『K−19』:2002、イギリス&ドイツ&アメリカ&カナダ

1961年、ソ連はアメリカに対抗し、核兵器の増強を目指していた。原子力潜水艦K−19では実験が行われるが、失敗に終わった。ポレーニン艦長は無能な整備員と不良部品の多さを指摘するが、軍上層部は予定通りに処女航海を行うと告げる。ソ連はK−19にテストミサイルを発射させ、アメリカに強さを誇示する作戦を立てていた。
軍高官のゼレンツォフは、ヴォストリコフをK−19の新艦長に任命した。副長として艦に残ったポレーニンは航海が時期尚早だと進言するが、ヴォストリコフは聞き入れなかった。彼は泥酔していた原子炉担当士官ヤシンを解雇し、代わりの士官を呼ぶことにした。軍上層部が選んだのは、まだ実務経験の無い新人ヴァディムだった。
出航直後から、ヴォストリコフは訓練を繰り返した。艦や乗組員を無闇に危険にさらす彼の命令に、ポレーニンは反発する。乗組員の1人デミチェフもヴォストリコフに反感を抱いており、ポレーニンに「我々の艦長は貴方だけだ」と告げる。ミサイル発射に成功した乗組員達は喜びに沸き立つが、原子炉担当のパヴェルは異変を感じていた。
休憩を終えたK−19は再び出航するが、放射能漏れが発生する。冷却水が止まったため、温度は上昇を続けていた。ヴォストリコフは飲料水を冷却に代用することにするが、パイプを繋ぐためには原子炉の中に入る必要がある。しかし放射能に汚染されるため、長時間の作業は出来ない。そこで2人1組で原子炉に入り、10分以内に出てくるという作戦が立てられた。
作業員に選抜されたメンバーは、ほとんど役に立たないレインコートのような防護服を着用して原子炉に入る。しかしヴァディムが怯えて入ることを拒んだため、代わりにゴレロフが中に入った。しかし乗組員の努力も実らず、事態は深刻な状況となっていく。近くにいた米駆逐艦に救援を求めようと進言するポレーニンだが、ヴォストリコフは乗組員もろとも艦を沈めようとする。そんな中、デミチェフは政治局員ススロフらと共にクーデターを起こし、ヴォストリコフを拘束する…。

監督&製作はキャスリン・ビグロー、原案はルイス・ノーラ、脚本はクリストファー・カイル、製作は ヤニ・サイヴァッツォン&クリスティン・ウィテカー&エドワード・S・フェルドマン、共同製作 はスティーヴン=チャールズ・ジャッフェ&ベイジル・イヴァニク& ブレント・オコナー&マーク・ウルフ&メアリー・モンティフォーテ、製作総指揮はハリソン・フォード& ナイジェル・シンクレア&モリッツ・ボーマン&ガイ・イースト、撮影はジェフ・クローネンウェス、美術はカール・ ユーリウスソン&マイケル・ノヴォトニー、編集はウォルター・マーチ、衣装はマリット・アレン、 視覚効果監修はブルース・ジョーンズ&ジョン・ネルソン、音楽はクラウス・バデルト、音楽製作総指揮はジョエル・シル。
出演はハリソン・フォード、リーアム・ニーソン、ピーター・サースガード、ジョス・アックランド、ジョン・シュラップネル、ドナルド ・サンプター、ティム・ウッドワード、スティーヴ・ニコルソン、ラヴィル・イスヤノフ、クリスチャン・カマルゴ、ジョージ・アントン 、ジェームズ・ギンティー、レックス・シュラップネル、イングヴァル・シガージョン、サム・スプルエル、サム・レッドフォード他。


1961年にソ連の原子力潜水艦で実際に起きた放射能漏れ事故をベースにした作品。
ヴォストリコフをハリソン・フォード、ポレーニンをリーアム・ニーソン、ヴァディムをピーター・サースガード、パヴェルをクリスチャン・カマルゴ、デミチェフをスティーヴ・ニコルソン、ゼレンツォフをジョス・アックランド、ゴレロフをイングヴァル・シガージョンが演じている。

「事実を基にしている」ということになっているが、しかし実際のK−19の事故で生き残った元乗組員によれば、事実と同じなのは、潜水艦が進水した時にシャンパンが割れなかったことと、原子炉事故があったという部分だけらしい。
つまり、映画の大半は創作ということだ。
それなら最初から完全にフィクションの映画として作った方がいいような気もするのだが、そこまで大幅な脚色をしてまで、「事実が基になっている」という要素が欲しかったのだろうか。

ソ連の物語だが、ハリウッド映画なので全員が英語を喋る。
バリバリのアメリカ人であるハリソン・フォードが、「ソ連軍としての誇りが云々」とか、「アメリカは敵だ」とか、そんなセリフを臆面も無く語る。
もう違和感ありまくり。
サマにならないこと、この上ない。
というか、その段階で思い切りフィクションになってしまうわけで、「事実を基にしている」という効果を薄めていると思うが。

「バリバリのアメリカ人がソ連軍人を演じる」という部分は置いておくとしても、ハリソン・フォードとリーアム・ニーソンの配役は逆の方が良かったんじゃないだろうか。
どれだけ冷徹なゴリガン男を演じていても、ハリソン・フォードの憎まれ役はウソ臭い。
リーアム・ニーソンがゴリガンの新艦長でハリソン・フォードが人間味のある副長の方が、しっくり来たと思うが。

最初に核ミサイルを発射シーンがあり、「実は訓練でした」と明かされる。訓練シーンを観客には本番だと思わせ、緊迫感を煽るというのは、サスペンス・アクション映画に良くあるパターンだ。
良くあるパターンだから、全てダメだという気は無い。ただ、この映画は、予定調和があまりにも多すぎると思う。
その冒頭シーンも、その場にハリソン・フォードがいないことからも、すぐに訓練だということが予想できる。最初に艦がポンコツだということが示されているので、K−19でトラブルが発生することも予想できる。ヴォストリコフが新しい艦長として来るので、ポレーニンや乗組員と対立が起きることも予想できる。
しかし、この映画は予定調和の安心感ではなく、予期せぬ事態の連続でハラハラさせるべき作品ではないかと思うのだが。

前半に繰り返される訓練シーンは、もう最初から「訓練です」と言い切っているので、そこでスリルを生み出すことは難しい。
それでも長く時間を費やすので、そこで主要キャラクターを紹介する目的でもあるのかと思ったら、そういうわけでもない。実際、ヴォストリコフとポレーニン、ヴァディムぐらいしかキャラ立ちしていない。
結局、その訓練シーンは「ヴォストリコフとポレーニンの対立関係を見せる」という意味ぐらいしか無いのだが、そもそも、その要素が要らないような気もする。

ようするに「ポンコツ船が当然の如く故障して放射能漏れが起きたので対応に追われる」というパニック映画なのだが、放射能漏れという要素だけだと「潜水艦映画」としては弱すぎると考えたのか、艦長と副長の対立やクーデターという『クリムゾン・タイド』辺りから拝借してきた要素も付け加えている。
しかし、それは上手く機能していない。
で、肝心の放射能漏れ事故だが、「少しずつヒビが広がっていき、ついには大きな危機へ」という前兆を示すシーンが1度しか無い。しかも、放射能漏れ事故が発生した時に、艦長と副長の対立や、デミチェフ達の反感は全く関係が無い。「対立していたのが、危機を脱するために一致団結する」という流れになっているわけでもないし。

これってハリソン・フォードが主役になっているけど、どう考えても観客が感情移入するのってリーアム・ニーソンだよな。自分の野心のために乗組員を犠牲にしようとする奴が主人公って、そりゃキツい。
で、さすがにヴォストリコフを悪役のままで終わらせるわけにはいかないということで、ポレーニンがクーデターを起こしたデミチェフ達を逮捕し、ヴォストリコフがポレーニンの意見に同調してアメリカ軍に救援を求めようとするという展開になっていく。
だけどねえ、それは大きな無理があると思う。
それまで頑なにアメリカの世話になることを拒否していたヴォストリコフが、なぜ急にポレーニンに同調するように変化したのか良く分からないのよ。
例えば、「対立していても軍人としてのリスペクトがあった」というなら、まだ納得できたかもしれないが、そういうことは感じないし。

ヴォストリコフの潜行命令(つまり死んでくれということ)に対し、乗組員が次々に「従います」と言うのも、艦長への信頼や厚い忠誠心から来るものだとは思えないんだよね。あんな艦長に、忠誠心は持てないだろうから。
この上下関係の絆があれば、「自分を信奉する部下の気持ちに打たれて意見を翻す」という理由付けも出来るし、そこに説得力も生まれただろうけど。

なんかヴォストリコフばかり悪く言っているが、ポレーニンにしても、ちょっと引っ掛かる部分はある。
彼はデミチェフ達を逮捕してクーデターを批判し、ヴォストリコフに指揮権を返すのだが、それは「乗組員を犠牲にするという判断を容認する」ということになる。
それはそれで問題があるように思えてしまうのだが。

潜水艦での出来事が終わった後、後日談がしばらく続くのだが、それは完全に蛇足だろう。
委員会での公聴とか、年老いたヴォストリコフやポレーニンが出てくるシーンとか、そんなの要らない。
ソ連軍の船が来て助かった後は、テロップで簡単に後日談を説明して、スパッと終わるべきだろう。そこまでしてリーアムの演説や再会シーンを見せる意味が理解できない。


第25回スティンカーズ最悪映画賞

受賞:【最悪のインチキな言葉づかい(男性)】部門[ハリソン・フォード]

 

*ポンコツ映画愛護協会