『15時17分、パリ行き』:2018、アメリカ
スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの3人は、少年時代からの親友同士だ。2005年、カリフォルニア州のサクラメント。スペンサーの母であるジョイスとアレクの母であるハイディーは、一緒に小学校の教室へ赴いた。進路指導教師による個人面談より30分も早かったが、2人は似たようなことが心配だったので一緒に相談することにしたのだ。彼女たちは息子の中学進学について心配ていたが、その理由はクラスのイジメが影響しているのではないかということだった。
しかし教師はジョイスとハイディーに、スペンサーは読む力が劣っていること、アレクは注意力散漫であることを伝える。2人とも注意力欠如障害の疑いがあると言われたジョイスは困惑し、結論を急ぎ過ぎているのではないかと告げる。それを否定した教師が子供たちの薬物治療を勧めたので、ジョイスとハイディーは腹を立てて教室を去ることにした。「シングルマザーの子供は問題を起こす確率が高い」という教師の言葉に、ジョイスは呆れ果てた。
スペンサーはアレクを運動部長にして生徒会長選挙に出馬していたが、結果は落選だった。スペンサーはアレクが励ましても納得しようとせず、「誰も分かってない。ウンザリだよ」と苛立った。スペンサーが遅刻を指摘した教師のヘンリーに反抗的な態度を取ったため、2人とも校長室へ連行された。するとアンソニーが生意気な態度で、校長室から出て来た。校長のマイケル・エイカーズはスペンサーとアレクに、あの子には近付くな。愛想はいいが、人をトラブルに巻き込む」と忠告した。
スペンサーとアレクはバスケットボールの授業に参加し、アンソニーと同じチームになったので声を掛けた。アンソニーがボールを投げ付けた同級生に腹を立てると、コーチのマーレイが注意した。アンソニーが反発すると、マーレイは校長室へ行くよう命じた。スペンサーとアレクもアンソニーの後に続き、3人は仲良くなった。スペンサーはアンソニーを自宅に招き、モデルガンを自慢した。スペンサーはアレクと戦争ごっこをするつもりだったが、アンソニーが「もっと面白いことがある」と告げた。
ジョイスは友人からの電話で、スペンサーとアンソニーが彼女の家をトイレットペーパーで飾り付ける悪戯を仕掛けたことを知る。母から叱責されたスペンサーは、神に祈った。スペンサー、アレク、アンソニーの3人は歴史の教師に第二次世界大戦の戦略を教えてもらい、それを使って戦争ごっこに興じた。アンソニーが転校することになり、スペンサーとアレクに別れを告げた。その後もスペンサーとアレクは、教師から注意される日々が続く。学校へ呼び出されたハイディーは、アレクが離れた場所にいる父親と暮らすべきだと校長に言われて激怒した。アレクも引っ越してしまい、スペンサーは1人になって落胆し、ジョイスが励ました。
列車の乗客であるマークは、ある男がスーツケースを持ってトイレに入ったまま10分も出て来ないことに不審を抱いた。妻のイザベルは「着替えてるんじゃないの」と言うが、気になったマークは様子を見に行った。するとトイレから出て来たアヨブ・エルカザニは、前方にリュックを下げてマシンガンを手にしていた。トイレの前にいた乗客が取り押さえようとしている間に、マークはイザベルの元へ戻って逃げるよう指示した。車掌も事件に気付く中、マークはアヨブから銃を奪い取った。しかしアヨブは別の拳銃も所持しており、逃げようとするマークに銃弾を浴びせた。
大学生になったアレクはパソコンの講義に出席し、教授からデータ分析の必要性を説かれる。希望の仕事を問われたアレクが軍に入りたいと言うと、教授は「軍でも数字は必要です」と述べた。しかし彼は、そういうことに全く興味が持てなかった。スペンサーがカフェで仕事をしていると、1人の海兵隊員がやって来た。スペンサーが敬意を示して代金を無料にすると、海兵隊員は高額のチップを置いて去った。スペンサーはアンソニーと一緒にテレビを見ながら、空軍のパラレスキューに入ろうと考えていることを明かす。アンソニーが出来ないと思っていることを知ったスペンサーは、トレーニングを開始した。
スペンサーは1年後の入隊試験に合格したものの、空軍のパラレスキューに関しては「適正無し」と判断されてしまった。彼はジョイスの前で激しく苛立ち、「努力しても駄目なら最悪だ」と吐露した。スペンサーはアンソニーに希望の配属先ではなかったことを明かして、「やる気が起きない。俺は戦場で命を救いたかった」と話した。「どんな仕事でも人は助けられる。大事なのは生き方じゃないのか」とアンソニーは言うが、スペンサーの心には響かなかった。
軍での活動を始めたスペンサーだが、他の面々より課題の完成が遅れていた。寝坊して訓練に遅刻したスペンサーは、課題でも落第になる。入隊していたアレクは戦地へ赴くことになり、ハイディーは空港まで車で送り届けた。スペンサーが救命の授業を受けていると、基地内で銃撃事件が発生したというアナウンスが入った。訓練生は指示があるまで身を隠すよう指示されるが、スペンサーは命令に従わず犯人を撃退しようと目論んだ。しかし警報は誤報であり、スペンサーは教官や他の訓練生からバカな行動だと指摘された。
アレクはアフガニスタンでリュックを盗まれ、村へ戻って取り戻した。スペンサーはテレビ電話でアレクに連絡を取り、ヨーロッパ旅行へ誘った。アレクは快諾し、しばらくドイツで過ごすつもりだと語る。アンソニーもスペンサーから旅行に誘われ、金が無いと言いながらもOKした。スペンサーとアンソニーはローマでホステルに宿泊し、街へ繰り出した。一方、アレクはドイツで友人のレアと会い、祖父が軍にいた頃に駐留していたことを語った。
スペンサーとアンソニーはリサという女性と知り合い、一緒に観光や食事を楽しんだ。スペンサーとアンソニーはベルリンに移動し、観光ツアーに参加した。2人はアレクと合流し、アムステルダムまで遠出してクラブに繰り出した。二日酔いで翌日の昼まで眠り込んだ3人は、今後の予定について話し合う。アレクとアンソニーはパリへ行く予定を延期しようと提案するが、スペンサーは最初のプラン通りに行動するべきだと主張する。アレクとアンソニーもスペンサーの意見を受け入れ、3人はパリ行きの列車に乗り込んだ…。監督&製作はクリント・イーストウッド、原作はアンソニー・サドラー&アレク・スカラトス&スペンサー・ストーン&ジェフリー・E・スターン、脚本はドロシー・ブリスカル、製作はティム・ムーア&クリスティーナ・リヴェラ&ジェシカ・マイアー、製作総指揮はブルース・バーマン、共同製作はデヴィッド・M・バーンスタイン、撮影はトム・スターン、美術はケヴィン・イシオカ、編集はブル・マーリー、衣装はデボラ・ホッパー、音楽はクリスチャン・ジェイコブ。
出演はスペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラー、ジュディー・グリア、ジェナ・フィッシャー、ウィリアム・ジェニングズ、ブライス・ガイザー、ポール=ミケル・ウィリアムズ、トーマス・レノン、P・J・バーン、トニー・ヘイル、マーク・ムーガリアン、イザベル・リザシェ・ムーガリアン、クリストファー・ノーマン、レイ・コラサーニ、アイリーン・ホワイト、セス・メリウェザー、マシュー・バーンズ、ハイディー・サルツマン、リリアン・ソランジェ、ジャンヌ・ゴールソウ、アリサ・アラパッチ、エレナ・キャンベル=マルティネス他。
2015年に起きた銃乱射テロ事件を基にした作品。
監督は『アメリカン・スナイパー』『ハドソン川の奇跡』のクリント・イーストウッド。
『夜に生きる』や『フィストファイト』にプロダクション・アシスタントとして参加していたドロシー・ブリスカルが、映画初脚本を担当している。
スペンサー・ストーン、アレク・スカラトス、アンソニー・サドラーの3人が、本人役で出演している。
ジョイスをジュディー・グリア、ハイジをジェナ・フィッシャー、少年時代のスペンサーをウィリアム・ジェニングズ、少年時代のアレクをブライス・ガイザー、少年時代のアンソニーをポール=ミケル・ウィリアムズが演じている。実話を基にした映画は数多く作られているが、中には「あくまでもモチーフにしただけで脚色が多く含まれている」というケースもある。
しかし本作品は、事件に関する部分にほとんど手を加えておらず、「実録ドラマ」という形を取っている。
それだけでなく、前述したようにメインの3人は当時の事件に遭遇した面々を起用し、それ以外でも多くの乗客(マークとイザベルの夫婦など)が本人役として参加している。
実話を基にした映画の中でも、かなり異例と言っていいだろう。映画の世界ではポリティカル・コレクトネス(政治的や社会的な差別・偏見を含まず、公正・中立であること)が重視されるようになり、そこでの批判を避けるために、製作サイドは神経質になっている。主人公がグループで行動する場合、メンバーとして白人男性だけでなく女性も黒人もアジア系も含まれる設定にしたりするのは、その一例だ。
だから過去のヒット作をリメイクする場合には、キャラの性別や人種が変更されるケースも増えている。
そんな潮流に対して不快感を抱いていることを、クリント・イーストウッドは以前から堂々と公言していた。ポリティカル・コレクトネスに媚びることに、みんなが辟易しているのだと主張していた。
確かに、それが過剰になって、何でもかんでも差別だ偏見だと騒ぎ立てることが良いとは思わない。
ただ、クリント・イーストウッドはドナルド・トランプをアメリカ大統領として全面的に支持し、その差別発言も擁護しちゃうような人なので、それはそれで問題があるんじゃないかとは思う。ちょっと話がズレたが、ともかくクリント・イーストウッドはポリティカル・コレクトネスを煩わしいと感じている人だ。この映画でも、実話を基にしているだけに、下手をすると批判の対象になる恐れがある。
前置きが長くなったが、実際に事件の当事者だった3名を本人役で起用したのは、そういう批判を避けるためではないかと邪推したくなってしまうんだよね。
そうすることで、「だって本人だからね」と主張することが可能になるからだ。
正直に言って、それぐらいしか本人を起用する意味って見出せないのよね。あえて他の理由を考えてみると、「実験」という可能性もある。「素人である3人に自分自身を演じさせたら、どんなことになるだろう」という興味から、それを実現させてみたということは考えられる。
クリント・イーストウッドは守りに入る必要もないぐらいの人間だから、そういうチャレンジをしたくなった可能性は考えられる。
ただ、どういう理由で本人を起用したにしても、結果としては大失敗だったと言わざるを得ない。
理由は簡単で、「だって本人だからね」ってことだ。
3人とも素人なので、演技力なんて皆無なのだ。素人が急に映画で主演を務めたらどうなるか、そりゃ誰だって予想できるよね。
「実は天性の才能があった」という稀なことでも起きない限り、その3人が出ている間は大根芝居が繰り広げられることになるわけだ。
これが「素人臭さが作品の魅力になる」とか、「それが役柄にフィットする」という内容なら、上手い方向へ転がることもあっただろう。
しかし本作品は、そういう内容ではない。たまにテレビ番組で「素人が本人役を演じた再現ドラマ」ってのがあるけど、そういう状態に陥っているのだ。冒頭、1人の男をカメラが追い掛ける。男は駅を歩き、列車に乗り込む。この時点では正体不明だが、実は犯人のアヨブ・エルカザニだ。しかし、その後、アヨブの行動を丁寧に追い掛けたり、犯行の背景に切り込んだりすることは無い。
「銃乱射テロ事件を基にして、当事者の3人が本人役で出演している」ってことを考えれば、その事件だけにスポットを当てればいいはずだ。犯人を掘り下げるとか、事件の背景に切り込むという意識は無いんだし、『ユナイテッド93』みたいな作風にするのが望ましいんじゃないかと思う。
しかしクリント・イーストウッド監督は、ドキュメンタリー・タッチとは全く異なる方針を取った。なんと、メイン3人の小学校時代から描く構成にしてあるのだ。そこで描かれるのは、主にスペンサーの姿だ。メインは3人だが、実質的には「スペンサーが主役でアレクとアンソニーは脇役」という立ち位置だ。
小学生の頃のスペンサーは、生徒会長選挙に落ちて激しく苛立つ。そこからは「自分は特別だ」という思い込みや、承認欲求の高さが窺える。
しかし、それ以降の言動を見ていると、そっちの方向でキャラを描くわけではない。それ以降は、「スペンサーがアレクと仲良くしていてアンソニーとも仲良くなったけど、2人とも引っ越して寂しくなりました」ってのが描かれるだけだ。
成長したスペンサーが登場すると、今度は「軍に入ろうとする」という行動が描かれる。そんな彼に、アンソニーは「出来ないと思わない。やらないと思ってるだけだ」と言う。それまでのスペンサーも、「これをやる」と言ったのに、簡単に諦めていたからだ。しかしスペンサーは、今回はトレーニングを積んで全力で取り組んでいる。ただ、なぜ今回だけは真剣に取り組んだのか、なぜ今回だけは途中で投げ出さなかったのか、その理由は全く分からない。
また、「小学生時代のエピソードって、ホントに必要だったのか」という疑問も、そこでは生じている。
「アレク&アンソニーとは小学校の頃から仲良しだった」ってのを描くためには、必要と言えるかもしれない。
ただ、成長した時点から始めて「幼い頃から仲良し」ってことに言及するだけでも、まるで支障は無いんだよね。
小学校時代のエピソードが成長してからのドラマに上手く繋がっているのかというと、それは全く感じないのよ。ジョイスが「貴方は幼い頃から戦争という言葉が聞こえると、テレビに飛び込んで加わりたがっていた」と言い、スペンサーが「そうさ。助けたかったんだ」と口にするシーンがある。
そのやり取りだけを聞けば、「スペンサーは幼い頃から人を助けたがっていた」ということになり、それが事件での行動に繋がるという流れも見える。
しかし実際に映画を見ていても、小学校時代のスペンサーに「人を助けたい」という要求など微塵も見えないのだ。
軍への入隊を志願した時も、そこに「幼い頃から戦地で人を助けることを望んでいたから」という動機は全く感じられないのだ。スペンサーが大人になって軍に入隊した後、ヨーロッパ旅行へ出掛ける展開に入る。この旅行の途中で、彼らは事件に巻き込まれることになる。だから、それまでの時間帯に比べれば、事件との距離はグッと近付いている。
ただし必要性という観点から比較した場合、まるで大差が無い。そこで描かれるのは、「スペンサーたちがヨーロッパを旅行し、観光を楽しみました」という出来事だ。それって、事件に何の関連性も無いからね。
「楽しい旅行だったのに、事件に巻き込まれてしまった」という落差を付ける程度の意味であれば、無理をすれば見出すことも出来なくはない。
だが、その解釈を強引に受け入れるとしても、「そんなに20分ほどを取る必要は無いよね」と問われたら返す言葉は無い。
それに対して、事件パートに割いている尺は10分程度なんだぜ。スペンサーの成長を、ずっと追い掛けているわけではない。母から叱責されたスペンサーが神に祈った後、カットが切り替わると1シーンだけ「列車で銃を拾う犯人をスペンサーが見ている」という様子が写し出される。
また、粗筋でも触れているように、アレクの引っ越しでスペンサーが落ち込むシーンの後には、事件が発生した時の様子が描かれる。
だけどスペンサーの成長を追うパートと、その事件と、全く繋がっていないんだよね。
事件パート以外の部分を全てカットしても、何の問題も無く成立してしまうのだ。アンソニーがスペンサーに「どんな仕事でも人は助けられる。大事なのは生き方じゃないのか」と説く台詞があるが、これをキーワードとして使おうとしているんじゃないかという匂いはあるんだよね。
つまり、それまでスペンサーは「人を救いたい」と思っていたけど実現せず、列車で事件が起きた時にヒーローとして活躍して「ようやく希望が叶った。大事なのは生き方だった」という着地になるような流れを意図していたんじゃないかってことだ。
そうだとすれば、スペンサーの生い立ちを描くことの意味は見えてくる。
だけど実際のところ、そんなドラマは全く描けていないので、「事件パート以外は要らない」という感想は全く揺るがないのである。むしろスペンサーの成長を追い掛けることで、こいつの主人公としての魅力には大きなマイナスになっているとしか思えないのよね。
彼は基地で事件が発生した時、命令に従わず犯人を退治しようと目論む。だが、それは愚かしいヒロイズムでしかない。おとなしく身を隠せという教官の指示は、絶対的に正しいのだ。
ところがスペンサーは列車で事件が発生した時も、またヒーローになりたい願望が頭をもたげて、危険な行動を取る。
それが成功して犯人を制圧できたのは、「たまたま犯人が発砲使用したけど不発だった」というラッキーが起こっただけなのだ。そんなラッキーが無かったら、間違いなくスペンサーは撃ち殺されていたのだ。つまり事件パート以外を描くことによって、スペンサーの行動が全面的に称賛できなくなってしまうわけで。それはマズいでしょ。
もしも「こんな無茶な行動は危険だから真似しないでね」と警鐘を促す狙いがあったのなら、ある程度は成功していると言ってもいいだろう。
「スペンサーは偉大な英雄なんかじゃなくて、たまたまラッキーだっただけの愚かしい男に過ぎない」と言いたかったのなら、ある程度は成功していると言ってもいいだろう。
だけど、そんなことを描くために、本人を使って事件を映画化したわけじゃないでしょ。(観賞日:2019年11月7日)