『キャリー』:2013、アメリカ

マーガレット・ホワイトは自宅のベッドで陣痛に見舞われ、激しく苦悶していた。彼女は妊娠に気付いておらず、癌だと思い込んで神に祈りを捧げた。しばらくしてマーガレットは、自分の股間に女児がいるのを目にした。彼女は出産を試練だと決め付け、女児をハサミで殺害しようと考える。しかし謎の力によってハサミは制止し、マーガレットは女児を抱き上げた。女児はキャリーと名付けられ、高校3年生に成長した。
引っ込み思案のキャリーは、プールでバレーボールをする授業でも隅っこで見ているだけだった。担任教師のミス・デジャルダンが参加するよう促すと、同級生のクリスたちが馬鹿にしたような態度で囃し立てた。キャリーが思い切ってスパイクすると、味方チームであるスーの後頭部にボールが命中した。授業を終えてシャワーを浴びている時、キャリーは初潮を迎えた。しかし彼女は初潮が理解できず、「血が出て死ぬわ。助けて」と喚いた。
クリスは友人たちと嘲笑してタンポンを投げ付け、その様子をスマホで撮影した。デジャルダンが駆け付けると、スーが「キャリーは生理を知らないんです」と教えた。デジャルダンは生徒たちを立ち去らせ、キャリーを落ち着かせて校長室へ連れて行く。モートン校長は事情を聞き、クリスたちに罰を与えることを決めた。モートンが母親を呼ぼうとすると、キャリーは嫌がった。すると部屋の冷水器が砕け散り、キャリーは部屋を立ち去った。
クリスは同級生にスマホで撮影した映像を見せ、一緒に大笑いした。マーガレットは学校を訪れ、キャリーを連れて帰宅した。隣に住む少年が馬鹿にしたので、キャリーは彼を凝視して念じた。すると少年の乗っていた自転車が念動能力で操られ、彼は転倒した。キャリーは母に、「なぜ教えてくれなかったの?」と詰め寄った。しかしマーガレットは生理を迎えた娘を罪人扱いし、罰としてクローゼットに閉じ込めた。神に祈るよう命じられたキャリーが激しく抵抗すると、ドアに亀裂が入った。
スーは恋人のトミーとカーセックスしている最中、昼間の出来事を思い出した。スーはトミーに、イジメに加担したことへの罪悪感を吐露した。クリスは恋人のビリーや友人のティナと遊んで帰宅し、昼間の映像を動画サイトにアップした。デジャルダンはイジメに参加した女子生徒たちに放課後のトレーニングを命じ、拒否すればプロムに参加させないと告げる。クリスは反発して「全員で拒否すればいい」と訴えるが、同調する女子生徒はいなかった。
学校へ赴いたキャリーは、ロッカーに自分を嘲笑する落書きがあるのを見つけた。トイレに入った彼女が念じると、手洗い場の鏡が割れた。割れた鏡に念じると自分の思い通りに動いたので、キャリーは満足そうな笑みを浮かべた。彼女は図書室へ行き、書物やインターネットで念動能力について調べた。授業で自作の詩を読むようウルマン先生から指示され、キャリーは前に出た。彼女が詩を読むと生徒たちはクスクス笑い、ウルマンは困惑の様子を見せた。するとトミーが声を発し、キャリーの詩を称賛した。
クリスの父は校長室へ乗り込み、デジャルダンの罰を糾弾する。モートンがクリスの所業を説明すると、彼は「娘はやっていないと言っている。証拠があるのか」と告げる。しかしデジャルダンが動画サイトに言及すると、同席していたクリスは黙り込んだ。クリスは父やモートンから携帯電話を見せるよう促されると、それを拒否して校長室を出て行った。クリスは生徒たちがプロムの準備をしている体育館へ行き、「父がモートンを告訴するわ」と息巻いた。スーはクリスを非難し、仲間から外れると宣言した。クリスはスーとトミーの関係を揶揄し、嫌味を浴びせた。
帰宅したキャリーは、念動能力を操るトレーニングを積んだ。スーはキャリーに償いたいと考え、トミーに「彼女をプロムへ連れて行ってあげて」と頼む。トミーは「それは変だよ。キャリーが承知するとも思えない。それに僕は君とプロムに行きたい」と難色を示すが、スーの考えは変わらなかった。トミーから誘われたキャリーは騙そうとしていると感じ、デジャルダンに相談する。デジャルダンは「きっと彼は本気よ」と言い、オシャレするようアドバイスした。
デジャルダンはスーとトミーに話しを聞き、2人が本気だと知った。トミーはキャリーの家を訪れ、改めてプロムに誘う。人目を気にしたキャリーは、門限までに帰宅する必要があることを説明した上でOKした。街へ出掛けたキャリーは、ドレスを作る生地を購入した。その様子を、クリスが目撃していた。マーガレットはキャリーからプロムに行くと聞かされ、クローゼットに入って許しを請うよう命じた。キャリーは激しく反発し、念動能力で母を驚愕させた。
マーガレットから魔女呼ばわりされたキャリーは、「もう行くわ」と決別の意思を口にした。クリスはビリーと仲間たちに、キャリーへの嫌がらせを頼んだ。クリスやビリーたちは深夜の養豚場へ潜入し、子豚を殺して血を採取した。翌日、プロム会場の飾り付けをしていたスーは吐き気を催し、トイレへ駆け込んだ。その夜、クリスとビリーは体育館へ忍び込み、豚の血を入れたバケツをステージの天井から吊るした。クリスはプロムキングとクイーンの発表を細工し、キャリーにバケツの血を浴びせる計画を立てていたのだ…。

監督はキンバリー・ピアース、原作はスティーヴン・キング、脚本はローレンス・D・コーエン&ロベルト・アギーレ=サカサ、製作はケヴィン・ミッシャー、製作総指揮はJ・マイルズ・デイル、撮影はスティーヴ・イェドリン、美術はキャロル・スピア、編集はリー・パーシー&ナンシー・リチャードソン、衣装はルイス・セケイラ、視覚効果監修はデニス・ベラルディー、音楽はマルコ・ベルトラミ、音楽監修はランドール・ポスター。
出演はクロエ・グレース・モレッツ、ジュリアン・ムーア、ジュディー・グリア、ポーシャ・ダブルデイ、アレックス・ラッセル、ガブリエラ・ワイルド、アンセル・エルゴート、バリー・シャバカ・ヘンリー、ゾーイ・ベルキン、サマンサ・ワインスタイン、カリッサ・ストレイン、ケイティー・ストレイン、シンシア・プレストン、ディミートリアス・ジョエット、モーナ・トラオレ、コナー・プライス、ジェファーソン・ブラウン、エヴァン・ギルクライスト、エディー・ヒューバンド、カイル・マック、マックス・トップリン他。


スティーヴン・キングの小説を基にした1976年の同名映画をリメイクした作品。
監督は『ボーイズ・ドント・クライ』『ストップ・ロス/戦火の逃亡者』のキンバリー・ピアース。
脚本は、オリジナル版を手掛けたローレンス・D・コーエンと、TVドラマ『ビッグ・ラブ』『Glee』のロベルト・アギーレ=サカサによる共同。
キャリーをクロエ・グレース・モレッツ、マーガレットをジュリアン・ムーア、デジャルダンをジュディー・グリア、クリスをポーシャ・ダブルデイ、ビリーをアレックス・ラッセル、スーをガブリエラ・ワイルド、トミーをアンセル・エルゴート、モートンをバリー・シャバカ・ヘンリーが演じている。

オリジナル版の『キャリー』は、スティーヴ・キング作品の映画化としても、ブライアン・デ・パルマ監督の映画としても、ベスト3に入れてもいいんじゃないかと思えるような出来栄えだった。
そういう条件を取っ払っても、かなり高い評価を受けている作品だ。
だから、それをリメイクしようとする時点で、かなり厳しいと言えよう。
それなのに、このリメイク版はキャスティングの段階で大きな過ちを犯している。ただでさえ難しいリメイクなのに、その段階で新たな難題を背負い込んでいるのである。

キャスティングの過ちとは、クロエ・グレース・モレッツをヒロインに起用したことだ。
まず「キャリー役には可愛過ぎる」というのが大きな問題だ。
キャリーってのは、「白鳥の中に紛れ込んだ蛙」と称されるような少女だ。惨めで、貧相で、陰気で、不気味な少女であるべきだ。「いかにもイジメの対象になりそうだよね」と腑に落ちるような存在であるべきだ。
そういうキャラクターにクロエ・グレース・モレッツが適役なのかどうかは、もはや「言わずもがな」だろう。
クロエ・グレース・モレッツを「イジメの対象にされるヒロイン」に配役するのであれば、例えば「男にモテモテなので、女子から妬みを買って攻撃される」といった改変が必要になるだろう。しかし、そういう改変は行われていない。
また、メイクによって可愛さを隠したり、不気味な容貌にしたりするという手もある。しかし、そういう作業は何も施さずに、「可愛いままのクロエ・グレース・モレッツ」としてキャリーを演じさせている。

「可愛いままのクロエ・グレース・モレッツ」にキャリーを演じさせたことによって、この物語のメインイベントであるプロムのシーンにも大きな悪影響が生じている。
本来なら、そこは「今までは容姿の冴えない陰気な少女だったが、心を開いてドレスアップした途端、魅力的で美しくなる」という変身の面白味があったのだ。
しかしクロエ・グレース・モレッツは最初から可愛いので、そこの落差が弱くなってしまう。
化粧とドレスで変身しても、「ちょっとケバくなっただけ」になってしまう。

もちろんシシー・スペイセクが優れた女優であったこと、見事な配役であったことは事実だし、リメイク版で彼女に匹敵する女優を見つけ出すことは困難だろう。
しかし、「それにしても」だ。
そもそも、クロエ・グレース・モレッツを可愛いまま使っていることからして疑問が湧くのだが、それによって本作品は青春アイドル映画と化しているのである。
「マトモにやってもオリジナル版には敵わない」ってことだったのかもしれないけど、そういうアプローチをする映画として『キャリー』が適しているとは思えないのよね。

もう1つ、クロエ・グレース・モレッツの起用で生じている問題は、「あまりにも健康的でガタイが良すぎる」ってことだ。
ここもメイクか何かで外見を変えることは出来そうなモノだが、そういう作業は行っていない。
しかし、狂信的な母に厳しい抑圧の中で育てられた少女が、そんなに健康的ってのは違和感が強い。
また、ものすごくガタイが良いために、「サイコキネシスなんか使わなくても、その気になったら女子たちをボッコボコに出来るんじゃないか」と思ってしまうのだ。

この映画は、表向きは「原作の再映画化」ということになっているのだが、実際は明らかに1976年版のリメイクだ。
何しろ原作ではなく、ほぼ1976年版の内容をなぞっているからだ。
オリジナル版をコピー&ペーストするだけならリメイクする意味が無いことは、『サイコ』や『椿三十郎』を例に挙げるまでも無いだろう。リメイクするのであれば、何かしらの変化を付けるってのが当然の作業だ。
ところが皮肉なことに、わずかに持ち込まれた改変が、ことごとく「改悪」になっているのである。

まず、冒頭にマーガレットがキャリーを出産するシーンを入れているのだが、それだけなら改変として何も問題は無い。
しかし、「出産したマーガレットがナイフで子供を殺そうとするが、特殊な力によって阻止される」という描写を入れたことが改悪だ。
それによって、キャリーは誕生した時から念動能力を持っていることになってしまう。
原作やオリジナル版では「初潮を迎えた後に念動能力が芽生える」という形になっており、いわば念動能力は「少女が大人になった」ってことの暗喩になっていたのだ。そこを変更して「産まれた時から念動能力を発動させることが出来た」ってことにすると、話が浅くなってしまうんじゃないかと。
あと、もしも「マーガレットが本人の意志で止めた」というシーンとして描写しているなら、それが上手く伝わっていないってことだし。

モートンがキャリーの名前を間違えるのを1回だけに減少させているのも、小さいようで実は大きな改悪だ。
本来なら、モートンは何度もキャリーの名前を間違えており、それに対して全く罪悪感を抱かないどころか「仕方が無いのだ」と正当性を主張するような教師のはず。そして、そういう厄介な問題教師であることが充分に示されているからこそ、キャリーの感情が爆発して犠牲になった時、そこに復讐のカタルシスを感じてスッキリするのだ。
この映画だと名前を間違えるのは最初の1度だけなので、「たまたま言い間違えた」という感じにしか見えない。
それだと、名前を間違えて呼ぶ手順の意味が無くなってしまうのよ。

クロエ・グレース・モレッツがミスキャストってことは前述したが、キャリーの造形も失敗していると感じる。
ひょっとするとクロエに合わせてキャラ設定を変更したのかもしれないが、この映画のキャリーはやけに反抗的&行動的な部分が見えるのだ。つまり、それは強さであり、積極性だ。
しかし、終盤に待ち受けている展開から逆算するならば、キャリーは「母から抑圧&虐待され、周囲から嘲笑&虐めの対象にされている」という状況に置き、「とことんまで追い詰められて念動能力が爆発する」という流れにした方がいい。
プロムの惨劇までに、それなりに発散する場を与えてしまうと、暴発に向けて貯め込むパワーが弱くなってしまう。

キャリーの味方が多すぎるってのも、大きなマイナスだ。
オリジナル版だと、キャリーに優しく接した教師のコリンズは「イジメっ子の気持ちも分かる。キャリーを見ているとイライラする」と言っている。スーにしたって、トミーをプロムに貸すのは醜悪な憐れみにしか見えなかった。
しかし本作品だとデジャルダンにしろスーにしろ、心底からの善人として描かれている。しかも、オリジナル版でも善人扱いだったトミーはともかく、図書館で助言してくれるフレディーという同級生のまで登場する。
そうじゃなくて「周囲は嫌な奴、醜悪な奴だらけ」ってことにしておかないと、キャリーの爆発に向けた伏線が弱くなっちゃうでしょ。

「キャリーが念動能力を自在にコントロールできる」という設定に変更したのは、大きな失敗だ。
そのせいで、プロムの惨劇も「キャリーは自分の意思で念動能力を発動させ、理性的に判断した上で同級生や教師たちを殺害していく」という内容になってしまう。
そうじゃなく、そこは「感情が抑え切れなくなり、コントロールできない念動能力が暴走して惨劇を招いた」という形だからこその凄みや迫力だったはずで。
プロムの惨劇に必要なのは、破壊の衝動であり、怒りのパワーであり、復讐のカタルシスなんだからさ。

つまり、普通のホラー映画ならキャリーが人々を殺す様子を観客が恐れるべきなのだが、この物語だと「これまでの鬱憤を全て解放しろ、イジメていた連中をブチ殺してしまえ」と応援したくなるのだ。
それなのに、このリメイク版では中途半端に善意を見せて、デジャルダンとスーの2人を自らの意思で助けてしまうのだ。
いや、そういうの要らないから。
そこを変更すると、この物語の肝心な部分が台無しになってしまう。改変は必要だけど、そこは大黒柱を平気で崩しているようなモンだわ。

そりゃあデジャルダンとスーはキャリーに対して親切だった面々だけど、だからって「そこは理性的に分別する」という姿なんて見せたら全てが台無しだよ。
「ちゃんと標的を定めた上で次々に人を殺す」という形にすると、キャリーが単なるヤバい殺人鬼になっちゃうでしょ。キャリーを狂気の殺人鬼に仕立て上げるんじゃなくて、「イヤボーンの法則で大変な事件が起きた」ってことにしておかないとさ。
誰かを生き残りにしたければ、「たまたま助かった」という形にすればいいのよ。
あと、「バケツが頭に落下してトミーが死亡する」というシーンが、すんげえマヌケに見えちゃうのも痛いなあ。

(観賞日:2016年4月19日)


2013年度 HIHOはくさいアワード:第5位

 

*ポンコツ映画愛護協会