『キルトに綴る愛』:1995、アメリカ

フィン・ドッドは幼い頃から、夏は祖母ハイと彼女の姉グラディがいるカリフォルニアの田舎で過ごすのが習慣となっていた。ハイは仲間達と共に、キルトを作っていた。ある時、フィンの母は彼女をハイ達に預けて、恋人と共に消えてしまった。
26歳となったフィン・ドッドは、修士論文の3度目の書き換え中だった。彼女は恋人のサムからプロポーズされるが、結婚しても自由でいられるのか、人生の伴侶は本当に1人でいいのかなどと考えてしまう。そんな状況の中、フィンはハイの元へ向かった。
ハイは夫のジェームズが死んだ後、グラディの家に移っていた。そこでは2人の他、かつてグラディの使用人だったソフィアと娘マリアンナ、エム、コンスタンスといった女性達が、新しいキルト製作に取り組んでいた。そのキルトは、フィンへの結婚祝だった。
フィンは年上の女性達から、それぞれの夫婦生活や恋愛の体験を聞く。ハイは夫ジェームズが死を待つだけになった頃、グラディの夫アーサーとの浮気に走った。それを知ったグラディはアーサーとハイに冷たい態度を取るようになった。
ソフィアはフィンと同年代の頃にプレストンという地質学専攻の大学生と出会い、結婚して2にんの子供に恵まれた。だが、旅に出ることが多いプレストンとの間に、次第に心の距離が生まれ始めた。やがてプレストンは家を出たまま帰らなくなった。
エムの夫で画家のディーンは、モデルの女性を始めとして大勢の女に手を出す浮気性だった。妊娠したエムは実家に帰るが、結局はディーンとヨリを戻した。コンスタンスは夫ハウエルの死後、ディーンに誘惑されて彼と肉体関係を持った。
フィンはグラディの家を訪れたサムが将来の人生設計を語るのに対して、「今は考えられない」と告げる。2人は言い争いになり、サムは帰ってしまった。フィンはサムと仲直りしようとするが、一方でプールで出会ったレオンという男との浮気に走る…。

監督はジョスリン・ムーアハウス、原作はホイットニー・オットー、脚本はジェーン・アンダーソン、製作はサラ・ピルスバリー&ミッジ・サンフォード、共同製作はパトリシア・ウィッチャー、製作総指揮はウォルター・パークス&ローリー・マクドナルド&デボラ・ジェリン・ニューマイヤー、撮影はヤヌス・カミンスキー、編集はジル・ビルコック、美術はレスリー・ディリー、衣装はルース・マイヤーズ、音楽はトーマス・ニューマン。
出演はウィノナ・ライダー、アン・バンクロフト、エレン・バースティン、マヤ・アンジェロウ、アルフレ・ウッダード、ケイト・ネリガン、ジーン・シモンズ、ロイス・スミス、サマンサ・マシス、ダーモット・マローニー、ケイト・キャプショー、デリック・オコナー、ローレン・ディーン、リップ・トーン、ジョアンナ・ゴーイング、ミケルティ・ウィリアムソン、クレア・デーンズ他。


ホイットニー・オットーの小説を映画化した作品。
フィンをウィノナ・ライダー、グラディをアン・バンクロフト、ハイをエレン・バースティン、アンナをマヤ・アンジェロウ、マリアンナをアルフレ・ウッダード、コンスタンスをケイト・ネリガン、エムをジーン・シモンズ、ソフィアをロイス・スミス、若い頃のソフィアをサマンサ・マシスが演じている。
他にサムをダーモット・マローニー、フィンの母をケイト・キャプショー、ディーンをデリック・オコナー、プレストンをローレン・ディーン、アーサーをリップ・トーン、若い頃のエムをジョアンナ・ゴーイング、若い頃のグラディをクレア・デーンズ、フィンの父をアダム・ボールドウィンが演じている。

女性の原作を女性が脚本化し、女性がメガボンを執って大勢の女性が演じる。
世の中の女性達に向けてメッセージを送る作品である。
そのメッセージは、「幸せになれるかどうかは分かんないけど、とりあえず恋愛に飛び込めばいいじゃん」というモノだ。
ひょっとしたら違うのかもしれないが、映画を見ると、そういうメッセージとしか思えない。

「結婚に迷いを抱くフィンが人生経験のある先輩女性達の話を聞いて、自分の人生に対する答えを出す」という作品である。しかし、キルトを作る女性達が語るエピソードと、そこからフィンが導き出す答えが、どうしても上手く結び付いてくれない。「その流れで来たら、フィンが最後に出す答えは違うんじゃないか」と思ってしまうのだ。
というのも、女性達が語るのは、結婚生活の障害に関するエピソードなのだ。ある者は浮気に走り、ある者は夫に浮気される。そんなエピソードばっかりだ。「結婚生活なんて、裏切ったり裏切られたりするのが当たり前だ」とでも言いたいのだろうか。

誰1人として、円満で順風満帆な夫婦生活だったという者はいない。しかも、1人の女性に対して与えられている時間は1エピソードを語る時間だけなので、「夫婦生活に障害もあったが、それを乗り越えて幸せになった」というところまでは描かれない。「浮気した、浮気された」という障害の部分だけを語って終わってしまうのだ。
だからフィンの周囲にいる女性達が、ちっとも幸せそうに見えないのである。不幸を抱えたままで、年老いてしまったように思えるのである。「そんなに幸せな人生じゃなかったけど、仕方が無いから割り切って受け止めている」という風に見えるのである。

彼女達が語るエピソードから得られるのは、「完璧な結婚生活なんて無いんだから、諦めて妥協しろ」という答えである。確かに現実を冷静に判断すればそうかもしれないが、その語り口は映画の雰囲気に比べて、あまりにペシミスティックじゃないだろうか。
そして、結婚に関するネガティヴな要素ばかりを提示されたフィンだが、なぜか「互いの愛を強く信じる気持ちさえあれば、何事も乗り越えられる」という結論に達してサムと仲直り。
男女関係の失敗談を延々と聞かされて、どうしてそういう結論になるのかな。

 

*ポンコツ映画愛護協会