『キリングゲーム』:2013、アメリカ&ベルギー

1992年、セルビア軍はボスニアへ侵攻した。それは民族浄化を掲げる大量虐殺の始まりであり、20万人の犠牲者が出た。1995年、米軍とNATOが介入し、軍事作戦を展開した。NATO軍の部隊はサソリの刺青を彫ったセルビア兵の一団を捕獲し、次々に銃殺した。だが、エミール・コヴァチだけは殺されずに済んだ。現在、セルビアのベオグラード。コヴァチは男と会って金を渡し、入手を要請していた資料を受け取った。それは自分の仲間たちを殺害した部隊の連中に関する資料だ。資料に目を通したコヴァチは、当時の指揮官であるベンジャミン・フォードの写真を凝視した。彼は「18年も待った。狩りに行く」と言い、その場を後にした。
ベンジャミンは家族と離れ、アパラチア山脈の人里離れた山小屋で一人暮らしをしている。今も体を鍛えつつ、動物の写真を撮影したり本を読んだりして暮らしている。彼の右脚には戦争で受けた傷の後遺症が残っており、アスピリンを常用している。ある日、息子のクリスからベンジャミンに電話が掛かって来た。妻であるサラとの間に産まれたマシューの洗礼式があるので、出席してほしいというのだ。だが、ベンジャミンは雑用があると理由を付けて断った。
アスピリンが無くなったため、ベンジャミンは車で山を下りることにした。その様子を、森に潜んだコヴァチが観察していた。車が故障してベンジャミンが困っていると、コヴァチが現れて声を掛けた。コヴァチは車を修理し、ベンジャミンは礼を述べた。ベンジャミンは車で去ろうとするが、雷鳴が轟いて雨が降り出す中でコヴァチが歩いて行く様子をバックミラーで確認する。ベンジャミンはコヴァチの元へ戻り、「危険だから戻ることにした。乗って行くかい?」と持ち掛けた。
ベンジャミンはコヴァチの故郷を訪ね、自分もボスニアに駐留していたと話す。彼はコヴァチを山小屋へ連れ帰り、夕食を用意する。狩りをするのか質問されたベンジャミンは、猟銃は使わないと話す。コヴァチは彼に、山へ来た目的はヘラジカ狩りだと告げた。一緒に狩りへ行かないかと誘ったコヴァチは、自分が使う弓を見せた。彼は持参した酒をベンジャミンに勧め、戦地でのことを話すよう促した。軽い気持ちで話すよう促すコヴァチだが、決して良い思い出ではないため、ベンジャミンは多くを語ろうとしなかった。
しばらく会話を交わした後、コヴァチは改めて狩りに誘い、野宿するために山小屋を出て行った。ベンジャミンは狩りを断るが、コヴァチは「一晩寝れば考えも変わる」と告げた。翌朝、ベンジャミンは弓を持ち、コヴァチと共に狩りへ出掛けた。彼はコヴァチに無線機を渡し、別れて獲物を待った。コヴァチから連絡が入り、鹿を見つけたベンジャミンは弓を構える。しかし彼は矢を放つことが出来ず、無線機で「君に任せる」と告げた。
コヴァチが矢を撃たず、鹿が逃走したので、ベンジャミンは「何をしてる?」と尋ねた。するとコヴァチは「変わったな、フォード大佐」と言い、ベンジャミンに矢を放った。攻撃をかわしたベンジャミンに、コヴァチは宣戦布告した。ベンジャミンが逃げ出すと、コヴァチは冷徹に追い掛けて矢を放った。右脚を射抜かれたベンジャミンは転倒し、矢を引き抜いた。彼は足を引きずりながら廃墟へ隠れるが、すぐに見つかった。
コヴァチはベンジャミンに弓を構え、出て来るよう要求した。彼はロープを渡し、その端に付けてある棒を傷口へ通すよう命じた。仕方なくベンジャミンが指示に従うと、コヴァチは彼を逆さ吊りにした。ベンジャミンが痛みに苦悶していると、コヴァチは罪を懺悔するよう求めた。ベンジャミンは棒を拾ってコヴァチを打ち据え、ナイフでロープを切断した。彼はコヴァチを殴り倒し、急流を下って逃亡した。陸に上がった彼は洞窟を見つけ、火を起こして傷口を応急手当てした。
翌朝、ベンジャミンは木を削って弓を作り、洞窟を出た。コヴァチは無線機でベンジャミンに話し掛け、彼を挑発した。コヴァチは神を信じるかと問い掛け、町へ戻った時に見た残虐な光景を語る。彼は「あのような残虐な行動は人間の力だけでは無理だ。むしろ神の存在を証明している」と捉えたことを話し、ベンジャミンにも神に対する考え方を説明するよう要求した。ベンジャミンが無線機を切ったので、コヴァチは問い質すために見つけ出そうと考える。
クリスは妻子を車に乗せて、ベンジャミンの山小屋にやって来た。山小屋に近付いたベンジャミンは、彼らの姿を目にした。コヴァチは無線機でベンジャミンに話し掛け、弓でクリスを狙っていることを教えた。勝負しなければクリスを殺すと脅されたため、ベンジャミンは承諾せざるを得なかった。クリスたちがワインを置いて去ると、コヴァチは山小屋に近付いた。コヴァチがワインを飲もうとしているとベンジャミンが現れ、彼の口を矢で撃ち抜いた。ベンジャミンが「手当てしてやる」と言って矢を引き抜くと、コヴァチは気を失った。彼が意識を取り戻すと、山小屋の中で机に両手足を拘束されていた…。

監督はマーク・スティーヴン・ジョンソン、脚本はエヴァン・ドーハティー、製作はポール・ブルールズ&エド・カゼル三世、共同製作はヴェロニク・ハイゲバールト、製作総指揮はアヴィ・ラーナー&トレヴァー・ショート&ダニー・ディムボート&ボアズ・デヴィッドソン&ジョン・トンプソン&ガイ・タナヒル、共同製作総指揮はリンダ・ファヴィラ&アンソン・ダウンズ&ロニー・ラマティー、撮影はピーター・メンジースJr.、美術はカーク・M・ペトルッチェリ、編集はショーン・アルバートソン、衣装はデニス・ウィンゲイト、音楽はクリストファー・ヤング。
出演はロバート・デ・ニーロ、ジョン・トラヴォルタ、マイロ・ヴィンティミリア、エリザベス・オリン、ダイアナ・リュベノヴァ、カリン・サルメノフ、ステファン・シュテレフ。


『デアデビル』『ゴーストライダー』のマーク・スティーヴン・ジョンソンが監督を務めた作品。
脚本は『スノーホワイト』のエヴァン・ドーハティー。
ベンジャミン役のロバート・デ・ニーロとエミール役のジョン・トラヴォルタは、これが初共演。劇中の大半は、この2人しか登場しないシーンで占められている。
他に、クリスをマイロ・ヴィンティミリア、サラをエリザベス・オリンが演じている。

冒頭、「1992年、セルビア軍はボスニアへ侵攻した。それは民族浄化を掲げる大量虐殺の始まりであり、20万人の犠牲者が出た。1995年、米軍とNATOが介入し、軍事作戦を展開した」といった旨の文字が表記され、戦いの様子が写し出される。
そんな始まり方をするからには、何か政治的や社会的なメッセージを主張するタイプの硬派な作品なのかと思ったら、そうではなかった。
まあミレニアム・フィルムズだから当然っちゃあ当然なのかもしれないが、社会派の重厚な映画ってのは見せ掛けだった。
いや、「実際はそういうのを狙ったけど、まるで上手く行かなかった」ということなんだろうけどね。

で、そういうことも含めて考えると、冒頭にサソリの刺青の一団が捕まって銃殺され、なぜかコヴァチだけが助かり、現在のセルビアでベンジャミンの資料を手に入れて復習に乗り出す様子を描くってのは、どう考えたって得策ではない。
ベンジャミンはコヴァチが来た理由を最初は知らないが、観客は最初から知っているという状況を招くのは、物語の面白味を削いでしまう。
ベンジャミンとコヴァチの因縁を隠したまま物語を開始して、「実は過去にこういうことがあって」という見せ方をした方が、深みが出るはずだ。

ベンジャミンが車で山を下りるシーンで、森に潜む何者かの姿が写し出されるが、それがコヴァチであることは誰だって分かる。だから、顔を分からないようにしてある意味なんて全く無い。
「コヴァチが潜んでベンジャミンをマークしている」ってのを先にバラした上で、彼が通りすがりの親切な人を装ってベンジャミンを助ける様子を描くってのも、残念なことをやってるなあと感じる。
ただし前述したように、最初にコヴァチの目的や過去の因縁を明かしているので、今さら彼の狙いを隠しても無意味ではあるのよね。
だから、やっぱり諸々を含めて、2人の因縁やコヴァチの目的は隠したまま始めた方が絶対に得策なのよ。

あと、そもそもコヴァチが親切な通りすがりの男を装っている意味が無いんじゃないかと思ってしまうのよね。
ベンジャミンに一度は車の修理を断られているけど、そのまま立ち去る羽目になったら何のために接触したのか分からなくなるし。
っていうか、修理しても、それで終わりになるでしょ。たまたま雷が鳴り響き、たまたまベンジャミンがコヴァチを山小屋に誘い、たまたまベンジャミンが狩りの誘いをOKしたから、翌朝には対決する流れになっているけど、車の修理を終えて「じゃあサヨナラ」ってことになっていたら、どうするつもりだったのかと。
っていうか、コヴァチはベンジャミンから「乗って行くか」と誘われた時、一度は断っているんだよな。
いやいや、もはや何がしたいのかサッパリ分からんぞ。

前述したように、コヴァチがベンジャミンに接触した時点で、観客は彼の目的を知っている。
つまり「知らぬはベンジャミンばかりなり」ってことになるのだが、では何も知らないベンジャミンがコヴァチを家に招いたり会話を交わしたりする様子が描かれる中で緊迫感が生じているのか、「ベンジャミンは目的を知らないが、コヴァチは彼に復讐しようとしている」ということで観客を引き付ける力が生じているのかというと、これっぽっちも無いんだよね。
例えばコヴァチが持っているナイフで襲い掛かろうとするんじゃないかとか、飲ませる酒に毒を盛るんじゃないかとか、そういう緊張感はゼロだ。だって、まだまだ時間はたっぷり残っているし。それに、そこで行動を開始するぐらいなら、車の故障で接触した時点で動いているだろうし。
で、例えば会話を交わしてベンジャミンの心情や現在の状況を知り、コヴァチの気持ちが変化するようなドラマでもあれば、会話シーンには大きな意味が生じることになるだろう。だけど、そこでの会話なんて無関係に、コヴァチは翌朝になってベンジャミンを襲うのだ。
だから、会話シーンが単なる時間稼ぎと化している。

まず根本的な問題として、なぜコヴァチだけ生き延びたのかがサッパリ分からない。
ベンジャミンが助けたわけじゃなくて、殺したはずが助かっていたということらしいんだけど、ただの安っぽい御都合主義にしか感じないぞ。
ただし、じゃあベンジャミンが殺さなかったという設定なら良かったのかというと、そうじゃないけどね。
その場合、「他の連中は殺してコヴァチだけ助ける意味は何なのか」という問題が生じるし。

コヴァチが18年も経過してからベンジャミンを襲うのは、「なんでやねん」と言いたくなる。
「18年も待った」と言うけど、待たなきゃいけない事情は無いし。
「それだけの年月を費やし、ようやく見つけた」ってことなのかもしれんけど、それは映画を見ているだけだと全く伝わらないし。
それと、コヴァチは他の兵士たちの資料も入手しているわけで、そいつらには目を向けず、なぜベンジャミンだけが標的にされるのかも良く分からんし。

紛争に関与した米兵の側を「正義の味方」として一方的に描くのではなく、「どっちも加害者であり、どっちも被害者である。争いが勃発した時、片方だけが全面的に悪いわけではない」という風に描こうとしているんだろう。
そして、復習や憎悪が連鎖する争いが不毛であることを訴えようという意識が少なからずあるのかもしれない。
ただし、それが上手く表現できているのかというと、答えはノーなわけで。
最終的にはベンジャミンとコヴァチが「相手を理解した」ってことで手打ちにしてハッピーエンドという形を取っているけど、コヴァチがボスニアでやった残虐な行為を考えると「そんな綺麗ごとじゃ済まないだろ」と言いたくなるし。

「男2人の対決」というアクション部分だけに意識を向けても、あまり質が良いとは言えない。
「優位に立っていた側が一瞬にして劣勢に立たされる」という風に、立場がコロコロと逆転する様子が描かれているんだけど、その逆転劇に面白味が無いんだよね。
だって、優勢に立っている側がボンクラなせいで逆転されるってことが繰り返されるわけだから。ベンジャミンが近くにいると分かっているのにコヴァチがノコノコと山小屋へ近付いてワインを飲むとか、ベンジャミンがコヴァチの口に注いだ塩入りレモネードがこぼれて拘束していたロープが切れちゃうとか。
あと、終盤のアクションに関しては、真夜中の屋外だから暗すぎて何が何だか良く分からないし。

ジョン・トラヴォルタに無理のあるセルビア訛りの英語で喋らせるより、単純に「復讐鬼と化したアメリカ人のトラヴォルタがデ・ニーロを追い詰めるギラギラした男臭い戦い」にした方が、まだ何とかなったんじゃないかなあ。
この映画に持ち込まれている政治的な問題や社会派モドキな要素って、全てが薄っぺらいし空回りしているんだから。
ちょっとゲージツ系の高尚な映画を狙って大失敗したってことなのかもしれんけど、もっと分かりやすくて純然たる娯楽映画に仕上げた方が良かったでしょ。

(観賞日:2015年9月6日)

 

*ポンコツ映画愛護協会