『神は死んだのか』:2014、アメリカ

大学に入学したジョシュ・ウィートンは、履修科目の登録に赴いた。ジョシュは選択科目でラディソン教授の哲学クラスを取る予定だったが、首から下げている十字架を見た担当者は「考え直した方がいいんじゃないか」と助言する。それでもジョシュは「大丈夫ですよ」と変更せずに登録するが、担当者は「コロッセオでライオンと戦うようなモノだ」と告げて受講届の提出日までに再考するよう促した。同じ日、中国出身のマーティン・イップも哲学クラスを選択した。
大学を出ようとした記者のエイミーは、車の窓が割られてナビが盗まれているのを目にした。彼女は株式投資会社で働く恋人のマークに電話を掛け、これから突撃取材を仕掛けることを話す。エイミーはブログの閲覧者数を順調に増やしており、スポンサーの獲得を目指していた。ミーナは介護施設を訪れ、認知症を患っている老母の様子を見る。母は昨日の食事のことを完全に忘れており、ミーナが娘であることも覚えていなかった。
ジョシュが教室に行くと、ラディソンは講義の最初に「教養課程の単位を楽して取りたいと思っているなら、他を当たれ」と告げた。2名の生徒が退室した後、ラディソンは講義を始める。彼はフーコー、ラッセル、ブレヒト、ニーチェ、デモクリトス、カミュ、フロイト、チョムスキーといった著名な詩人や哲学者や科学者たちの名前をホワイトボードに並べ、全員の共通点は無神論者だと話す。司祭のデイヴは空港へ行き、友人のジュードを出迎えた。
ラディソンは「貴重な時間を無駄にしないためにも、神がいるかいないかを議論するつもりは無い。神は存在しない。想像の産物だ」と語り、生徒たちに紙を配る。そして「神は死んだ」と書いて署名するよう要求し、「同意してくれれば退屈な議論を省略できる」と告げた。他の生徒たちが従う中、ジョシュは拒否した。彼がクリスチャンだと言うと、ラディソンは「この講義が受け入れられないのなら、神の存在を証明してくれ。出来なければ単位を落とす」と告げた。「誰が判定するんです?」とジョシュが尋ねると、ラディソンは「もちろん私だ」と答えた。
ジョシュは「失礼ですが、貴方には先入観がある」と反発し、学生たちに判定してもらうことを提案する。ラディソンは承知し、「3回の講義で20分ずつ与える。私は出来るだけ口を挟まない」と述べた。食堂で昼食を取る際、ジョシュは同じ大学に通う恋人のカラに「信仰を守りたいのなら、そんな講義を取らなきゃいいのよ」と呆れられる。ジョシュが「でも誰かが神を守らなきゃいけない気がして」と言うと、彼女は「私が第三希望の大学を選んだのは将来のことを考えたからよ。ロースクールに進むんでしょ。だったら良い成績を取らなきゃ」と諌めた。調理場で働くアイシャは、2人の会話が気になった。
礼拝センターに赴いたエイミーは、狩猟製品会社を経営するウィリー・ロバートソンと妻のコリーにインタビューする。動物を傷付けて金を稼いでいることを指摘すると、ウィリーは「俺は獲物を仕留めて殺すんだ」と告げた。番組で神に祈りを捧げていることについて質問されたウィリーは、信仰について自分の考えを語った。仕事を終えたアイシャは、ニカーブを顔に巻き付けた。同僚から「美人なんだから隠さなくてもいいのに」と言われた彼女は、戸惑いながら「父が厳しいの」と告げた。迎えに来た父の車に乗り込んだアイシャは「誰と話してた?」と訊かれて、「知らない子よ」と嘘をついた。父のミスラブはアイシャに、「同じ世界にいながら遮断するのは難しいが、絶対に関わってはいけない。ここにいる人々は幸せそうに見えるが、神を心から信じている者などいない。何よりも信仰心が大切なんだ」と説いた。
ジョシュは教会を訪れ、デイヴに相談する。「クラスの中で教会に行っている人は何人ぐらいいると思う?」と質問されたジョシュは、「たぶんゼロでしょうね」と答える。するとデイヴは、「では、君が教授の挑戦を受けて神の存在を明らかにすれば、みんなにとっても神を知る有意義な時間になるわけだ」と語る。彼はジョシュに、マタイの福音書10章32節とルカの福音書10章48節を読むよう助言した。帰宅したジョシュはデイヴの言葉に従って聖書を読み、メールを送って新たな助言を求める。するとデイヴは、「ただ真実を話しなさい」というメッセージを送った。
翌日、ずっとスティーヴンス医師からのメールを無視していたエイミーは、ようやく病院へ出向いた。スティーヴンスは「検査の結果は癌だった。既に転移している」と言い、すぐに治療を始めるよう告げた。ジョシュはカラと出会って丸6年の記念日に、ニュースボーイズのライブチケットを用意していた。カラは喜ぶが、彼がラディソンに反論する気だと知って腹を立てる。ジョシュは「僕にはやりたいことをする権利も無いのか」と反発し、カラの説得に耳を貸さなかった。
デイヴは長年の夢を叶えたいジュードに付き合い、車でフロリダのウォルト・ディズニー・ワールド・リゾートへ向かおうとする。しかし車が故障して動かないため、レンタカーを使うことにした。ジョシュは2度目の講義に出席し、「神は存在しないことも証明できない」と主張した。彼は「ビッグバンは聖書に記されている。科学は間違っていた」と言い、ホーキング博士の言葉を根拠として示す。レンタカーが届くまで時間があるため、デイヴとジュードは足止めを余儀なくされた。
ジョシュが弁論を終えると、ラディソンはホーキングが「宇宙の存在に神は不要だ」と断言していることを指摘した。困ったジョシュは、「どう答えていいか分かりませんが、僕の信仰は変わりません」と答えるだけだった。教室を出たジョシュはラディソンに睨まれ、「あの講義には私という神が存在する。いつまでも茶番を綴るのなら、あらゆる手を使ってロースクールへの道を閉ざしてやる」と脅し文句を浴びせられた。カラは忠告を無視したジョシュに激しい怒りをぶつけ、別れを切り出した。ジョシュはカッとなって反論し、「譲れないこともある」と鋭く告げた。
帰宅したアイシャは、父や弟に内緒でキリスト教の説法を聴く。しかし弟に知られてしまい、慌てて「父さんには言わないと約束して」と釘を刺した。エイミーはマークとレストランで夕食を取る時、癌になったことを告白した。マークが冷たい対応を見せたので、エイミーは幻滅した。図書室でマーティンと遭遇したジョシュは「どうして教授に反論するのか」と質問され、「イエスは僕の友だからかな。僕にとっては、彼は生きている」と答えた。デイヴとジュードはレンタカーを受け取るが、出発しようとすると動かなかった。
翌日、ミーナは兄のマークに電話を掛け、母の調子が悪いので面会に行くよう頼んだ。しかしマークは仕事が多忙だと理由を付け、冷たく断った。ラディソンは帰宅し、夕食会の準備をしてくれた妻のミーナに礼を言う。ミーナはラディソンの元教え子で、大学時代に付き合い始めていた。ミーナはクリスチャンだが、それを知った上でラディソンは結婚している。しかしミーナが今も熱心に聖書を読んでいると知り、ラディソンは快く思わなかった。
デイヴとジュードは新しいレンタカーを手配してもらうが、また動かなかった。夕食会で友人たちと話したラディソンは、学部長に出世できる可能性は高いと話す。彼は友人たちに、神の存在を証明すると言っている新入生がいることを明かした。するとミーナは、「不公平だわ。学生は人前に立つことに不慣れだし、貴方の専門分野でしょ」と告げる。ラディソンが「私は止めたが、彼が譲らないんだ」と言うと、ミーナは「ここでは少数派だけど、私は神を信じてる」と述べた。ワインが腐っているのにラディソンと客たちが気付くと、ミーナは「トランクに入れたままだったを忘れてた」と釈明した。するとラディソンは「己の限界を知れ」という意味のソクラテスの言葉を引用し、客たちと一緒に軽く笑った。
3回目の講義で、ジョシュは「ホーキングの論理には欠陥がある」と主張するジョン・レノックスの言葉を引用しただけでなく、「哲学は死んだ」というホーキングの言葉に触れた。デイヴはミーナから、ラディソンとの関係について相談される。デイヴは「君はシンデレラ・コンプレックスだな」と指摘し、「恋愛を通じて自己イメージを高めようとするのは間違いだよ」と告げた。彼が「君は神に愛されてる。パートナーにどう思われていても関係ない。真実の相手にとっては、君が全てになる」と話すと、ミーナの心は穏やかになった。
ジョシュはダーウィンの進化論も全面的に否定し、聖書の言葉を借りて「生命の誕生は全て神の意思である」と主張した。エイミーは誰の付き添いも無く病院を訪れ、検査を受けた。ラディソンは講義の後、ジョシュに「君の勇気は認めよう」と嫌味っぽく告げてヨブ記の言葉を口にした。「何があったんです?」とジョシュが訊くと、彼は「12歳の時、母を癌で亡くした。神に救いを求めたが、母は死んだ」と語る。ジョシュが困惑しながら「願いが叶わないい時もある」と言うと、ラディソンは「君は他人事だからそう言えるんだ。母は死の間際でも神を信じていた。だから神など信じるに値しない」厳しい現実で目が覚めたんだ」と鋭く告げた。
アイシャは弟の密告でクリスチャンであることを父に知られ、暴力を振るわれた。信仰を捨てないアイシャを、父は涙で家から追い出す。マーティンはジョシュの弁論を聞いている内に、神の存在を信じるようになった。しかし中国に住む父に電話を掛けると、「馬鹿なことを言わないで、兄の分まで勉強しろ」と叱責された。翌日、ミーナは大学へ乗り込み、ラディソンに「離婚するわ」と通告して立ち去った。ミーナが泣きながら教会に来たので、デイヴは「君は勇気を持って信仰を貫いた。神は君を称賛するだろう」と励ました…。

監督はハロルド・クロンク、原案はケイリー・ソロモン&チャック・コンツェルマン&ハンター・デニス、脚本はケイリー・ソロモン&チャック・コンツェルマン、製作はデヴィッド・A・R・ホワイト&エリザベス・トラヴィス&アンナ・ジーリンスキー&マイケル・スコット&ラッセル・ウォルフ、製作総指揮はトロイ・デュホン&ロバーツ・カッツ、共同製作はリサ・アーノルド&ジャレッド・コーツ&ケイリー・ソロモン&チャック・コンツェルマン、製作協力はマット・シャピラ、撮影はブライアン・シャンリー、美術はクレア・サンチェス、編集はヴァンス・ヌル、衣装はションタ・ジョンソン&ジョン・スミス、視覚効果プロデューサーはグレゴリー・L・カーター、音楽はウィル・マッサー。
出演はケヴィン・ソルボ、シェーン・ハーパー、デヴィッド・A・R・ホワイト、ディーン・ケイン、ニュースボーイズ、ウィリー・ロバートソン、コリー・ロバートソン、キャシディー・ギフォード、ポール・クオ、トリーシャ・ラフェイチ、コリー・オリヴァー、マルコ・カーン、ベンジャミン・オヤンゴ、ピーター・チェン、ハディール・シトゥー、ジェシー・ワン、レノーラ・バンクス、ラッセル・ウォルフ、アレックス・アリスティデス、マイケル・タイト、ジョディー・デイヴィス、ジェフ・フランケンステイン、ダンカン・フィリップス、ロス・ブリッツ、テイラー・ロッポロ、レイシー・ブルサード、ルーシー・ファウスト、ウェンディー・ミキロヴィッチ、リサ・アーノルド、ジム・グリーソン他。


アメリカで実際にあった訴訟事件から着想を得た作品。
監督は『カウントダウン 合衆国滅亡の時』のハロルド・クロンク。
ラディソンをケヴィン・ソルボ、ジョシュをシェーン・ハーパー、デイヴをデヴィッド・A・R・ホワイト、マークをディーン・ケインが演じている。
クリスチャンバンドのニュースボーイズと、熱心なキリスト教徒として知られている狩猟製品会社「Duck Commander」社長のウィリー・ロバートソン&妻のコリーが本人役で出演している。

粗筋を読めば分かる人も多いだろうが、これはカトリックのプロパガンダ映画である。
キリスト教国家であるアメリカでは、キリスト教を題材にした映画、キリスト教の影響が色濃く出た映画が数多く作られている。そしてキリスト教のプロパガンダ映画も、これまた何本も作られている。
キリスト教と一口に言っても、実は多くの宗派が存在している。かなり過激な宗派もあるし、他の宗教に寛容な宗派もある。
それは仏教にも色んな宗派があるのと似たようなモノだ。

私は信者でもないのにキリスト教のプロパガンダ映画を何作か観賞して来た不届き者である。
そんな人間からすると、プロパガンダ映画は世の中に多く存在するが、その中でもキリスト教のプロパガンダ映画はかなり厄介な部類に入ると感じる。
何が厄介なのというと、作り手が「自分は正しい」と信じ込んでいることだ。だから何の迷いも無く、自分の考えを「正義」として観客に提示する。それだけでなく、「自分の信じるキリスト教は正しくて、それに反する教義や考え方は間違っている」と決め付けて厳しく否定するのだ。
確信犯ってのは、ものすごくタチが悪いんだよね。

この映画の作り手たちからすると、無神論者ってのは全否定すべき悪しき存在なのだ。そんな連中は、どれだけ糾弾しようと許されるのだ。劇中で無神論者は不愉快で失礼なクズどものように描かれているが、作り手のクリスチャンからすると、実際にそういう連中のように見えているのだ。
もちろん言うまでもないだろうが、本当の無神論者がそんな連中というわけではない。そしてクリスチャンの中にも、ヘドが出るようなクソ野郎どもは大勢いる。例えば聖職者による児童の性的虐待事件なんかは、世界各地で大きな問題になっているしね。
ただ、作り手たちからすると、クリスチャンは絶対的な正義であり、無神論者は絶対的な悪なのだ。
だから、そういう分かりやすい善悪の構図で描くことには、何の迷いも無い。そんな風に見えているんだから、仕方がないのである。

そもそも哲学クラスは選択科目であり、ジョシュは考え直した方がいいと忠告されている。
ラディソンは全ての生徒に対して無神論を押し付けているわけではなく、最初から「私の講義はこういう考えに基づいて進めますよ」と宣言している。
それでも選んだのはジョシュ自身であって、なのにラディソンを否定するんだから、メチャクチャだ。
ラディソンは最初の講義で「貴重な時間を無駄にしないためにも、神がいるかいないかを議論するつもりは無い」と言っているんだから、その段階で立ち去ればいいだけだ。

例えば、キリスト教の集会に無神論者が乗り込んで行って「君たちは間違ってる」と厳しく糾弾したら、そこにいる人々はどう思うだろうか。仮に何も知らずに迷い込んだとしても、さっさと立ち去るべきだろう。
逆の立場だったらと考えてみれば、いかにジョシュがイカれているかが良く分かる。
カラが「信仰を守りたいのなら、そんな講義を取らなきゃいいのよ」と呆れたように指摘するのは当然であり、それに対して「でも誰かが神を守らなきゃいけない気がして」とジョシュが反論するのは、ただの驕りに過ぎない。
そんな必要は全く無いし、百歩どころか百万歩譲って誰かが守らなきゃいけないとしても「テメエの役目じゃねえよ」と言いたくなる。

議論の判定をラディソンがすると聞いたジョシュは、「貴方には先入観がある」と言う。
だけど、そんなジョシュだってクリスチャンとしての先入観に囚われている。そういうことは完全に無視されている。
ジョシュから相談を受けたデイヴは、「君が教授の挑戦を受けて神の存在を明らかにすれば、みんなにとっても神を知る有意義な時間になるわけだ」と大真面目に語っている。これが作り手たちの考え方だ。
「無神論者に自分たちの教えを説くことは絶対的に正しい」と思い込んでいる。

無神論者の哲学者たちが夕食会で楽しく話しているのに、わざわざミーナが首を突っ込んで「私は神を信じてる」と主張するのも、その場の雰囲気を壊す迷惑な女でしかない。だが、本作品では彼女の方が正しい人間という扱いだ。
無神論だけでなく、この映画はイスラム教も否定する。クリスチャンからしてみればイスラム教は絶対的な悪なので、それは当然だろう。
イスラム教信者の父を持つアイシャや中国人のマーティンもクリスチャンの設定にしてある辺りは、なかなか狡猾だ。
「どんな人種でも、どんな環境下で育っても、クリスチャンになるべきだし、クリスチャンになれば幸せだよ」ってことをアピールしたいのだ。

この映画ではラディソンだけでなく、ニーチェやカミュ、フロイトやチョムスキーといった偉大な知識人たちも「無神論者である」という一点のみで全否定される。
「みんな仲良く和気藹藹」「意見の異なる相手の言葉にも耳を傾けよう」なんてのは、作り手たちの感覚からすると絶対に有り得ないのだ。無神論者は徹底的に打ちのめすべき敵であり、叩き潰して完全勝利を奪取すべき相手なのだ。
そして「実はラディソンも昔はクリスチャンだった」という設定を用意し、最終的には「彼も信仰を取り戻す」という展開にしてある。
こうして、この映画は哲学を殺し、無神論者を抹殺するのである。

恐ろしいことに、ラディソンは徹底的に打ち負かされて全てを失ったのに、それでも忌々しいクリスチャンどもは彼を許さない。無神論者を撲滅するために、「ひき逃げに遭って死ぬ」という展開を用意している。
現場を目撃したデイヴは、死にそうなラディソンに向かって「イエスを信じてるか」と問い掛ける。ラディソンが無神論者だと知った彼は、「これは神の憐れみだ。あれほどの事故なら普通は即死だ。神を信じない君が答えを変えるチャンスをくれたんだよ」と何食わぬ顔で言い放つ。
つまり、「クリスチャンじゃないと罪は許されないし、死んでも天国には行けない」と脅しているようなモノだ。
クズだろ、クリスチャンって。

「神の意思は悪を倒すこと」「クリスチャンには善悪の区別が明確にある」「善悪を判断する道徳的な指針は神だ」とジョシュは主張しているが、これに作り手たちは何の疑問も抱いていないわけだ。そして「宗教は病だ」とラデイソンに言わせて、それは間違っている」という結論に導いている。
でも、この映画を見た限り、やっぱり宗教は病だ。だって、こんな映画を平気で作れちゃう人間は、どう考えても病んでいるでしょ。
クリスチャンじゃないから善悪の区別は付かないかもしれないけど、これがイカれた映画かどうかの区別は付くよ。
こういう真面目にイカれている映画がスマッシュヒットしちゃうんだから、宗教や宗教国家なんてのはロクなモンじゃないわ。

(観賞日:2021年4月18日)

 

*ポンコツ映画愛護協会