『コクーン』:1985、アメリカ
老人アート、ベン、ガンを患っているジョーは、老人コミュニティー“サニー・ショア”で暮らしている。3人は毎日、隣の無人屋敷に侵入してプールを勝手に借用している。一方、港では、クルーザー船の船長をしている青年ジャックが、ウォルターという男とキティーという若い女性に声を掛けられ、船を27日間、チャーターしたいと告げられる。
いつものように隣の敷地に入ったアート達は、ウォルターがプールを借り切る契約を交わしている様子を目撃する。ウォルターと彼の仲間達はジャックの操縦で海に出て、大きな繭を幾つも引き揚げ、それを屋敷のプールに運び込んだ。ウォルター達の留守を見計らってプールに入ったアート達は、急に元気がみなぎるようになる。
キティーの着替えを覗き見たジャックは、彼女が人間とは全く違う姿に変身するのを目撃する。ウォルターはジャックに、本当のことを話すことにした。実はウォルター達はアンタリア星から来た宇宙人で、100世紀ほど前に地球に来たまま置き去りになっている仲間を助けに来たという。大きな繭には、ウォルター達の仲間が入っていたのだ。
アート達はコミュニティーの仲間バーニーもプールに誘うが、彼は入ろうとしない。そこへウォルター達が戻って来たため、彼らは慌てて姿を隠した。宇宙人の変身を目撃したアート達は、慌てて逃げ出した。後日、ベンはウォルターに会い、プールを使わせて欲しいと頼む。ウォルターは、繭に触れないという条件でプールの使用を許可した。
アート達は、それぞれのパートナーであるベス、メアリー、アルマも誘ってプールを使う。だが、ジョーとバーニーの言い争いがきっかけで、プールが元気の源だと他の老人達に知られてしまう。大挙してプールに押し寄せた老人達は、繭を乱暴に扱った。戻ってきたウォルターは老人達を追い帰すが、繭の中にいた仲間が死亡してしまう…。監督はロン・ハワード、原作はデヴィッド・サパーステイン、脚本はトム・ベネディク、
製作はリチャード・D・ザナック&デヴィッド・ブラウン&リリ・フィニー・ザナック、製作協力はロバート・ドゥーデル、撮影はドン・ピーターマン、編集はダニエル・P・ヘンリー&マイク・ヒル、美術はジャック・T・コリンズ、衣装はアギー・ガーラード・ロジャース、スペシャル・クリーチャー・コンサルタントはリック・ベイカー、スペシャル・エイリアン・クリーチャー・エフェクツはグレッグ・キャノン、音楽はジェームズ・ホーナー。
出演はドン・アメチー、ウィルフォード・ブリムリー、ヒューム・クローニン、ブライアン・デネヒー、スティーヴ・グッテンバーグ、ターニー・ウェルチ、ジャック・ギルフォード、グウェン・ヴァードン、モーリーン・ステイプルトン、ジェシカ・ダンディ、ヘルタ・ウェア、バレット・オリヴァー、リンダ・ハリソン、タイロン・パワーJr.、クリント・ハワード、チャールズ・ランプキン他。
ILMがSFXを担当し、アカデミー賞では視覚効果賞を受賞した作品。
アートをドン・アメチー、ベンをウィルフォード・ブリムリー、ジョーをヒューム・クローニン、ウォルターをブライアン・デネヒー、ジャックをスティーヴ・グッテンバーグ、キティーをラクエル・ウェルチの娘ターニー・ウェルチ、バーニーをジャック・ギルフォードが演じている。
さらにベスをグウェン・ヴァードン、メアリーをモーリーン・ステイプルトン、アルマをジェシカ・ダンディ、バーニーの妻ローズをヘルタ・ウェアが演じている。また、タイロン・パワーの息子タイロン・パワーJr.が、宇宙人のピルスバリー役で映画デヴューしている。この映画には、ファンタジーがある。
安直な現実逃避と言えばそれまでだが、年を取って体が衰え、死に近付いていくのが当たり前の老人達に、健康な肉体を与える。肉体が若返ることで、気持ちにも張りが生まれ、エネルギッシュに行動するようになる。終盤、アート達は不老不死のために別の星に行くか、地球に残るかという選択を迫られる。
別の星に行く(宇宙へ旅立つ)ことを死の言い換えとして捉え、「死を恐れずに受け入れよ」という意味に考えるべきなのかとも思ったが、例えばローズの死は普通に描かれているし、やはり普通に不老不死になると受け取るべきなのだろう。選択を迫られた彼らに、葛藤はほとんど無い。
特に迷うこともなく、すんなりと不老不死のために別の星に行くことを選ぶ。
未知の場所に行くことを、勇気と呼ぶこともできるだろう。
しかし、私は大きな引っ掛かりを覚えた。
自然に逆らう行為だから、そこに違和感を覚えるのではない。
そこには、決定的に欠けていることがあると思うのだ。それは、家族の存在である。
老人なので、子供や孫の存在と言い換えてもいい。
他の星に行くと、2度と会えないのである。
子供や孫との関係を完全に断ち切ってまでも、永遠に生き続けるという選択を、果たして好意的に受け止めるべきなのだろうか。劇中に登場しないので、ひょっとするとアートとジョーは子供や孫がいないか、もしくは完全に決別状態にあるのかもしれない。
だが、少なくともベンとメアリーには、娘のスーザンと孫のデヴィッドが登場する。
デヴィッドは、ベンとメアリーに同行しようとまでしている。老人達の中では唯一、妻のローズを失ったバーニーだけが地球に留まることを選ぶ。
だが、むしろ娘と孫が登場したベンとメアリーの方が留まるべきではないのか。
死を受け入れず、家族を捨てても永遠の命を得るということが、本当にハッピーエンドなのだろうか。
結末は、人間という生物、老人という存在の全否定にさえ思えなくもない。途中までは、現実逃避のファンタジーでも構わない。
だが、最後の選択だけは、「老い」という現実を直視すべきではなかったか。
そもそも、不老不死は素晴らしいことだという映画が語る考え方(そうとしか思えない)そのものが、何か違うのではないか。不老不死になれば積極的に人生が送れるというようなメッセージには、どこかのカルト教団の教義のような匂いさえ感じてしまう。
そうではなく、老いを正面から受け止め、残り少ない人生かもしれないが、それでも有意義に積極的に生きていこうとする方が、よっぽどボジティヴな生き方と言えるのではないだろうか。それと、ジョーの軽率な行動が、他の老人達にプールのことを知られることに繋がり、そのことがウォルターの仲間の死に繋がっている。
つまり、間接的にアート達は、宇宙人を死に追いやっているのだ。
にも関わらず、何の報いも受けず、自分達だけが平気な顔をして不老不死のまま生き続けるというのは、あまりに虫が良すぎないだろうか。