『グランド・マスター』:2013、香港&中国
1936年、広東省佛山。チェン・ホアシュンの最後の弟子であるイップ・マンが強敵のアイアンシューズを倒す様子を密かに観察していたゴン・パオセンは、その実力の高さを感じ取った。イップは父親が商売に成功したため、生活の苦労は無かった。妻のヨンチェンは清朝の外務大臣の末裔で、夫婦仲は円満だった。夫婦は子供にも恵まれ、幸せな日々を過ごしていた。当時、男たちば妓楼に集まることは当たり前だった。佛山で最も有名な共和楼、通称「金楼」は、武術家の舞台でもあった。
ゴン・パオセンは形意拳と八卦掌を統一し、中華武士会を兄弟子から引き継いで各流派に加盟を促し、北方の拳法を南方に伝えた偉大な人物である。彼の引退試合は東北で開かれ、後継者に指名した一番弟子のマーサンと戦った。精武会の招きを受けて佛山でも引退試合が開催されることになり、彼は金楼を訪れていた。パオセンは「南方の拳法を北方に伝える仕事をやり残している。ここで勝った者に、その任を譲りたいと思う」と宣言した。
南方のバ宗師たちから引退試合の相手を務めるよう持ち掛けられたイップは、「まだ若輩者だから」という理由で断ろうとする。しかし南方の重鎮たちはイップに全てを委ね、「南のメンツが懸かっている。絶対に負けられん」と強い口調で言う。マーサンは南の重鎮たちが集まっている場所を襲撃し、イップに対する挑発的な言葉を残して立ち去った。その行動を知ったパオセンはマーサンを叱責し、すぐに佛山から去るよう命じた。
広東と広西の両軍が湖南に進軍し、抵日の名の下に自治を要求した。6月1日には佛山に戒厳令が敷かれるが、そんな中でパオセンの娘であるルオメイが侍従のチアンと共にやって来た。パオセンは師兄のリャンシャンを訪ね、一緒に帰ろうと促した。しかしリャンシャンは「東北は今や日本人の天下だ。そこでワシに生きろと言うのか?」と述べ、誘いを断った。「せっかく得た名声だ、後進と張り合うのはやめるんだ」と彼が言うと、パオセンは「名声のためではなく、時勢のせいです」と述べた。
ルオメイはパオセンに、「北の仲間は試合に反対しています。イップ・マンなど我が流派には必要ありません」と告げる。しかしパオセンは「年寄りは引退し、若い息吹を入れるのだ」と言い、勝ち負けにこだわって世間を知らない娘に「遠くを見て視野を広げろ」と説いた。イップが金楼へ行くと、試合前の餞別として使用人のサン、ルイ、ヨンがそれぞれ八卦掌、形意拳、洪家拳を使って手合わせした。
引退試合の当日、パオセンはイップに「武術ではなく思想を競おう」と提案した。彼は餅を手に取り、「これを割れるかな」と問い掛けた。イップはパオセンと少し手合わせしてから、「天下は南北だけではない。ゴンさんの餅は武術ですが、私の餅は世界です。南の拳法が良い物なら、いつかは世界に伝わる」と語った。パオセンが「その通りだ。私は武術で負けたことは無いが、まさか思想で負けるとは思わなかった」と口にした直後、餅が割れた。彼はイップに、「貴方に後を託そう」と告げた。
ルオメイは父の決定に納得できず、チャンの反対を押し切ってイップに金楼への招待状を出す。それが果たし状だと知りながら、イップは金楼に出向いた。ルオメイは父から伝授された六十四手を繰り出し、イップと拳を交えた。戦いの後、ルオメイはイップに「六十四手を披露したのは、お教えしたかったからよ。前に進むだけでは駄目だと。東北でお待ちしてるわ」と述べた。ルオメイが北へ戻った後、2人は手紙をやり取りした。
1938年10月、佛山が陥落し、イップ邸は日本軍に接収された。イップは東北へ行くために購入しておいたコートを売り払うが、大した金にならなかった。生活が困窮する中、イップの次女は餓死した。1939年、西北大学医学部に入学くしたルオメイは、汽車の中で日本軍に追われるカミソリに気付いた。ルオメイは負傷しているカミソリと夫婦を装い、彼を匿った。1940年、マーサンは日本軍に投降し、奉天協和会の会長に就任した。
パオセンは会いに来たマーサンに対し、退くことの必要性を説いた。だが、その考えをマーサンは否定した。パオセンが「では、後を継がせることは出来ない」と告げ、2人は格闘になった。パオセンは深手を負いながらも、マーサンを追放した。しかしマーサンが去った後、チアンはパオセンが死んでいるのを発見した。汽車で帰郷したルオメイは、チアンから「恨みを捨てろ」という父の遺言を知らされる。一門の年寄りたちも、復讐には反対する。しかしルオメイは「マーサンの背後に日本人がいるからね」と指摘した。彼女は縁談を断り、ゴン家の技を必ず取り戻すと誓った。
1950年、イップは戦後の香港へ出て、飯店組合に職を求めた。拳法指導の仕事を得た彼は、武術館の連中を追い払った。カミソリは町へ買い物に来たルオメイに気付くが、声は掛けなかった。カミソリは国民軍特務機関の連中から、戦前の南京での掟を守るよう要求された。拒否した彼は襲って来た連中を蹴散らし、特務機関を辞めて香港に亡命した。大晦日、ルオメイの医院にイップが現れた。彼はルオメイに、「本当は1937年に東北へ行くつもりだったが、戦争が始まって行けなくなった」と述べた。そんなイップに、ルオメイは10年前の大晦日の出来事を語る。彼女は列車の駅でマーサンを待ち受け、勝負を要求したのだった…。監督はウォン・カーウァイ、原案はウォン・カーウァイ、脚本はチョウ・ジンジ&シュー・ハオフェン&ウォン・カーウァイ、製作はウォン・カーウァイ&ジャッキー・パン、製作総指揮はダイ・ソン&チャン・イーチェン&メーガン・エリソン、撮影はフィリップ・ル・スール、美術はウィリアム・チャン&アルフレッド・ヤウ、編集はウィリアム・チャン&ベンジャミン・コーティネス&ハン・プーン、衣装はウィリアム・チャン、武術指導はユエン・ウーピン、音楽は梅林茂&ナサニエル・メカリー。
出演はトニー・レオン、チャン・ツィイー、チャン・チェン、ソン・ヘギョ、チャオ・ベンシャン、シャオ・シェンヤン、ワン・チンシアン、チャン・ジン、シャン・ティエロン、カン・リー、ワン・ジエ、ユエン・ウーピン、ジン・シージエ、チョン・チーラム、ラウ・シュン、ロー・ホイパン、ワン・マンチェン、ラウ・カーヨン、チョイ・カムコン、チョウ・シャオフェイ、ロー・ホイパン、ロー・マン、ウー・ワンフェイ、カーミット・レオン他。
『愛の神、エロス』『マイ・ブルーベリー・ナイツ』のウォン・カーウァイが監督&原案&共同脚本を務めた作品。
ブルース・リーの師匠であるイップ・マン、妻のヨンチェン、マンの師匠であるチェン・ホアシュンは実在の人物だが、ルオメイやカミソリは架空の人物だ(ただしモデルとなった人物は存在する)。
イップをトニー・レオン、ルオメイをチャン・ツィイー、カミソリをチャン・チェン、ヨンチェンをソン・ヘギョ、リャンシャンをチャオ・ベンシャン、カミソリの弟子のチャンシュイをシャオ・シェンヤン、パオセンをワン・チンシアン、マーサンをチャン・ジン、チアンをシャン・ティエロン、アイアンシューズをカン・リーが演じている。ウォン・カーウァイは1997年頃からイップ・マンの伝記映画を企画しており、2002年には製作発表の記者会見も行っている。
この頃の『一代宗師(グランド・マスター)』は、イップ・マンの伝記映画だった。
ところがカーウァイは一向に撮影に入らず、2007年には5年間の版権が切れてしまった。
すぐにレイモンド・ウォンが版権を購入し、翌年にはドニー・イェンの主演でイップ・マンの伝記映画を製作すると発表した。同年12月にはドニー・イェン主演の『イップ・マン 序章』が香港と中国で公開され、大ヒットを記録した。その後もカーウァイの方は一向に撮影が始まらなかったが、ようやく2010年1月になってクランク・インした。
同年4月にはドニー・イェン主演の続編『イップ・マン 葉問』、6月にはデニス・トー主演の『イップ・マン 誕生』が香港で公開された。
とっくにイップ・マンのブームが過ぎ去った2012年に入り、ようやくカーウァイの方は撮影を終了した。そして2013年1月、香港と中国での公開に至った。
完全に出し遅れの証文となっていたが、それでも大ヒットを記録した。
ただし、映画はイップ・マンの伝記映画とは大きく異なる内容に変貌していた。先に『イップ・マン 序章』が公開されて大ヒットを記録したので、伝記映画にすることを避けたくなったとしても、それは理解できる。
ただし、「一代宗師」ってのはイップ・マンを意味する言葉のはずだから、そこを外すと題名と内容が合わなくなってしまう。
それなら、例えば「グランド・マスターを目指して戦いを繰り広げる武術家たちの人間模様を描く」という内容にでもすれば、題名と合致するだろう。
しかし、そういう方針転換を、ウォン・カーウァイは選択しなかった。で、ウォン・カーウァイがどういう改変を行ったのかというと、「何がしたかったのか良く分からん」という結果になっているのだ。
最初にイップ・マンが登場し、アイアンシューズと戦う。それを見ているパオセンの様子が描かれるのに、その直後にイップのナレーションが入るというのは、構成として難がある。
しかも、わざわざナレーションで自己紹介するぐらいだから、イップの物語が進行していくのかと思いきや、またパオセンの様子が写ったりする。そうすることでドラマに厚みが生じているわけではなく、ただ散らばっているだけだ。
そんなことよりイップという男を掘り下げないと、人間ドラマが見えて来ないのに、キャラはペラペラのままだ。むしろパオセンの方が、それなりに厚みが生じている。何しろウォン・カーウァイなので、格闘アクション映画としての醍醐味を見せようという意識など無い。もしも意識があるのなら、センスが無い。
どっちにしても結果としては同じで、ようするに本作品を見ても格闘アクション映画としては微塵も楽しめないってことだ。
それは冒頭のイップと集団、イップとアイアンシューズの戦いから既に露呈している。
スローモーションとクローズアップを多用し、細かくカットを割り、何がどう動いているのか分かりにくい映像に仕上げている。
スローを使うにしても、「ここぞ」というキメのポイントに限定すれば効果的だろうが、やたらと使うので疎ましいだけだ。アクションの技術が低い俳優を起用する場合、動きがモタモタしているのを誤魔化すために、細かいカット割りやクローズアップを使う戦略が用いられることはある。
「そもそも、ロクに動けない役者を使って格闘アクションを撮ること自体がどうなのか」という問題をひとまず置いておくとして、そういう理由があるのであれば、まだ分からないでもない。
しかし劇中での動きを見る限り、トニー・レオンにしろ、チャン・ツィイーにしろ、かなり練習を積んだ成果が見受けられるのだ。
だから、その動きを誤魔化してしまうのは、ちょっと勿体無いと思ってしまうのよね。ただし、そもそもウォン・カーウァイは、「役者の動きを誤魔化す」という目的でアクションシーンの映像を演出しているわけではない。
この人は「ゲージツ的な映像」として、それを演出しているだけだ。
映像がゴチャゴチャしてしまい、格闘アクションの迫力やキレを見せるという目的からすると完全に邪魔をする結果になっても、そんなことは関係ないのだ。
彼にとって重要なのは「ゲージツとしての映像」であって、格闘アクションとしての面白味なんて知ったことではないのだ。冒頭にある「大雨の中、イップ・マンが大勢を相手に戦う」というシーンも、普通に格闘アクション映画として撮っていれば、のっけから観客を引き付ける見せ場になっただろう。それを台無しにしているんだから、ものすごく勿体無い。
しかし「カーウァイ芸術」としては、それでいいのだ。
ようするに、そもそも「ウォン・カーウァイがイップ・マンを撮る」という時点で、監督の資質と企画の間に大きな乖離が生じているのだ。
だから、そこに格闘アクションとしての面白さなんて、期待しちゃいけないのだ。かつてウォン・カーウァイは、古装武侠片であるはずの『楽園の瑕』を「出演者が文学的な台詞をクドクドと喋る辛気臭い文芸ドラマ」として仕上げた前科がある。
だが、それを本人は過ちだと思っちゃいないので、何も反省しちゃいないし、何も学習しちゃいない。
自分が正しいと思っているから、今回も同じようことを繰り返している。
ウォン・カーウァイは「映像と雰囲気の人」であり、ストーリーテラーではないので、そういう人が伝記映画を撮ろうと思ったことも本来は間違いだが、もちろん本人は間違いだと思っていない。ウォン・カーウァイは、格闘アクションシーンをマトモに見せようとしていないくせに、話の流れを無視してでも格闘アクションシーンを入れたがるという、ワケの分からないことをやっている。
マーサンが南方の面々を襲撃するシーンや、金楼の従業員たちが北の武術を使ってイップと戦うシーン、カミソリが国民軍の連中と戦うシーンなんて、明らかに話の流れには乗っていない。話の流れに乗っていないから、そういうアクションがあっても高揚感を煽られない。
おまけに、前述したようにアクションシーン自体の映像も「コレジャナイ感」に満ち溢れている。
金楼の従業員とイップの格闘なんて、それぞれ別の流派の武術なのに、そういう面白味も乏しい。この映画には、武術家たちの人生模様、人間ドラマなんてモノは全く描かれていない。あるのは、無残に切り刻まれた物語の断片ばかりだ。
キャラの出し入れもマズい。
例えばマーサンは序盤佛山から追放された後、1940年のシーンまで再登場しない。せめてイップやルオメイと絡むシーンを作ってから退場させるべきだろう。
しかも、その後にルオメイとは絡むが、イップとは一度も絡まないのだ。
イップを挑発して退場したのに一度も絡まないって、どういうつもりなのかと。イップとパオセンの対決に向けた雰囲気は全く盛り上がらないまま、引退試合の日になる。しかも、武術で戦わずに思想対決になるので、脱力感たっぷりだ。
そこでの問答は、言いたいことは分かるけど、見せ場としての力は皆無だ。
イップがパオセンから後を任されると金楼に集まっていた人々は盛り上がるが、こっちの気持ちは平坦なままだ。
そりゃあ、2人の格闘を描いても、どうせ盛り上がるようなシーンになった可能性は低いけど、それにしても武術での戦いを描かないとは。ルオメイは勝ち気な態度でイップに果たし状を叩き付けたのに、戦った後は、なぜか「六十四手を披露したのは、お教えしたかったからよ。前に進むだけでは駄目だと」と穏やかに告げる。
何がどうなって心情が変化したのか、サッパリ分からない。
どうやら、戦いを通じて2人は惹かれ合ったという設定らしいんだけど、まるで伝わらんよ。伝わらないから、その恋愛劇にも魅力を感じない。
それと、そこは「ルオメイが勝った」という設定らしいんだけど、それも伝わらんぞ。ナレーションやテロップによる説明に頼っているくせに、説明不足が甚だしい。
例えば1938年のシーン、「家族を失った」というテロップが出て、イップが悲しんでいる様子が写し出された後、「抗日戦争中にイップの次女は餓死した」という文字が出る。
しかし、その文字が出た時に、初めて次女の存在を認識するぐらいなのだ。
そこまでに、イップと子供たちの関係性なんて全く描写されていないので、そこで急に「子供を亡くして辛い」ということをアピールされても、まるでピンと来ない。
そもそも、娘が餓死するレベルまで生活が困窮していたようには全く見えなかったし。ルオメイが汽車でカミソリを助けるシーンの後、「1939年、西北大学医学部に入学くしたルオメイは、カミソリと出会った」という文字が出る。
だが、そこでの映像とテロップだけでは、カミソリが八極拳の宗師だということは全く分からない。
彼が中国国民党の特務機関に所属していることも、亡命する際のテロップで初めて分かるだけだ。
だから、カミソリが何者なのか分からないままルオメイとの出会いが描かれ、何者か分からないまま再登場シーンに至るのだ。そもそも、このカミソリというキャラクターに関しては、明らかに浮いた存在になっている。
こいつはイップと全く絡まないし、ルオメイとの絡みも申し訳程度だ。
終盤にはカミソリが初めての弟子を取るエピソードがあるが、何だかボンヤリしている内容だし、わざわざ弟子を登場させている意味も皆無だ。
カミソリというキャラクターを投入することで、どう考えても構成がギクシャクしたモノになっている。ただでさえ構成に難があるのに、余計にバランスを悪くしている。どうやらカミソリというキャラは最初からイップ・マンと全く絡まない存在だったわけでは無く、2人の対決シーンも撮影されたらしい。
ところが、ウォン・カーウァイは「自分の流派が詠春拳に劣るような印象になるのは嫌だ」という中国武術の老師たちの意見を汲み取り、カットしてしまったらしい。
いやいや、そこで気を遣っちゃうぐらいなら、最初からイップ・マンの映画なんか撮ろうとするなよ。(観賞日:2014年12月28日)
2013年度 HIHOはくさいアワード:10位