『グレース・オブ・モナコ 公妃の切り札』:2014、フランス&アメリカ&ベルギー&イタリア

1956年、優のグレース・ケリーはロサンゼルスでの映画撮影を終え、家族と共にモナコへ向かった。彼女のモナコ公国大公レーニエ3世との結婚式には、世界中から王族や映画スターたちの祝福が寄せられた。1961年12月、モナコ。映画監督のアルフレッド・ヒッチコックは公室秘書であるマッジ・ティヴィ=フォコンに案内され、グレースの元を訪れた。ヒッチコックは新作である『マーニー』の脚本を見せ、春から撮影に入ることを話して出演を持ち掛けた。ヒッチコックに疲れていることを見抜かれたと感じたグレースは、「大丈夫よ。幸せにしてるわ」と作り笑顔を見せた。
新年を迎え、ギリシャの海運王であるアリストテレス・オナシスの船では歌手で愛人のマリア・カラス、レーニエと姉のアントワネット、アントワネットの夫であるジャン=シャルル・レイたちが集まってパーティーを開いた。フランス財務省のディナールがレーニエたちに「いずれ欧州文化はアメリカに毒される。ド・ゴールはヨーロッパ諸国がソ連とアメリカの間に立つ第3柱になるべきだと主張している」などと語っていると、グレースは「私たちの子供をモナコとアメリカの間に落とせと?」と口を挟んだ。
「紛争で多くの命が奪われている。ヨーロッパ全体が不安定です」とドラヴェンヌが語ると、グレースは「なぜアフリカで戦争を?」と尋ねる。「植民地では、武力は必要悪です」という返答に、彼女は「植民地は前世紀の遺物よ」と告げる。さらに彼女は、ディナールを怒らせるような無礼な言葉を口にした。部屋に戻ったレーニエは、「ここはアメリカじゃない。思ったことを口にするな。ヨーロッパで最も影響力のあるド・ゴールの側近だぞ」とグレースを怒鳴り付けた。するとグレースは激しく反発し、「自分の意見を言えと子供たちに教えて来たでしょ。貴方も賛同したはずよ」と口にした。
何年も使われていない病棟を改装し、子供たちの共同寝室を作りたいと考える。王室からの寄付金だけでなく、赤十字代表のバチオッキ伯爵夫人から援助してもらうことを彼女は希望していた。しかし改装は難しいという結論を出され、憤慨したグレースは車を暴走させた。同じ頃、レーニエは国務大臣のエミール・ペレティエから、ド・ゴール大統領がモナコに所得税を課すことを求めていることを聞かされる。フランスはアルジェリア紛争で戦費調達が急務となっており、財源をモナコに求めたのだ。
「カジノ経営だけで生きろと言うのか」とレーニエが告げると、彼は「それでも恵まれている」と要求を呑むよう求めた。レーニエは激昂し、彼を殴り倒した。ペレティエは大統領官邸に連絡を入れ、「モナコから追い出された。大公はフランスを敵視していると大統領に伝えろ」と告げた。グレースはタッカー神父の元へ行き、「何をしてもダメなの。間違えたのかも」と愚痴を漏らした。ディナールは大統領声明として、「モナコは6ヶ月以内に税金の徴収を開始し、フランス企業の誘致を中止すること。フランスの国費を浪費し続ければ、禁輸措置を取ってモナコを併合する」と発表した。
「払ったら?領土を抵当に入れるの」とグレースが言うと、レーニエは「もう入ってる。金は無い」と述べた。病院の改装計画について尋ねたレーニエは、「バチオッキ伯爵夫人を怒らせるな。伯爵の政治支援が必要だ」と要請した。ヒッチコックからの出演依頼についてグレースが話すと、彼は「やりたければ反対しない。僕の要求は1つ。君が責任を持ってやれ」と告げた。グレースは出演を決め、熱心に芝居の稽古を繰り返した。
グレースはハリウッドから広報担当のルパート・アランを呼び寄せ、内務大臣のドラヴェンヌやエミール・コルネットたちに「いい知らせがあるわ。映画に出演することにしました」と発表する。「公務は?国家的危機ですぞ」とコルネットが反対すると、グレースは「公務も女優業もこなしてみせます」と自信満々に告げる。ドラヴェンヌも「発表すれば大騒ぎになる」と反対するが、グレースは「こちらが公表するまで漏れません。危機を脱するまで」と告げた。
3月、グレースは病院プロジェクトをマスコミに発表し、制裁の影響について問われると「両国の誤解はすぐに解けるはずです」と楽観的な意見を述べた。しかし一人の記者から『マーニー』の撮影について質問され、ユニバーサル映画が発表したことを聞かされてグレースは動揺する。グレースはヒッチコックに電話を掛けて非難するが、「先に宮殿から発表があって追随しただけだ」と言われる。発表文はコルネットが保管し、鍵を預かっていた。しかし彼も保管する時に同席したマッジも、マスコミに漏らしたことを否定した。グレースから相談を受けたタッカーは、「誰かが政治的な利用を企んでいる」と言う。「個人秘書のフィリスなら信頼できる」とグレースが告げると、タッカーは彼女に調査を指示するよう促した。
7月。世間で映画出演での批判が高まる中、グレースはアントワネットから「気にしないで。大事なのは子供たちよ。家族を守ることだけ考えて」と言われる。グレースはマリアと乗馬に出掛け、「オナシスから歌を辞めろと言われたけど、私はアーティスト。私は諦めない」と聞かされる。彼女はグレースに、「グレース・ケリーと公妃を辞めたら、貴方は?」と問い掛けた。レーニエはド・ゴールに電話を入れ、「課税を行い、後は各企業の選択に任せます」と告げる。しかしド・ゴールは満足せず、「国民にも課税してフランスに納めろ。今夜中に合意しないと、モナコは暗黒時代に逆戻りだぞ」と恫喝した。
オナシスはレーニエに、「ルパート・アランを使ってヨーロッパ諸国を味方に付けろ。君にはプリンセスの切り札がある。役立ってもらう時だ」と助言した。レーニエは会食の場で、グレースに「ヒッチコックに電話して出演を断れ。完全引退すると公表しろ」と要求する。グレースが拒否すると、「夫より映画か」とレーニエは言う。「これは映画の問題じゃないわ。ド・ゴールは私たちの仲を裂いてモナコを乗っ取る気よ。貴方は全く耳を貸さない。臆病で決断力も無い」とグレースが糾弾すると、レーニエは激昂して席を立った。
グレースはタッカーに、「離婚したらどうなるかしら」と問い掛ける。タッカーが「二度とモナコには戻れなくなる。子供たちは悲しむだろう」と言うと、彼女は「どうしても映画出演を断りたくないの」と述べた。タッカーが「レーニエは君の本音が怖いんだ」と告げると、グレースは「本当の自分を隠して生きることは出来ないわ」と涙ながらに訴えた。するとタッカーは、「本当の自分とは女優のグレース・ケリーか?それは君が作り出した女性だ。しかし今は2人の子を持つ主婦だ。人生最高の役を演じるためにモナコへ来たはずだ。自分自身とレーニエと子供たちのために生きろ」と説いた。
グレースは外交儀礼担当のフェルナンド・デリエール伯爵を訪ね、モナコの習慣や歴史について教えを求めた。子供のために結婚を貫き、汚名返上したいのだと彼女は告げた。デリエールはグレースに指導するだけでなく、フランス語教師のマドモワゼル・パジェや作法講師のマダム・ルクレールも呼び寄せた。グレースはデリエールたちの元で、熱心に勉強した。一方、モナコは国境線に有刺鉄線が張られて軍艦が配備され、侵攻の危機が迫っていた。
8月、オナシスの提案を受けたレーニエはド・ゴールに対する軍事支援を得るため、ヨーロッパ諸国の代表を9月に招待しようと決める。グレースはタッカーの応援を受けながら大公妃教育を受けて勉強に励み、市民との交流で評価を高めようとする。そんな中、グレースの寝室に侵入したマッジは、自分を裏切り者と疑っていることを示すメモを発見した。マッジは慌てて電話を掛けるが、フィリスとルパートが密かに盗聴していた。
グレースは国境警備の兵士たちを訪問して差し入れを渡し、その様子をマスコミに報道させた。グレースはフィリスからマッジがフランスの探偵と電話で話したことを報告され、黒幕に繋がる情報を掴むよう指示した。フィリスはマッジを張り込み、彼女が探偵と接触した直後に捕まえた。タッカーはアメリカへ戻ることになり、残るよう求めるグレースに「私の役目は終わった。君は大公家が存続するため、希望の光になれ」と告げた。
9月22日、グレースはレーニエと共にヨーロッパ・サミットの晩餐会へ出席する。レーニエが各国代表に支援を求める中、グレースはルパートからド・ゴール大統領暗殺未遂事件の発生を知らされる。事件を知ったレーニエは、これでフランスを敵に回す国はいなくなったと確信する。グレースはジャン=シャルルから、レーニエがフランスの要求を呑むよう説得してほしいと頼まれる。アントワネットがド・ゴール陣営と会っているのを目撃した彼女は、狼狽して寝室へ駆け込んだ。そこへマッジが現れ、ジャン=シャルルとアントワネットの裏切りを示す証拠写真を差し出した。マッジは探偵を雇って裏切り者を調査し、アントワネットがレーニエを失脚させて実権を握ろうと企んでいることを突き止めていた…。

監督はオリヴィエ・ダアン、脚本はアラッシュ・アメル、製作はピエール=アンジュ・ル・ポギャム&ウダイ・チョープラ&アラッシュ・アメル、製作総指揮はクローディア・ブリュームフーバー&フロリアン・ダーゲル&ウタ・フレデバイル&アイリーン・ガル&ビル・ジョンソン&アドリアン・ポイトウスキ&ジョナサン・ライマン&ジム・セイベル&バスティアン・シロド&ジャイルス・ウォーターケイン&ブルーノ・ウー、撮影はエリック・ゴーティエ、美術はダン・ヴェイル、編集はオリヴィエ・ガジャン、衣装はジジ・ルパージュ、視覚効果はアラン・カルスー、音楽はクリストファー・ガニング、追加音楽はギヨーム・ルーセル。
出演はニコール・キッドマン、ティム・ロス、フランク・ランジェラ、デレク・ジャコビ、パス・ベガ、パーカー・ポージー、マイロ・ヴィンティミリア、ロバート・リンゼイ、アンドレ・ペンヴルン、ジャンヌ・バリバール、ジェラルディン・ソマーヴィル、ニコラス・ファレル、ロジャー・アシュトン=グリフィス、イヴ・ジャック、オリヴィエ・ラブルダン、ジャン・デル、フローラ・ニコルソン、フィリップ・デランシー、ロン・ウェブスター、カトリーヌ・シャウプ・アブカリカン、サーペンタイン・テシエ、ブルース・マキュアン、サティア・デュソージー他。


モナコ公妃となった後のグレース・ケリーをヒロインにした伝記映画。
監督は『クリムゾン・リバー2 黙示録の天使たち』『エディット・ピアフ〜愛の讃歌〜』のオリヴィエ・ダアン、脚本は『陰謀のスプレマシー』のアラッシュ・アメル。
グレースをニコール・キッドマン、レーニエをティム・ロス、タッカーをフランク・ランジェラ、デリエールをデレク・ジャコビ、カラスをパス・ベガ、マッジをパーカー・ポージー、ルパートをマイロ・ヴィンティミリア、オナシスをロバート・リンゼイ、ド・ゴールをアンドレ・ペンヴルン、バチオッキをジャンヌ・バリバールが演じている。

伝記映画を製作する上で難しいのは、「どこまで事実に即した内容にするのか、どのぐらいフィクションを盛り込むのか」ってことだ。
そりゃあ、何から何まで全て事実の通りに描くのが、本来であれば伝記映画として「正しい作り方」と言えるのかもしれない。
しかし場合によっては、主人公として好感が持てない行動を取るエピソードがあるかもしれない。主人公を美化したいのであれば、隠したい事実があるかもしれない。
また、製作サイドに「こういう人物として描きたい」という思惑があれば、それに不向きなエピソードを改変したくなるかもしれない。

伝記映画ってのは、あくまでも「実話を基にした作品」なので、必ずしも全てが真実である必要性は無いかもしれない。
ただし重要なのは、製作サイドの考え方である。
ただ美化するために有名な逸話を捻じ曲げるとか、そのせいで周囲の人間を悪者にするとか、そういう改変を施した場合は、やはり非難の対象となっても仕方が無いだろう。それは「批判される覚悟があるかどうか」という問題ではない。
それと、主人公を偉大な人物や優れた人物、同情心や共感を誘う人物として描きたいのは当然だろうが、匙加減ってモノもある。

それでも、ずっと昔の人物であれば、残っている資料が少なかったりするから、どこまでが真実か分からないというケースも少なくない。
なので、想像や改変の余地が大いに残されていると言ってもいいだろう。
「それは史実と異なる」と批判する者が出て来たとしても、その主人公と直接的な関係を持つ人間、その出来事を実際に見ていた人間ではない。
だから、もちろん批判されることが望ましいわけではないが、「こういう捉え方もあるんじゃないか」と反論することも難しくない。

しかし、最近の故人に関しては、そういうわけにも行かない。なぜなら、その人物の知人や身内が存命だからだ。
つまり、劇中で描かれる出来事に居合わせたり、当時の関係者が抱いていた気持ちを聞かされてたりする人物が存在するのだ。
そのため、事実を捻じ曲げた時に、「それは事実と異なる」と批判された場合、そこに反論しても勝ち目が薄い。何しろ、向こうは当事者だったり当事者の気持ちを知っていたりする人なのだ。
だから周囲の反応としても、そっちを「正しい」と捉える人が大半になるだろうし。
っていうか、少なくとも「身内や関係者の発言が嘘で、製作サイドの主張が真実」ってことは、まず考えにくい。

ものすごく前置きが長くなってしまったが、だから本作品はグレース・ケリーとレーニエ3世の子供であるカロリーヌ公女&アルベール2世&ステファニー公女から「不正確な内容」「変更の要求は無視された」「完全なフィクションである」と批判的なコメントを出され、レーニエ3世がカンヌ国際映画祭のオープニング上映への出席を拒否したことで、かなり大きなダメージを受けたと言えよう。
グレース・ケリーの夫&実子の全員から批判されているんだから、そりゃあ相当にマズいだろう。
幾ら「この映画は実話を基にしたフィクションである」と表示したところで、全てがクリアになるわけではない。

例えばレーニエ3世&子供たちの評判が悪いとか、色々と問題を起こしているとか、そういう面々であれば、何とかなったかもしれない。
しかし、決してそんなことは無いわけで。
しかも実際に観賞しても、「そりゃあレーニエ3世&子供たちが批判するのも当然だわな」という内容なのである。
グレース・ケリーを美化したいのは理解できるけど、そのためにレーニエ3世を「妻に冷淡な奴」「自分じゃ何も決められない臆病者」にしちゃうのはダメでしょ。
存命の人間を、しかも王室の人間を、不愉快なキャラや情けないキャラにしちゃうのは、やはり配慮が欠けていたと言わざるを得ない。

それと、グレース・ケリーを美化しようとしているのに、実際は今一つ美化できていないという問題もある。
そして、「レーニエ3世を嫌な奴にすることでグレース・ケリーへの同情心を誘おう」という作為が下手な形で露呈しているため、むしろ「そんな扱いにされているレーニエ3世が不憫」と感じる。
そして、この映画で描かれているグレース・ケリーには、あまり魅力が感じられなくなってしまう。
その理由は簡単で、「公妃になる時の決意や覚悟が無さすぎるだろ」という女性に描かれているからだ。

この映画では、映画に復帰しようとするグレース・ケリーの行為は「全面的に正しいモノ」として描かれる。
そして、そんな彼女の考えに賛同する者は「味方」「善玉」として配置され、反対したり阻止しようとしたりする者は「敵」「悪玉」として配置される。
「グレース・ケリーは素晴らしい女優だから、映画の仕事に戻るのは大賛成」というのが、映画のスタンスなのだ。
そこは全く揺るぎない意志を持って描かれているのだが、そういうトコに違和感を覚えてしまうのだ。

グレースは「ド・ゴールの策略によって映画出演の情報が漏洩した。ド・ゴールはマスコミに情報をリークすることで夫婦の仲を裂き、モナコを乗っ取ろうとしている」と訴えるのだが、なんかバカバカしさしか感じないのよね。
ところが困ったことに、それは全面的に事実だったという設定になっているのだ。
つまり、ド・ゴールがモナコの乗っ取りを目論んだせいで、グレースは女優復帰の道を断たれたという形になっているのだ。
これをマジに描いているもんだから、どうにも付いて行けない。

そもそも、グレースがレーニエに怒りをぶつけるのは自分が映画に出たいからであって、モナコの危機なんてどうでもいいのだ。
彼女は「ド・ゴールは私たちの仲を裂いてモナコを乗っ取る気よ」と言ってレーニエの臆病さを批判しているけど、女優復帰を諦めるよう要求されて腹を立てているだけだ。
「ド・ゴールの策略に乗ってはいけない」と心底から忠告したいわけではないのだ。
自分のことしか考えていないのに、懸命になって国の危機を回避しようとするレーニエの姿勢を批判するんだから、そりゃ好感なんて持てないわ。

オリヴィエ・ダアン監督はグレース・ケリーが映画女優のキャリアを捨てざるを得なくなったこと、復帰の道を断たれたことに関して、ものすごく残念に感じているらしい。
政治的な問題のせいで、つまりは男たちのせいで、女優復帰できなくなったのだと考えているらしい。
そういう彼の思いが、レーニエ3世を嫌われ役に仕立て上げてしまった部分は大きいのだろう。
しかし、そもそも公妃になった後も女優として復帰しようと考えている時点で、「それって違うんじゃねえか?」と言いたくなるのだ。

実際にどうだったのかは知らないが、オリヴィエ・ダアン監督は「結婚した後も、たまには映画出演しても構わないという暗黙の了解があった」と解釈しているらしい。
それが事実だったとしても、あくまでも「暗黙の了解」であって、モナコ公室の公式な発言があったわけではない。
それに、もしもモナコ公室が映画出演を了承していたとしても、グレース・ケリーの方から「公妃になったのだから、女優の仕事は辞めて公務に専念する」という覚悟を決めるべきだと思うのよ。
公妃になるってのは、そういうことじゃないかと。
単なる金持ちの奥さんになるのとはワケが違うのだ。旦那は一国のトップなのだから。

しかも、当時のモナコはド・ゴールから圧力を掛けられ、併合の危機に陥っていた。
そんな国家の一大事なのに、映画出演なんて呑気なことを言っている場合ではないだろう。自分のことなんて二の次、三の次で、苦悩を抱える夫を全面的にサポートすべき時期だろう。公妃という立場を抜きにしても、夫が大変な時期に支えてやるのは妻として当たり前のことだし。
もちろん後半に入るとグレースもレーニエと和解して協力するようになるのだが、それを「立派な行為」として持ち上げ過ぎているので、「それは違うんじゃないか」と言いたくなる。
むしろ、それまでのグレースが愚かな公妃だっただけなのよ。ダメな奴が普通になっただけなのよ。

タッカーの「王族との結婚を夢見る者は、その意味を理解していない」という台詞があるので、「自由の中で生きて来たグレース・ケリーが公妃になることの意味を理解しないまま結婚し、まるで自由の無い現実を知って苦しむ」というドラマを描きたかったのかもしれない。
しかし、そうだとしても、結果的にはグレース・ケリーが単なるワガママ女にしか見えないのだから、失敗していると言わざるを得ない。
彼女の苦悩や葛藤は、まるで共感や同情心を誘わない。
そもそ公室に入ってもアメリカ流を通そうとするから、軋轢が生まれてストレスが溜まるわけで。「郷に入れては郷に従え」という言葉があるわけでね。

タッカーの説法を受けたグレースは大公妃教育を受けて勉強に励むようになるが、これが「愛する夫を支えるため」とか「モナコの危機を救うため」という動機による変心ではなく、「女優として公妃を立派に演じようと決めた」ってことに過ぎないのも厳しい。
それを「公妃になっても女優であり続けようとするなんて、さすがだ」と称賛するのは無理だ。
結局のところ、最後までグレースは「公妃になる意味」を本当の意味では理解していないようにしか思えないのだ。それを「政治的な問題や、そこに関わる男たちのせいでグレース・ケリーは女優復帰できなくなったのだ」と批判的に捉え方をするのは、御門違いじゃないかと思うのよね。
むしろ、政治的な問題でゴタゴタしている時に「そんなの私は関係ないから、女優の仕事に戻りたいわあ」という考え方を持つのは、あまりにも身勝手で無責任ではないかと。
この映画だと、女優復帰を断念してモナコのために仕事をするグレース・ケリーが「立派な決断をした偉大な人物」として描かれるけど、そんなの公妃としては当たり前でしょ。

しかも、「グレース・ケリーが舞踏会を企画し、各国首脳の前でで見事なスピーチをしたことで国境封鎖が解除され、モナコは救われた」という展開が後半に用意されているんだよね。
つまり、まるでグレース・ケリーの力だけでモナコが救われたように描いているんだけど、「そこは無理がありすぎだろ」と言いたくなるわ。
主人公を美化するのは、ある程度は構わないよ。でも、それは明らかにやり過ぎ。
幾ら「実話に基づいたフィクション」であっても、そこは越えちゃいけない線を平気で踏み越えていると感じるわ。

(観賞日:2016年6月20日)

 

*ポンコツ映画愛護協会