの部分でオーレンの嫌われっぷりを存分にアピールしておかないとさ。
ところがオーレンは、リアが泣いていると「大丈夫かい」と心配したり、「料理が上手いな」「いい声をしてるな。胸に響く」と褒めたりする。死んだ旦那の名前を「平凡な名前だ」と評したり、「合間のトークが良くない」と口にしたりするけど、ずっと偏屈で嫌味なことばかり言うわけではない。
早い段階で「問題もあるけど、そんなに悪い奴でもない」ってのを露骨に見せちゃってるのよね。
もちろん、そんなことが無くても「心底から腐った奴」じゃなくて「根っこは優しさを持つ男」という設定なのは分かってるのよ。
分かってるけど、そっちのアピールを強めるのが早すぎるってことよ。『最高の人生のはじめ方』における「主人公と隣人の恋愛劇」は、主演のモーガン・フリーマンがジジイすぎるし、隣人役のヴァージニア・マドセンと年齢が26歳も離れていたので疑似親子みたいな関係性にしか見えず、なかなか厳しいモノがあった。
それに比べると本作品は、まずマイケル・ダグラスがジジイとしては若いし(ちなみにモーガン・フリーマンの7つ下)、ダイアン・キートンとの年齢差も2つだけなので、そんなに無理は感じない。
『最高の人生のはじめ方』の場合、そもそも恋愛劇の必要性を全く感じられなかったのだが、こちらは問題なく受け入れられる形になっている。本作品の場合、むしろサラとの関係が邪魔になってしまう。
その理由は簡単で、サラが登場する前にオーレンのリアの関係が描写されるからだ。
リアがステージで泣き、帰宅しても泣き、それを見たオーレンが心配する言葉を掛けるシーンまで用意されている。そんな風に2人の関係を描いていると、「だったら、そこだけで充分だよね」ってことになる。ところがサラが登場し、しばらくすると「やっぱりオーレンとサラの交流を軸にすべきじないか」と思ってしまう。
ただの隣人女性と孫娘だったら、そりゃあ間違いなく後者との関係を選ぶべきでしょ。
もちろん両方を描いて上手く融合させることが出来れば、何の問題も無い。でも、それが上手く消化できていないからマズいわけで。
オーレンはサラがアパートに来た当初、リアに預けっ放しにするもんだから、のっけから孫娘との交流が薄くなってしまうのよね。『最高の人生のはじめ方』の場合、主人公が交流する「隣人女性」と「子供たち」は母子の関係だった。だから子供たちと親しくなれば、おのずと女性とも親しくなるように出来ていた。
それが本作品の場合、リアはオーレンの隣に住む女性で、サラはオーレンの孫娘だから、赤の他人なのだ。
「リアがサラを預かる」ってことで関係を作っているけど、オーレンからするとバラバラの対象になっているわけで。
しかも、どちらもゼロの状態から関係を構築しなきゃいけないので、それを両方とも充実した描写にするってのは難しい。
例えばリアを昔の恋人という設定にでもしておけば、少しは助けになっただろうけどね。リアに代理人契約の話を持ち掛けた後、オーレンがサラを部屋に引き取っている様子が描かれる。数日はリアに預かってもらう約束をしたはずだが、彼女が仕事に行くので引き受けているってことらしい。
でも、「リアから押し付けられて仕方なく」という手順があるわけでもないのよね。そして彼はリアとのコミュニケーションを拒絶するでもなく、普通に会話を交わしている。サラに注文を付けられても怒らず、それに合わせてサンドウィッチを作っている。
普通に「それなのに孫娘と上手くやっている祖父」になっちゃってるのよ。
ところが、そこから「オーレンがサラと交流し、少しずつ心を開いていく」というドラマを描くのかと思いきや、リタの居場所を知ると、すぐに厄介払いでサラを追い払おうとするんだよね。つまり、孫娘に対する愛情なんてこれっぽっちも抱いていないのだ。
だったら、その段階で「サラと何となく上手く付き合っている爺さん」という姿を見せておくのは得策じゃないでしょ。もっとハッキリした形で、面倒に思っていることを示すべきで。ところがリタの元を訪れたオーレンはサラから「いなきゃダメ?」と訊かれると、「いや、帰ろう」と即答する。
もちろん、それは「リタがジャンキーだったから」ってのが理由だけど、だとしても「さっきまで何の愛情もサラに示さずに厄介払いしようとしていた男」が、一瞬にしてサラを預けることを中止するってのは、急変ぶりに困惑させられる。
やりたいことは分かるし、決して大まかな筋書きとしては間違っちゃいない。しかし、段取りとしては正解でも、そこに付随するドラマや心情描写が全く足りていないので、結果としては不正解になっているのだ。
その後でオーレンがサラに「おじいちゃん」と呼ぶよう促したり、自分の部屋で寝かせることを笑顔で話したりする展開も、「どこで孫への愛情に目覚めたんだよ」と言いたくなる。
なんかねえ、色んな意味で色んなトコが大雑把なのよ。しかも、それだけでも既に散らかって薄味になっているのに、「オーレンがルークの妻を捜す」という行動の中では「オーレンとルークの関係」にも突っ込んでいる。
オーレンがフェイスブックを開いて若い頃の息子の写真に目を留めたり、ジェイソンから「他の家には盗みに入っていたけど、オーレンの家はルークから止められていたから入らなかった」と言われたりする様子を描き、「オーレンが突き放していた息子への愛情を取り戻す」というドラマを描こうとする意識を見せるのだ。
そうなると今度は、「だったら、そこに話を絞ればいいんじゃないですか」と言いたくなってしまうぞ。
「オーレンとリアの関係」「オーレンとサラの関係」「リアとサラの関係」「オーレンとルークの関係」という4つを全て描こうとしているが、どれも薄味になっているし、上手く絡み合っていない。前述したように、この映画が「妻を亡くして偏屈になっていた頑固で孤独な老人が、隣人や子供たちと交流することで少しずつ変化していく」というドラマを描きたいのは間違いない。
もしかするとロブ・ライナー監督は、『最高の人生のはじめ方』の出来栄えがイマイチだったので、同じようなネタで再挑戦したいという気持ちだったのかもしれない。
しかし残念ながら、この映画も冴えない出来栄えだ。
やりたいことは良く分かるし、大筋としては目指すべき道を歩んでいる。ただ、ずっと道を少しずつ外れたままで歩いているような状態が続くのだ。
どのシーンを見ても「雑だなあ」「半端だなあ」「ボヤけてるなあ」という印象ばかりが湧いてくる。それにしても、せっかくビストロのオーナー役でフランキー・ヴァリが出演しているんだから、彼にも歌ってほしかったなあ。
そりゃあ、ダイアン・キートンの歌唱シーンは意外だったし、何となく得をしたような気はするのよ。ぶっちゃけ、この映画の観賞価値って、そこぐらいしか見出せないしね。
だけどフランキー・ヴァリが歌ってくれていたら、間違いなくダイアン・キートンの歌唱シーンよりも観賞ポイントとしては上だよ。もしもダイアン・キートンとのデュエットが実現していたら、そこは大きなセールス・ポイントになったと思うんだけどなあ。
例えば「ダイアン・キートンがフォー・シーズンズの曲を歌っていたら、途中でフランキー・ヴァリが参加する」とか、最高の見せ場になるでしよ。(観賞日:2016年8月7日)