『きかんしゃトーマス劇場版 魔法の線路』:2000、イギリス&アメリカ

ソドー島では、いつものように機関車のトーマスやゴードンたちが線路を走っている。いつもと違うのは、トップハム・ハット卿が休暇でいないということだ。トーマスは、トップハム・ハット卿の代わりを務めるミスター・コンダクターを迎えに行くことになっている。そんな中、血も涙も無い機関車の天敵ディーゼル10がソドー島に戻ってきた。トーマスやジェームズの前で、ディーゼル10は「俺が戻った目的は、消えた機関車を見つけてバラバラにすることだ」と語った。
ミスター・コンダクターが暮らしているのは、ソドー島から遠く離れた場所だ。草原を抜け、マッフル・マウンテンを越えた渓谷の奥深くにあるシャイニング・タイムという街だ。コンダクターは他の住人とは違い、ソドー島にフィットする小さなサイズの人物だ。そこに住む少年パッチは、機関車の運転手ビリーに古い地図のことを質問する。その地図にはボンヤリとした線路が書かれていたが、現在の街には存在しない。するとビリーは、「この街には不思議なことがたくさんある」と答えるのだった。
ビリーはバーネットという老人の庭の掃除するため、ステイシーが駅長を務める駅から彼が住むマッフル・マウンテンの麓へ向かう。マッフル・マウンテンには、バーネットと亡き妻ターシャだけが知っている秘密があった。ソドー島とシャイニング・タイムを結ぶ魔法の機関車レディーがあるのだ。ビリーは、バーネットがレディーと一緒にいる現場に現われた。バーネットによると、かつてディーゼルに痛め付けられたレディーを救い出したが、動かなくなってしまったという。
ディーゼル10は手下のスプラッターとドッジを呼び付け、自分から逃げた機関車を探し出すよう命じた。コンダクターは魔法のスパークルを使い、ソドー島まで移動した。2つの世界を行き来する方法は、スパークルを使うことと魔法の粉を使うこと、この2つだけだ。出迎えに来たトーマスに乗って事務所へ向かう。コンダクターは夜中にディーゼル10の襲撃を受け、スパークルで移動しようとするが効果が発揮されなかった。砂糖を使ってディーゼル10を追い払ったものの、もうスパークルは使えない。
バーネットの孫娘リリーは大都会に住んでいたが、祖父の所へ遊びに行こうとしていた。パッチの飼い犬マットは、コンダクターやバーネットを救えるのはリリーしかおらず、彼女をシャイニング・タイムに向かわせて1人の青年に会わせねばならないと考える。マットはリリーを駅で待ち構え、シャイニング・タイム行きの列車に案内する。
コンダクターは先祖から、魔法の粉の元のありかは、風車に手掛かりがあると聞かされていた。そこで彼は風車を探すが、見つからない。山に入ったコンダクターはウサギが残した人間とセロリをかじり、ビーチのことを連想する。そして彼は、ビーチで過ごしている従弟のジュニアでベルフラワーで電話を掛け、ソドー島に来て魔法の粉を探す手伝いをするよう求めた。
シャイニング・タイムに到着したリリーはジュニアと出会うが、彼はスパークルですぐに消えた。リリーはステイシーにマッフル・マウンテンまで送ってもらい、バーネットやパッチと会った。トーマスは貨車を運ぼうとするが、その内の1つが外れて車止めの向こう側に消滅する。トーマスは車止めが秘密の線路の入り口だと考え、トビーに見張りを頼んでコンダクターを探しに行く。
コンダクターはディーゼル10に襲われ、車止めの場所を教えるよう脅迫される。何とか脱出したコンダクターは風車に着地し、壁に浮かび上がった文字で手掛かりを得たが、すぐに忘れてしまう。シャイニング・タイムに戻ったリリーはジュニアに誘われ、一緒にソドー島へ向かう。だが、もう魔法の粉は無いため、このままではシャイニング・タイムに戻れない。そこでレディーを動かすため、トーマスがソドー島の石炭を貨車に積み、秘密の線路でシャイニング・タイムへ向かうことになった・・・。

監督&脚本はブリット・オールクロフト、製作はブリット・オールクロフト&フィル・ファール、共同製作はマーク・ジェイコブソン、製作協力はシェリー・エリザベス・スキナー、製作総指揮はチャールズ・ファルゾン&ナンシー・チャペル&バリー・ロンドン&ブレント・ボーム&ジョン・ベルトーリ、撮影はポール・ライアン、編集はロン・ウィズマン、プロダクション・デザインはオレグ・M・サヴィツキー、アート・ディレクションはルシンダ・ザック、衣装はルイス・M・セケーラ、視覚効果監修はビル・ニール、音楽はハミー・マン、オリジナル“Thomas”音楽&歌曲はJNR・キャンベル&マイク・オドネル、唄はハミー・マン、作詞はドン・ブラック&スー・エニス。
出演はピーター・フォンダ、マーラ・ウィルソン、アレック・ボールドウィン、ディディー・コーン、マイケル・E・ロジャース、コディー・マクマインズ、ラッセル・ミーンズ、ロリ・ハリアー、ジャレッド・ウォール、ローラ・バウアー。
声の出演はエディー・グレン、ニール・クローン、コルム・フィオール、リンダ・バランティン、ケヴィン・フランク、スーザン・ローマン、シェリー・エリザベス・スキナー、ブリット・オールクロフト。


イギリスで1984年に始まった人形劇テレビ番組の劇場版。
原作はウィルバート・オードリー牧師の絵本シリーズで、ミニチュアワークの蒸気機関車や貨車、バスや飛行機など多くの乗り物が登場する。
日本では『ひらけ!ポンキッキ』の中で放送されたのが最初だ。
今回の映画化に際してはアメリカ資本と手を組み、プロデューサーのブリット・オールクロフトが自ら監督も務めている。

バーネットをピーター・フォンダ、リリーをマーラ・ウィルソン、コンダクターをアレック・ボールドウィン、ステイシーをディディー・コーン、ジュニアをマイケル・E・ロジャース、パッチをコディー・マクマインズ、ビリーをラッセル・ミーンズが演じている。
トーマスの声をエディー・グレン、ディーゼル10をニール・クローン、トビーをコルム・フィオールが担当している。

この劇場版では、普段のテレビ版とは大きく違うことをやっている。
テレビ版ではナレーションの一人語りで物語が進行するが、劇場版では各乗り物に声優を付けている(日本語吹き替えのテレビ版では声優が付いている)。
それよりも決定的な違いは、生身の役者が登場するということだ。
テレビ版では、生身の人間は一切出てこない。

たぶん、映画にするということ、そしてアメリカ市場でもヒットさせるということで、有名な役者を登場させた方がいいだろうという考えに至ったのだろう。
しかし、それが本作品の最大の、そして致命的な欠陥であると断言しよう。
きかんしゃトーマスの世界観には、どう頑張っても生身の人間は馴染まないことを、この映画は強く認識させてくれる。

まず序盤、ソドー島でトーマスたちが働く様子が映し出される。
当たり前だが、ここでは空も、山も、線路も、駅も、機関車も、全てがミニチュアだ。
そこからカメラは空を猛スピードで移動し、シャイニングタイムまで飛んでいく。
ここでは、逆に全てが実寸大だ。
この場面転換の段階で、ものすごい違和感を抱く。
よりによって、実寸大の線路や機関車まであるのだ。

「ソドー島とは別の、もう1つの世界」としてシャイニングタイムという場所を用意したのは、いきなりソドー島に人間が暮らしているという設定にすることは出来ないからだ。
しかしシャイニングタイムが「普通の人間の町」かというと、そうでもはない。
小さいサイズのコンダクターが暮らしているし、彼は魔法のスパークルを使っている。バーネットは機関車のレディーを生きている存在として扱っている。
つまり、そこだけでも特殊な場所なのだ。
トーマスの世界に生身の人間を登場させるために、そこまで手の込んだ設定を持ち込んで無理をしなければダメだったということだ。

しかし、そこまで無理をしても、やはり全く馴染んでいないのである。
それを作り手側も感じながら作っていたのか、ミニチュアの乗り物と生身の人間が同時に画面に映るシーンというのは、数少ない。

生身の人間を登場させるという「縛り」に、物語まで引きずられている。
本来ならば、この作品はトーマスを始めとする乗り物が主役になるべきなのだ。ところが、役者がメインとなって物語が構築されてしまい、トーマスたちは完全に脇役と化している。
コンダクターが魔法の粉を探しに山に行くとか、バーネットがパッチやリリーと話すとか、ミニチュアの乗り物が全く関わらないまま話が進行する時間も少なくない。

じゃあ人間が主役の物語としてどうなのかというと、そう解釈してもヒドい。
例えば、マットがリリーをシャイニングタイム駅に案内する場面があるが、これはジュニアに会わせるためだ。しかし、リリーはバーネットに会った後、再びシャイニングタイムに戻ってジュニアと再会している。
だったら、マットに案内されてシャイニングタイムに行く必要性はゼロなのである。
ちなみにマットは、その1シーンしか活躍の場が無い。
無駄な1シーンのためだけに、わざわざ刈り出されているわけだ。

ギクシャク感ありまくりのシーンが並ぶ中で、ダラダラと時間が過ぎていく。
ディーゼル10が消えた機関車を探していて、その機関車をトーマスたちが守ろうとするのなら、その正体がレディーであることは早く知らせなきゃいけないだろうに、なかなか知らせない。
また、ディーゼル10の目的と、コンダクターが魔法の粉を探すという目的が、上手く繋がっていない。

登場人物が目的に向かって動いている印象に乏しいし、
そもそも映画自体が進もうとしている方向が良く分からない。
トーマスたちは、たまにディーゼル10や消えた機関車に関する行動を起こすが、終盤まで普通に仕事をしている&走っているだけという時間もあり、それほど目的のために積極的に動いているわけではない。コンダクターにしても、魔法の粉を探す手掛かりを得ても、そこから行動が持続しない。ディーゼル10も、必死にレディーを見つけようとする意識は物足りない。
総じて、行動が停滞している時間が長い。

基本的には「ディーゼル10が消えた機関車を潰そうと探している」という部分が物語を動かしていく鍵になるはずだが、その機関車レディーはシャイニングタイムにあるので、そのままでは発見できない。
そこで、「コンダクターのスパークルがダメになり、シャイニングタイムに帰るために魔法の粉を探すが見つからない→戻るためにはレディーが必要だ→そこでトーマスやリリーの助けを得てレディーがソドー島にやって来る」ということで、ディーゼル10にレディーを発見させている。

そこまで手の込んだことをやって、レディーをディーゼル10と同じ世界に持って来る作業を講じないと、「ディーゼル10が消えた機関車を潰そうと探している」という所で物語を構築することが出来ていない。
ってことは、そもそも最初から無理が多いってことだ。
しかも実際にレディーが来たからコンダクターたちが帰れるかと思ったら、「魔法の粉が無ければダメだ」と言い出してるし。
幼児向けの作品なのに、話も設定も無駄にややこしくなっちゃってる。
なんで俳優なんか登場させようとしたのやら。

 

*ポンコツ映画愛護協会