『クレオパトラ』:1963、アメリカ
紀元前48年、ポンペイウスとの戦いに勝利したローマ執政ジュリアス・シーザーは、エジプト王国を訪れた。エジプトはプトレマイオス14世と姉クレオパトラが共同統治しているはずだったが、宮殿でシーザーを出迎えたのはプトレマイオス14世だけだった。若き王の側近ポタイナスらが、クレオパトラを宮殿から追放していたのだ。
クレオパトラは側近手助けでシーザーに近付き、たちまち彼を虜にした。シーザーはクレオパトラ暗殺を企んだポタイナスを死刑に処し、プトレマイオス14世を宮殿から追放した。シーザーの協力を得たクレオパトラは、エジプトの女王に即位した。
シーザーはクレオパトラに夢中になり、やがて2人の間には息子シーザリオンが誕生した。ローマに戻ったシーザーは、独裁者としての地位を固めていった。クレオパトラもローマに渡るが、元老院のブルータス達によってシーザーは暗殺されてしまう。
クレオパトラはエジプトに戻り、年月は過ぎた。ローマでは、シーザーの右腕だったアントニーと、シーザーの甥オクタヴィアンが執政となった。エジプトを訪れたアントニーは、クレオパトラの虜となった。だが、ローマに戻ったアントニーはオクタヴィアンの姉オクタヴィアと結婚することになり、それを聞いたクレオパトラは大きなショックを受ける。
クレオパトラと再会したアントニーは、彼女の言葉に押されるようにして結婚を決めた。一方、ローマではオクタヴィアンが「死んだらエジプトの土になる」と書かれたアントニーの遺書を読み上げ、元老院の怒りを喚起していた。こうして、アントニーは激しい敵意を燃やしたオクタヴィアンや家臣アグリッパ達と戦うことになった…。監督はジョセフ・L・マンキーウィッツ、脚本はジョセフ・L・マンキーウィッツ&ラナルド・マクドゥーガル&シドニー・バックマン、製作はウォルター・ウェンジャー、撮影はレオン・シャムロイ、編集はドロシー・スペンサー、美術はジョン・デキュア、Elizabeth Taylor's costumesはイレーヌ・シャラフ、men's costumesはヴィットリオ・ニーノ・Novarese、women's costumesはレニー、音楽はアレックス・ノース。
主演はエリザベス・テイラー、共演はリチャード・バートン、レックス・ハリソン、パメラ・ブラウン、ジョージ・コール、ヒューム・クローニン、チェザーレ・ダノーヴァ、ケネス・ヘイグ、アンドリュー・キア、マーティン・ランドー、ロディ・マクドウォール、ロバート・スティーヴンス、フランチェスカ・アニス、グレゴワール・アスラン、マーティン・ベンソン、ハーバート・バーゴフ、ジョン・ケアニー他。
エジプトの女王クレオパトラの物語を映画化した作品。
これまでにも1912年にチャールズ・S・ガスキル監督、1917年にJ・ゴードン・エドワーズ監督、1934年にセシル・B・デミル監督、1959年にヴィットリオ・コッタファーヴィー監督が彼女の物語を撮っている。
クレオパトラをエリザベス・テイラー、アントニーをリチャード・バートン、シーザーをレックス・ハリソン、ブルータスをケネス・ヘイグ、アグリッパをアンドリュー・キアが演じている。また、第二班監督として、レイ・ケロッグとアンドリュー・マートンが携わっている。この映画には破格の製作費が注ぎ込まれており、製作した20世紀フォックスは倒産の危機に陥った。掛かった総製作費は、当時の金額で約4400万ドルという説と、約3100万ドルという説の2つが広まっているのだが、どちらが正しいのだろうか。
ちなみにユナイトを買収に追い込んだマイケル・チミノ監督の『天国の門』の製作費が、約4400万ドルと言われている。しかし『天国の門』は1981年作品だから、現在のレートで換算すると、金額としては『クレオパトラ』の方が遥かに上ということになる。ひょっとすると、この映画の失敗は、プロデューサーのウォルター・ウェンジャーが1958年にC・M・フランツェロの小説『クレオパトラの生涯とその時代』の映画化権を獲得した段階から始まっていたのかもしれない。なぜかサスペンスとして作ろうと考えたウェンジャーは、アルフレッド・ヒッチコックに監督を依頼し、当然の如く断られた。
20世紀フォックスは監督にルーベン・マームリアンを推薦し、シーザー役にはピーター・フィンチ、アント二―役にはスティーブン・ボイドが起用された。当初の製作費は、300万ドルの予定だった。ここまでは、まだ大きな問題は生じていなかった。フォックスはクレオパトラ役にギャラの安い女優を使おうとしたが、ウェンジャーの強い希望でエリザベス・テイラーの起用が決定した。テイラーが出した「100万ドルの出演料と興行収入の10%」という報酬の条件を、フォックスは受け入れた。これにより、予定していた予算の3分の1がテイラーへのギャラに回されることになった。
1959年、ハリウッドのフォックス・スタジオにセットが作られ始めるが、経費削減を理由に海外で撮影することが決まった。ハリウッドのセットは取り壊され、ロンドンの撮影所にセットが建設された。もはや、当初の予算で製作することは不可能になっていた。難航した脚本の作成が終了し、ようやく撮影が始まった。だが、テイラーが発熱で倒れたため、彼女抜きでの撮影となった。さらに撮影所が映画と合わないため、撮影は中断されることになった。テイラーの意向により、監督はルーベン・マームリアンからジョセフ・L・マンキーウィッツに交代した。もちろん、新たにギャラが発生することになった。
既に撮影されていたフィルムは、全て破棄された。監督の交代に伴ない、脚本も一から書き直されることになった。シドニー・バックマンとラナルド・マクドゥーガルが続けて雇われた。撮影の予定が大幅に遅れたことで、キャスティングもテイラー以外は変更された。新しく起用した俳優達に払う報酬のため、さらに予算は膨らんだ。撮影スタジオは、ローマに移されることになった。しかし撮影スタートの日になっても、まだ脚本は完成していなかった。結局、マンキーウィッツが撮影をしながら台本を書くことになった。当然、順撮りをするしか無い。「同じ場所を使うシーンなら続けて撮る」ということも出来ず、そのために余計な費用が発生することになった。
トラブルの連発にトドメを差したのは、テイラーとバートンの不倫スキャンダルだった。精神状態が不安定になったテイラーは、撮影など出来る状態ではなかった。さらに映画の完成は遅れ、最終的に予算は当初予定から10倍以上に膨れ上がった。苦労の末に出来上がったのは、長尺の人間ドラマだった。派手な衣装で着飾った人々に、派手な見せ場を与えようとはしなかった。豪華なセットを作って大量のエキストラを使っても、激しい戦闘シーンは充実させようとはしなかった。何しろ戦闘シーンを充実させてしまうと、女性であるクレオパトラは脇役になってしまうのだ。
結局のところ、ケレン味を拒否したメリハリの無い映画の中身よりも、製作を巡る過程のドタバタの方が遥かに面白いのである。その顛末を、映画化してほしいと思うぐらいだ。ただしシリアスなドキュメンタリー作品ではなく、コメディー映画として。