『GODZILLA ゴジラ』:2014、アメリカ&日本

1999年、フィリピン。生物学者の芹沢猪四郎と助手のヴィヴィアン・グレアムはヘリコプターで鉱山に降り立ち、調査を依頼してきた責任者のボイドと会う。ボイドはウラン鉱脈の陥没事故で40人の作業員が下の洞窟に落ち、未だに行方不明であることを説明した。防護服を着用した芹沢とヴィヴィアンは、ボイドの案内で洞窟に入った。巨大生物の化石を目にした芹沢たちは、さらに奥へと進む。すると卵らしき物が幾つもあり、孵化した形跡が見られた。
日本の雀路羅(じゃんじら)市。核物理学者のジョー・ブロディーは原子力発電所のタカシに電話を掛け、異常な振動が起きているので原子炉を停止させるよう訴える。父の誕生日をお祝いしようとしていた息子のフォードは、母のサンドラから学校へ行く準備を整えるよう指示された。フォードは溜息をつき、両親に声を掛けてからスクールバスに乗り込んだ。ジョーは原発の技師として働くサンドラに、「センサーを確認したいが、会議に出席しなければならない。チームを連れてレベル5へ行ってほしい」と頼んだ。
原発に到着したジョーは、振動に関するデータを確認する。他の地域では影響が出ていないと彼が知った直後、激しい揺れが原発を襲った。原子炉が暴走したのでサンドラとチームは慌てて逃走し、ジョーは助けに向かう。しかしタカシはジョーに、「扉を閉じないと全てが終わります」と告げる。サンドラはレシーバーを通じ、ジョーに「間に合わない。ドアを閉めて」と告げる。爆風が迫って来たため、ジョーは仕方なく防護扉を封鎖した。ようやく扉に辿り着いたサンドラは、ジョーにフォードを託す言葉を伝えた。学校で教師の避難指示を受けたフォードは、原発事故の様子を目にした。
15年後。特殊部隊の爆弾処理係として勤務するフォードは、14ヶ月ぶりにアメリカへ戻って来た。サンフランシスコの自宅に到着した彼は、ERの医師として働く妻のエル、5歳になった一人息子のサムと久々に再会した。そこへ領事館から電話が掛かり、父が日本で放射能汚染の隔離地区に侵入して逮捕されたことが伝えられた。フォードは父のことでエルに愚痴をこぼしつつも、身柄を引き取るために日本へ向かった。
フォードは警察署でジョーと再会し、彼に連れられてアパートへ赴いた。ジョーは膨大な資料を集めており、「あれは地震じゃなかった。あそこには何かがいた」と言う。フォードは母のことを忘れるよう諭し、一緒に帰国しようと持ち掛ける。しかし翌朝、ジョーはフォードに隔離地区へ行くことを告げる。フォードは反対するが、ジョーは「彼らは欠陥を隠蔽している。2週間前にセンサーが振動を受信したが、また彼らは隠蔽するだろう。昔の家にあるデータが必要だ。あれはメルトダウンじゃなかった」と語る。
フォードはジョーと共に、防護服を着て隔離地区へ忍び込んだ。ガイガーカウンターの数値を見たジョーは防護マスクを外し、「ここは汚染されていない」と口にした。データを回収して家を出たフォードとジョーは、原発の跡地にある施設が稼働しているのを目にした。そこへ警備隊が現れ、2人を施設へ連行した。巨大な繭の様子を観察していた芹沢は、部下から連絡を受ける。グレアム博士に任せようとした芹沢だが、1人が原発で働いていたことを知らされて態度を変えた。
芹沢はヴィヴィアンと会い、ジョーから回収したデータを確認する。施設が揺れに見舞われると、ジョーは「強力な電磁波だ。これが全ての原因だ」と声を荒らげる。繭に動きが見られる中、15年前と同じ電磁波の形が機械に表示された。「全ての放射能を吸収する」と呟いた芹沢は、苦渋の決断として繭を処分しようとする。しかし繭の中から怪獣が出現し、施設は停電になった。怪獣が暴れ出し、所員たちに避難命令が出された。怪獣は羽を広げ、施設から飛び去った。
崩壊した施設は米軍の管轄下に置かれ、第七艦隊のラッセル・ハンプトン大佐が芹沢の元へやって来た。「怪物について知っていますか。一緒に来てほしい。必要な人材がいますか」と言われた芹沢は、フォードと重傷を負っているジョーを指差した。芹沢たちはヘリコプターに乗せられるが、ジョーは空母サラトガへ到着する前に息を引き取った。サラトガのウィリアム・ステンツ提督は怪物を「ムートー」と呼び、「どこかへ飛び去って姿を消した。見つけ出さねばならない」と部下たちに言う。
芹沢とヴィヴィアンはステンツやフォードたちに古いフィルムを見せ、「1950年代に実施された全ての核実験は彼を殺すためだった」と説明する。その「彼」とは放射能を食料とする古代の巨大生物であり、放射能レベルが下がると深海に潜って地中の放射能を吸収するようになった。芹沢たちの所属する「モナーク」という組織は、その怪獣を研究するために設立された。怪獣のことを、芹沢たちは「ゴジラ」と呼んでいた。
芹沢とヴィヴィアンは、15年前にゴジラと似た巨大生物の化石をフィリピンで発見したこと、それが寄生虫に殺されたこと、孵化した生物は日本の原発で放射能を吸収して成長したことを語った。その生物が孵化し、「ムートー」と呼ばれる怪獣になったのだ。なぜ今まで殺さなかったのかとフォードが尋ねると、研究のためだと芹沢は説明した。ジョーから何か聞いていないかと問われたフォードは、反響定位について口にしていたことを話す。
フォードはハワイ行きのヘリコプターに乗せられ、民間機でサンフランシスコに戻るよう指示される。ホノルルのモノレールに乗り込んだフォードは、両親と離れてしまった日本人少年のアキオに遭遇する。フォードは泣き出すアキオに話し掛け、必ず両親の元へ戻してあげると約束した。北大西洋でロシアの潜水艦が失踪したという知らせがステンツの元へ届くがSOS信号はダイヤモンドヘッドから発信されていた。捜索隊の兵士たちは密林で潜水艦を発見し、ムートーを目撃する。報告を受けた芹沢は、すぐに現地へ飛んだ。
ムートーが電磁パルスを放ったため、ホノルル市内は停電に陥った。巨大な背びれを持つ怪獣が海から出現し、その影響で巨大な津波が発生した。兵士たちは照明弾を打ち上げ、上陸したゴジラに銃撃する。しかしゴジラは相手にせず、別の方向へ歩いて行く。一方、電気の復旧したモノレールは、ムートーの攻撃を受けた。空港へ侵入したムートーの前に、ゴジラが現れた。翌朝、フォードはアキオを連れて救護テントを訪れ、「迷子なんだ」と告げる。書類に記入しようとするフォードだが、アキオは両親と無事に再会した。本土へ移動するトレ・モラレス軍曹の部隊と遭遇したフォードは、一緒に連れて行ってもらうことにした。
ゴジラがムートーを追って東に向かっているという情報を得た芹沢は、「狩りをしている」と口にした。彼はヴィヴィアンに「ムートーは別の何かを呼んでいる」と言い、ステンツたちにネヴァダを捜索するよう要請した。フィリピンで発見された別の卵が核廃棄処理場に保管されており、そこへムートーが向かっていると考えたのだ。指示を受けた部隊が急いで処理場へ向かうと、既に卵は孵化した後であり、新たなムートーが砂漠へ出ていた。
ラスヴェガスの街を破壊したムートーの映像を確認した芹沢は、先に施設で孵化した同種より大きく、羽が無いことを知る。芹沢は処理場で誕生したムートーがメスであり、オスの成長を待っていたのだと推測する。ステンツたちがムートー退治のために核を使おうとするので、芹沢は「ゴジラが答えになるかもしれない。彼なら倒すことが出来る」と言う。しかしステンツは「それまで待っていろと?リスクが大きすぎる」と反対し、核兵器を西海岸に送るよう部下たちに指示した。
軍の輸送機で移動していたフォードは、2匹目のムートーが出現したことを知らされる。カリフォルニア州ローン・パインに到着した彼は、核弾頭が列車で輸送される様子を目にした。フォードは自分が爆弾処理班であることを説明し、列車に乗せてほしいと訴えた。フォードは病院で勤務中のエルに電話を掛け、「明朝には2人を迎えに行く」と告げた。橋に近付いた辺りで、偵察に赴いたフォードはムートーと遭遇する。フォードは何とか襲われずに済んだが、ムートーは輸送列車に食らい付いた…。

監督はギャレス・エドワーズ、原案はデヴィッド・キャラハム、脚本はマックス・ボレンスタイン、製作はトーマス・タル&ジョン・ジャシュニ&メアリー・ペアレント&ブライアン・ロジャーズ、製作総指揮はパトリシア・ウィッチャー&アレックス・ガルシア&坂野義光&奥平謙二、共同製作はボブ・ダクセイ、製作協力はシャノン・トリプレット&リーアン・ストーンブレーカー&ジム・ロウ&マーティン・コーエン、撮影はシーマス・マッガーヴェイ、美術はオーウェン・パターソン、編集はボブ・ダクセイ、追加編集はロン・ローゼン、衣装はシャレン・デイヴィス、視覚効果監修はジム・ライジール、視覚効果プロデューサーはアレン・マリス、音楽はアレクサンドル・追加視覚効果デザインはジョン・ダイクストラ、デスプラ、音楽監修はデイヴ・ジョーダン。
出演はアーロン・テイラー=ジョンソン、渡辺謙、エリザベス・オルセン、ブライアン・クランストン、デヴィッド・ストラザーン、ジュリエット・ビノシュ、サリー・ホーキンス、リチャード・T・ジョーンズ、CJ・アダムズ、ヴィクター・ラサック、カーソン・ボルデ、パトリック・サボンギ、ジャレッド・キーソ、リュック・ロドリケ、ジェームズ・ピッツィネイト、キャサリン・ラフ・ハグクイスト、エリック・キーンレイサイド、プリモ・アーロン、ジョージ・アレン・グマパックJr.、ケン・ヤマムラ、ギャリー・チョーク他。


1954年からスタートした東宝の怪獣映画『ゴジラ』シリーズをハリウッドでリブートした作品。
監督は『モンスターズ/地球外生命体』のギャレス・エドワーズ。
最終的にシナリオを担当したのは、監督&脚本を務めた2003年の『Swordswallowers and Thin Men』でNY国際インディペンデント映画&ビデオ祭の最優秀脚本賞とドラマ部門の最優秀作品賞を獲得しているマックス・ボレンスタイン。
フォードをアーロン・テイラー=ジョンソン、芹沢を渡辺謙、エルをエリザベス・オルセン、ジョーをブライアン・クランストン、ステンツをデヴィッド・ストラザーン、サンドラをジュリエット・ビノシュ、ヴィヴィアンをサリー・ホーキンスが演じている。

ゴジラが日本の怪獣ってこともあってか、あるいは東宝シリーズに対するリスペクトがそこにも表れているのか、ギャレス・エドワーズ 最初に撮影したのは、1954年版に主演した宝田明が入国審査官役で出演するシーンだった。最終的にカットされたのは、本当に残念だ。
ゴジラの造形がローランド・エメリッヒ版とは異なり、東宝版に寄せてあるのも嬉しい。
また、核実験や原爆に関する会話シーンも多く撮影されたものの、あまりにも長くなり過ぎたのでカットされたらしい。
ただ、どう考えてもギャレス・エドワーズは東宝版『ゴジラ』シリーズだけじゃなく、平成版『ガメラ』3部作から大きな影響を受けている。

ものすごく残念だったのは、渡辺謙が佐野史郎に教えてもらうまで、「芹沢猪四郎」という役名に込められた意味を知らなかったことだ。
それは1954年版で平田昭彦が演じる芹沢大助博士と監督を務めた本多猪四郎に由来している役名で、『ゴジラ』シリーズを見ていれば誰だって簡単に分かることだ。
だけど、ケン・ワタナベは『ゴジラ』シリーズの監督が本多猪四郎ってことを知らなかったらしいんだよね。
そういう人がリブート版『ゴジラ』で芹沢博士を演じるってのは、ちょっと引っ掛かるモノがあるんだよなあ。

ただし、彼がギャレスたちの指示に対して、頑なに「ゴジラ」の発音にこだわってくれたのは嬉しかった。英語的な「ガズィラ」という言い方じゃなくて、「ゴジラ」と発音しているのだ。
どれだけ激しくゴジラが暴れようとも、どれだけ高額の予算を投入したVFXで映像を飾り付けようとも、芹沢が「ウイ・コールド・ヒム、ゴジラ」というシーンの高揚感に勝るものは無いわ。
ぶっちゃけ、個人的なピークは、そこだからね。
そこは大げさじゃなくて、ホントに涙が出そうになった。

でも全体としては、残念ながらプラス査定のポイントは少ない。
まずカメラワークがイマイチで、映像がゴチャゴチャしていて見にくい。
『モンスターズ/地球外生命体』の場合、なるべくモンスターの全体像を見せないようにするという目的があったけど、今回はハッキリと見せるトコも作るべきなのに、そういう意識が乏しい。とにかくカメラがムートーやゴジラに寄り過ぎているのよ。
それによって巨大さを強調する効果は出るかもしれんけど、もうちょっと引いて全体像を捉えるようなカットも増やさないと。

あと、やたらとカメラが揺れまくったり、何しろ無駄に画面が暗かったりするせいで、どういう造形のモンスターなのか分かりにくい時間帯が続くってのもマイナスだなあ。
ただし、全体像がハッキリ見えたら見えたで、「ムートーってゴジラと戦う敵としては、ちっとも強そうに見えない。どう見たって、やられ役でしかない」という印象なんだけどね。
よりによって、なんであんな細身の、虫をモチーフにしたモンスターにしたのかねえ。
2匹が束になって掛かっても、ゴジラの相手じゃねえだろうと思ってしまうぞ。

フォードはホノルルでアキオと出会い、一人ぽっちになってしまった彼を両親の元へ届けようとする。
そこは「フォードと家族」の関係に重ね合わせて家族ドラマを描こうとするための展開なんだけど、まるで上手く機能していない。
そもそもアキオが両親と離れてしまう原因は、彼だけがモノレールに乗り、両親が駅に取り残されるからだ。でも、その時点では、まだホノルルには何の異変も起きていない。
平穏な状態の中でアキオがモノレールに乗り込み、ドアが閉まると慌てて両親の元へ行こうとするので、「ただのバカなガキじゃねえか」と言いたくなるのよ。そこはムートーなりゴジラなりの襲来によって、子供が両親とはぐれる展開にすべきでしょうに。

しかも翌朝になると、アキオは両親と簡単に再会する。
結局、アキオを助けることは、フォードの家族に対する思いと全くリンクしちゃいないし、そこのエピソードって完全に機能不全なのよ。
っていうか、そこに限らず、やたらと「家族」を意識したドラマ・パートが挿入されるんだけど、その全てが邪魔なだけになっている。「怪獣バトルが勃発するかと思わせておいてドラマ・パート」ということを何度も繰り返しているけど、だんだん疎ましく思えてくる。
ドラマの部分が魅力的ならともかく、そうじゃないので余計にそう感じる。

「家族の絆とか家族への思い」ってのを描くにしても、「フォードが怪獣退治のために奔走する」という中で処理するなら分からないでもないのよ。
でもフォードは怪獣退治に全く関与しておらず、単に「災害に巻き込まれて焦りながらも何とか引き伸びる」というだけなのよ。
列車から転落しそうになるアキオを助けるシーンは、さすがに本人が生き延びるだけじゃ主人公としてマズいだろうと判断してのことかもしれない。
だけど、それだけで「主人公らしい活躍をしている」とは受け取れないし。

ようするに、フォードって「怪獣による都市破壊から逃げ惑う名も無き他の一般市民」と大して変わらない存在になっているのよね。
彼が怪獣の第一発見者だったり、何か重要な情報を掴んでいたりれば、怪獣退治に貢献することも出来るだろう。
だけど、何の知識も無いし、特殊能力も無い。
特殊部隊だけど怪獣退治の部隊に参加するわけではないし、「爆弾処理班」ってのは爆弾を解除するのが主な仕事で攻撃のスペシャリストってわけではないし。

フォードが核弾頭を移送する列車を見たところで、「特殊部隊の爆弾処理班」という職業設定が活用され、部隊に参加する展開になる。その時には「カリフォルニアに家族がいる」と話しており、「家族を守るためにも戦う」ということで家族への思いに繋げてある。
しかし、その後に待ち受けているのは、「ムートーが核ミサイルを奪って都市部に入ったため、起爆装置を解除するためにフォードが 出動する」という展開だ。つまりフォードは怪獣を倒すために行動するのではなく、軍の失態を解決するために行動するのだ。
クライマックスに突入しても、主人公が怪獣退治と全く無関係なトコで行動するって、どういう計算で作られたシナリオなのかと。
しかも、せめて解除の任務はキッチリと遂行するのかというと、蓋が開かずに遂行できず、海へ捨てに行くプランに変更されちゃうし。
グダグダじゃねえか。

ジョーは15年前の出来事について独自に調査を続けていたので、彼の持っていたデータは、それなりに役立っている。しかしフォードは父と疎遠であり、調査活動には全く関わっていなかった。
だから彼は、ムートーやゴジラに対して「特別な存在」としてのポジションを確率することが出来ていない。
とは言え、例えば怪獣退治に挑む部隊のリーダーであれば、それだけで主人公としての存在感を示すことは難しくない。
しかし彼は、そういうポジションのキャラクターではない。

だからこそ、強引でもいいから、フォードが怪獣退治の部隊に参加して戦闘に加わるような展開を用意しなきゃ厳しいと思うんだよね。それが無理なら、「市民を避難させるチームの一員」ってことでもいいけど。
っていうかさ、やっぱり「怪獣に関する特別な情報を掴んでいる、あるいは劇中で掴んで芹沢たちに協力する」という方向でキャラ付けを考えた方が良かったんじゃないかと思うぞ。
あと、ジョーは15年前、妻を救うことが出来ず、その無念を抱えたまま死んでいるのだが、それは残されたフォードの行動に何ら影響を与えないのね。
そうなると、「ジョーが死ぬ」という展開そのものが無意味になっちゃってる気がするんだけどね。

本作品で何よりもダメなのは、『ゴジラ』のタイトルにふさわしい内容じゃないってことだ。
序盤の原発事故を起こした原因や、芹沢たちが研究している対象は全て「ムートー」であり、つまり前半部分は全て「ムートーの出現」に向けた物語になっている。
どう考えたって、それは構成としてダメでしょ。『ゴジラ』なのに、なんでムートーの登場に向けた話を長々と描いているのかと。
そこは「ゴジラが出現する予兆」として話を構築すべきでしょうに。ムートーが登場した後、「ムートーを狩るために復活する」という流れでゴジラを登場させたら、ゴジラはムートーのオマケみたいになっちゃうでしょうに。

これが続編映画であれば、『ゴジラvs別のモンスター』という構図にするのは別にいいと思うのよ。
ただ、過去に何作も作られているとはいえ、今回は仕切り直しの1作目になるわけで。
そこでゴジラより先に別のモンスターを登場させて、そいつとゴジラが戦う内容にするってのは、どう考えてもマズいよ。
しかも東宝のシリーズに登場した怪獣じゃなくて、カマキラスに似ているけど新しいモンスターなんだから、ますますマズいよ(ただしカマキラスならOKというわけでもないぞ)。

もちろん、大半の観客はゴジラという存在を知っているし、過去の映画を見たことがあるという人も多いだろう。
しかし、それは全く意味を持たないことなのだ。
観客がゴジラを知っているかどうかじゃなくて、劇中の登場人物が「過去にゴジラが現れて都市を破壊した」という事実を認識しているかどうかってのがポイントなのよ。
劇中の人物がゴジラを知らなければ、先に登場して暴れまくり、出番も圧倒的に多いムートーの方が彼らにとっては「主役」になるでしょ。それではマズいってことなのよ。

ゴジラの出番は少ないが、それ自体が悪いわけではない。「引っ張って、引っ張って、いよいよ登場」という風に盛り上げる意味では、そういう手法は大いに歓迎できる。
ただし問題は、「ゴジラの出番が少ない一方でムートーが暴れまくっている」ってことだ。
それだと、単に「ムートーがゴジラの出番を奪っている」ということになっちゃうのよ。それは「ゴジラの登場シーンを引っ張って期待を持たせる」という手法とは全く別物になっちゃうのよ。
それにゴジラが出現した後も、軍部は「ムートーを核兵器で破壊する」ということに全力を注いでおり、ゴジラのことは後回しだ。「まずゴジラありき」じゃなくて、「まずムートーありき」の話になってんのよ。
これじゃあ『ゴジラ』じゃなくて『ムートー』だよ。

しかも、ムートーとゴジラが戦うのは、人間が仕向けた作戦が当たったわけではないのよ。
芹沢は「ムートーとゴジラを戦わせては」と提案するけど、軍は「ムートーを倒すのは核爆弾を使う」と決定する。じゃあゴジラ対策はどうするのかと思いきや、そっちには全く考えが及んでいない。
つまり、この映画に登場する人々は一部を除き、ゴジラをムートーより遥かに軽視しているのだ。
ムートーなんてポッと出の雑魚モンスターなのに、「怪獣王」のゴジラを軽んじてそっちを優先するとは、どういうつもりなのかと。

(観賞日:2015年11月22日)


2014年度 HIHOはくさいアワード:第1位

 

*ポンコツ映画愛護協会