『カーリー・スー』:1991、アメリカ

9歳の孤児カーリー・スーは、父親代わりの男ビル・ダンサーと共に浮浪者生活を続けている。ビルは元恋人だったカーリーの母親が死んだ後、娘のカーリー・スーを託されたのだ。2人はペテンを繰り返しながら、街から街へと流れ歩いている。
今回、ビルとカーリー・スーが辿り着いたのはシカゴだ。早速、2人は晩御飯にありつくためのペテンを実行する。駐車場でカーリー・スーがビルを殴ってタンコブを作り、発進する車にビルがぶつかってケガをしたように見せ掛ける。いわゆる当たり屋だ。
弁護士のグレイ・エリソンは、ビル達のペテンに引っ掛かった。ビルとカーリー・スーは、グレイに晩御飯を御馳走になった。ところが数日後、今度は本当にビルがグレイの車にひかれてしまう。グレイはビルとカーリー・スーを、自分のマンションに運び込んだ。しばらくの間、グレイはビルとカーリー・スーを居候させることにした。
やがてグレイは、カーリー・スーがマトモな教育を受けておらず、ビルのペテンを手伝っていることを知る。グレイはビルを非難し、カーリー・スーを置いて出て行くよう告げる。しかしビルの言葉を聞いて自分の意見を撤回し、そのまま居候を続けさせる。
やがてビルは、仕事の口を見つけた。ビルとグレイは、互いに惹かれ合うようになる。だが、グレイの恋人ウォーカーは、カーリー・スーがビルから虐待を受けていると警察に密告した。そのため、ビルは逮捕され、カーリ・スーは施設に連れて行かれてしまう…。

監督&脚本&製作はジョン・ヒューズ、製作協力はリン・M・モーガン、製作総指揮はターキン・ゴッチ、撮影はジェフリー・L・キンボール、編集はペック・プリオ&ハーヴェイ・ローゼンストック、美術はダグ・クレイナー、衣装はマイケル・キャプラン、音楽はジョルジュ・ドルリュー。
出演はジェームズ・ベルーシ、ケリー・リンチ、アリサン・ポーター、ジョン・ゲッツ、フレッド・ダルトン・トンプソン、キャメロン・ソー、ブランスコーム・リッチモンド、スティーヴン・カレル、ゲイル・ボッグス、バーク・バーンズ、ヴィヴェカ・デイヴィス、バーバラ・ターバック、エディ・マックラーグ、チャールズ・アダムス、ジェームズ・W・ボリンスキー、ライル・ブラウン他。


“バブルガム・ムーヴィー”(と古川土竜が勝手に呼んでいる)の第一人者ジョン・ヒューズが、監督&脚本&製作を務めた作品。
ビルをジェームズ・ベルーシ、グレイをケリー・リンチ、カーリー・スーをアリサン・ポーター、ウォーカーをジョン・ゲッツが演じている。またアンクレジットだが、グレイが終盤に助けを求める政治家アーノルドをジョン・アシュトンが演じている。

この映画は、意図したところの全てで上っ面だけを軽くなぞり、薄皮だけで終わらせてしまう。例えば、「グレイは冷徹な弁護士だが、ビル&カーリー・スーと出会って優しくなっていく」という変化を描こうとしている。しかし、実際は全く描けていない。
まずグレイの冷徹さを示すのは、序盤にアーノルドとの離婚訴訟を起こす妻に対して「旦那さんを破綻させる方法がある」という程度。その直後に上司から「今に破滅するぞ」と忠告された時の表情には、冷酷さよりも不安が覗える。本当に冷酷な女性として描きたいのであれば、上司から忠告されても平然と跳ね付けるようにすべきだろう。

次にグレイはビルとカーリー・スーのペテンに引っ掛かり、晩御飯を御馳走する。自分に非がある(と思っている)とはいえ、ちっとも冷酷じゃない。本当に冷酷なら、人をはねても隠蔽を試みたり、その場で金を払って早急に立ち去ることを考えるだろう。
ウォーカーに電話を掛けるグレイのオドオドした態度からは、冷酷さは感じられない。食事をしているカーリー・スーに向ける笑顔(作り笑顔ではない)からも、冷酷さなど微塵も感じられない。2人と別れた後も、グレイはカーリー・スーのことを思い出して気にしている。最初から、ものすごく優しくて人情味のある女性に見えてしまう。

おまけに、グレイは次に事故を起こした時は、向こうが頼んだわけでもないのに、自らビルとカーリー・スーを居候させる。普通に考えれば、「強引に居候を決め込む2人を何とか追い出そうとするが、次第に心情が変化していく」という流れにするだろう。
すなわち、グレイの「冷徹から優しさへ」という心情変化は無いということだ。それを見せたいのなら、ビル達と出会った時点では冷酷な態度を取らせるべきだろう。大体、その段階で、グレイより遥かにイヤな性格を表現するウォーカーを出してどうすんの。

この映画は、ビルとカーリー・スーの絆を描こうとしている。だが、エピソードを使ってビルのカーリー・スーに対する思いやり、カーリー・スーのビルに対する愛を描き出すことは無い。「大好き」とか「愛してる」とか口で言うだけでは、本当の絆なんて見えてこない。
この映画は、ビルとグレイの恋愛を描こうとしている。だが、「最初は不快に思っていたのが、やがて好感に変化し、愛情になっていく」という流れは無い。グレイがビルの優しさや意外な一面に触れ、今までと印象が変わるといったことは無い。どこに、いつ頃から、なぜゆえにビルに惚れるようになったのか、まるで分からない。

仕事を見つけたことをビルがグレイに告げるシーンで、カーリー・スーがヤキモチを焼くシーンが1度だけある。そもそも、そこでビルとグレイが惚れ合っているってのが引っ掛かる。おまけに、カーリー・スーのジェラシーで話を広げることも無い。
いや、別に最初から意図していないのなら、それが描けていなくても構わないだろう(ただし、それだと何も無い映画になるが)。しかし、前述したようなビル&カーリー・スーの絆、グレイの心情変化、ビルとグレイの恋愛を描こうとしていることは明白なのだ。しかし実際は出来ていないわけだから、つまり失敗ってことになるわけだ。

もしかするとジョン・ヒューズは、脚本を書いた『ホーム・アローン』がヒットしたことで、大きな勘違いをしてしまったのではないだろうか。子供を登場させて可愛らしさをアピールし、後は適当にドタバタを織り交ぜていれば映画は当たるという風に。
だから、この映画では、過剰なぐらいにアリサン・ポーターが「おしゃまで可愛いカーリー・スー」「こまっしゃくれたカーリー・スー」をアピールしているし、ウォーカーやメイドを絡ませた軽いドタバタで時間を費やしているのではないだろうか。

まあ、そんなわけなので、「ホントはイヤなガキだった(という噂のあった)アリサン・ポーターが、それを微塵も感じさせない可愛らしい女の子を見事に演じ切った」というところに価値を見出すべき映画なのかもしれない。
って、なんだよ、その映画は。

 

*ポンコツ映画愛護協会