『記憶の棘』:2004、アメリカ&イギリス&ドイツ

アナの夫であるショーンは、雪道をジョギング中に倒れて帰らぬ人となった。10年後、アナはジョゼフという男のプロポーズを受け入れ、アパートで婚約パーティーが開かれた。ショーンの親友だったクリフォードは妻のクララと共に、プレゼントを持ってアパートを訪れた。クララが「リボンを車に忘れたから、後で行く」と言い、クリフォードは1人でエレベーターに乗り込んだ。しかしクララはベンチに座り、思い詰めたような表情を浮かべていた。
パーティー客に声を掛けられたクララは、慌てた様子で「リボンを忘れたので」と口にした。立ち上がった彼女が出て行くと、ロビーにいた少年が尾行した。クララが夜の公園で茂みに何かを埋める様子を、少年はじっと観察していた。クリフォードに声を掛けられたアナは、ジョゼフを紹介した。公園を出たクララは改めてプレゼントを購入し、急いでアパートへ戻った。少年はクララより先にアパートへ戻り、ロビーのベンチで座っていた。
後日、アナがジョゼフや姉のローラ、ローラの夫ボブたちと共に母であるエレノアの誕生日を祝っていると、少年がやって来た。少年はアナをキッチンへ連れて行き、自分はショーンの生まれ変わりだと告げた。「ジョゼフと結婚するのは間違いだ」と真顔で言う少年に腹を立てたアナは、彼を部屋から連れ出した。アナはドアマンのジミーに少年を引き渡し、外へ連れ出すよう頼んだ。ドアマンは少年を知っており、名前がショーンであることをアナに教えた。
翌日、アナの元に少年から手紙が届き、そこには結婚しないでくれと書かれていた。アナはジョゼフと家族に事情を説明し、手紙を見せた。少年がロビーに来ていることを知ったジョゼフは声を掛け、アパートで家庭教師をしているという父親に会わせてほしいと持ち掛けた。ジョゼフはアナを電話で呼び出し、2人で少年の父であるコンテと会う。二度と行かないと約束するようコンテが求めても、少年は拒否した。立ち去ろうとしたアナは、少年が気絶するのを目にした。
帰宅したコンテは、息子がアナの夫の生まれ変わりだと主張していることを妻に話す。2人はは軽く受け止めていたが、少年は母に「僕はもう母さんの子供じゃない」と告げた。翌日、少年はアナの家に電話を掛け、「僕から逃げないで。公園で待ってる。あの場所で」と言う。アナは不在で、そのメッセージをエレノアが聞いていた。エレノアから話を聞いたアナは、公園へ出向いた。すると少年は、ショーンが倒れた場所で待ち受けていた。
「私を振り回して面白い?」と言うアナに、少年は「ボブに僕を試させればいい」と告げる。「ボブを知ってるの?」とアナが尋ねると、彼は「義理の兄だからね」と答える。「質問にちゃんと答えられたら僕を信じてくれる?」という問い掛けに、「私にサンタはいないと言った人は?」とアナは質問した。少年が「その人に会えば分かる」と言うと、アナは「子供のくせに」と鋭い表情で立ち去った。
ボブは内科医であってセラピストではなかったが、少年と会って質問することにした。ボブは少年の話を録音し、そのテープをジョゼフと家族に聞かせる。少年が語った内容には、ショーンとアナしか知らないはずの事実も含まれていた。ジョゼフやエレノアたちは、少年を家に呼んだ。ローラは「アンタは妹の夫じゃない」と怒りを示すが、アナは付き添いの母親に「今夜、ウチに泊めてもいいですか。私が目を覚まさせます」と述べた。
ドラモンド夫人が「私の名前が分かる?」と問い掛けると、「いえ。でも貴方がアナにサンタはいないと言った人です」と少年は言う。それは正しい情報だった。アナは少年を諭すこともなく、ただ泊めただけだった。翌日、彼女はクリフォードとクララを訪ね、少年のことを話す。アナの中では既に、少年が本当にショーンの生まれ変わりだと信じる気持ちが強くなっていた。アナはクリフォードに、少年と会って話してほしいと頼んだ。
アナは少年を小学校へ迎えに行き、放課後を一緒に過ごす。「私を養えるの?」「私の求めに応じられるの?」と、彼女は一緒に暮らすことを前提とした質問を投げ掛けた。アナは少年を家へ連れて行き、一緒に入浴した。室内楽団の演奏をアパートで聴いている際、少年はジョゼフの椅子をコツコツと蹴った。やめるよう求めても少年が蹴り続けたため、ジョゼフは激怒して暴れた。アパートを出た少年をアナが追うと、彼はキスをした。アナはジョゼフと別れ、少年と一緒に暮らそうと決意する…。

監督はジョナサン・グレイザー、脚本はジャン=クロード・カリエール&ミロ・アディカ&ジョナサン・グレイザー、製作はジャン=ルイ・ピエール&ニック・モリス&リジー・ガワー、製作協力はケイト・マイヤーズ、製作総指揮はケリー・オレント&マーク・オーデスキー&ザヴィエル・マーチャンド、撮影はハリス・サヴィデス、編集はサム・スニード&クラウス・ウェーリッシュ、美術はケヴィン・トンプソン、衣装はジョン・ダン、音楽はアレクサンドル・デプラ。
主演はニコール・キッドマン、共演はローレン・バコール、キャメロン・ブライト、ダニー・ヒューストン、アン・ヘッシュ、アーリス・ハワード、ピーター・ストーメア、テッド・レヴィン、カーラ・セイモア、アリソン・エリオット、ゾーイ・コールドウェル、ノヴェラ・ネルソン、マイケル・デソーテルズ、ジョー・M・チャルマース、チャールズ・ゴフ、シーラ・スミス、ミロ・アディカ、メアリー・キャサリン・ライト、スコット・ヨンセン、エリザベス・グリーンバーグ、テッサ・オーベルジョノワ、マイケル・ジョセフ・コルテーゼJr.、ジョン・ロバート・トラムトーラ、ジョーダン・ラジェ、マーゴット・ジュワーズ他。


ジャミロクワイやレディオヘッドなど数々のミュージシャンのPVを手掛けてきたジョナサン・グレイザーが、2000年の『セクシー・ビースト』に続いてメガホンを執った2作目の映画。
脚本は『存在の耐えられない軽さ』『シラノ・ド・ベルジュラック』のジャン=クロード・カリエール、『チョコレート』のミロ・アディカ、ジョナサン・グレイザー監督の共同。
アナをニコール・キッドマン、エレノアをローレン・バコール、ショーンをキャメロン・ブライト、ジョゼフをダニー・ヒューストン、クララをアン・ヘッシュ、ボブをアーリス・ハワード、クリフォードをピーター・ストーメア、コンテをテッド・レヴィン、コンテ夫人をカーラ・セイモア、ローラをアリソン・エリオットが演じている。

この映画は「少年は本当にアナの夫の生まれ変わりなのか」という部分に関して明確な答えを示さず、やや曖昧なままで終わらせている。
ひょっとすると、「観客の皆さんがそれぞれに考えて下さい」という狙いがあったのかもしれない。
だが、そこを曖昧にしていることが明らかにマイナスとして作用してしまっている。
答えをハッキリさせないこと自体がマイナスというだけでなく、答えをハッキリさせないためにショーンの心情が分かりにくくなっていることも大きなマイナスだ。

「少年は本当にアナの夫の生まれ変わりなのか」という部分を曖昧に終わらせるために、この映画は「どっちとも取れる」という描写にしてある。
その結果として、「どっちに取っても矛盾点が生じる」という問題が起きている。
少年が本当に生まれ変わりだとすれば、「ショーンがアナではなくクララを愛していた」と知った時にショックを受けるのはおかしい。
自分のことなんだから、知らないはずがないからね。

しかし生まれ変わりじゃないとすれば、それはそれで矛盾が生じる。
少年はクララが公園に埋めた手紙の束を盗んでいる。それはショーンがアナから受け取ったラブレターで、ショーンは開封せずに全て愛人であるクララに渡していたのだ。で、そこから少年はアナの情報を得ていたのだ。
だから、そこにに書かれていないことまで知っているのは不可解だ。
手紙を読んでもドラモンド夫人の顔は分からないので、アナにサンタがいないことを教えた人物であることは分からないはずだ。
手紙に書かれている内容以外に、ショーンしか知らない事実を少年が知る術は無いはずだ。

少年の表情や行動は、明らかに「まだ年端もいかないガキ」だ。
大人のショーンとしての意識があるなら、アナと家族が母親の誕生日を祝っている場所に上がり込み、ケーキのロウソクが消されて灯りが点いた途端に「アナに会いに来た」と言い、キッチンにアナを連れていって「自分はショーンだ」と口にするようなデリカシー皆無の行動は取らないだろう。
そこは礼儀を知らないガキだからこそ出来る無遠慮な行動だ。

「ジョゼフと結婚するのは間違いだ」と言うのも、ジョゼフのことを知った上で「あんな奴はダメだ」と判断して反対するならともかく、何も知らないのに最初から結婚に反対しているのもガキンチョとしての独占欲でしかない。
「手紙のことで傷付いた。とても辛かった。もう二度とあんなことはしないで」とアナに頼まれても拒絶し、電話で呼び出そうとするのも、やはりガキのワガママだ。
もしも大人のショーンとしての感覚があれば、アナが辛い思いをしていると悟ったら申し訳ないという気持ちが湧くだろうし、とりあえず自制しようと努めるだろう。もしも「死んだショーンが身勝手でストーカー気質のある男だった」ということなら、話は別だけど。
それと、この少年、まるで可愛げが無い容貌なんだよな。それも手伝って、すんげえ不愉快なクソガキにしか見えない。

もしも少年が本当に生まれ変わりだとすると、「いきなり少年の姿でアナの元へ行き、自分はショーンだからジョゼフとの結婚は中止するよう申し入れる」という行動は、ちっとも愛を感じない。
ようやくアナが前を向いて新たな人生を歩き出そうとしているのに、それを邪魔しているのだ。しかもジョゼフとの再婚を邪魔した少年は、アナの人生に責任を取れるわけでもないのだ。
ものすごく自己中心的で身勝手にしか思えない。
本当に生まれ変わりであるのなら、「またアナと一緒に暮らしたいけど、彼女の幸せのためにはジョゼフと再婚した方がいいはず」と考え、自分が生まれ変わりだという事実を明かさずにおくべきじゃないかと。
そういう「忍ぶ恋」であれば、きっと共感を誘っただろう。

色んなことを総合して判断すると、「少年はクララの埋めた手紙を読み、自分がアナの夫の生まれ変わりだと思い込んだ」という妄想狂と解釈するのが最も腑に落ちる。
しかし、そういう風に受け止めたとしても、別の意味でスッキリしないモノは残る。
それは、「そんな妄想に狂ったガキンチョのせいで、アナは二度目の喪失感を味わう悲劇に見舞われた」ということだ。
アナの辛さを考えると、少年の犯した罪は重い。
法律に違反しているわけでもないし、「そう思い込んで行動していた」というだけで本人に悪気はないから、悪い奴として批判することは難しい。でも悪気が無くても、やったことはアナの心に深い傷を与えているわけだから、やっぱり罪深いガキなわけで。
だから最終的に「どこにもぶつけられないモヤモヤ」が残ってしまい、そういう意味でスッキリしないのだ。

「少年が生まれ変わりかどうか」を曖昧にすることによって、この映画は心理サスペンスになっている。
でも、最終的に「アナが二度目の喪失感を受けて辛い思いをする」というところへ着地することを考えると、むしろサスペンスとしての味付けは邪魔になっているんじゃないかとも感じる。
ただし、じゃあ「最初から生まれ変わりじゃなくて少年の思い込み」ってことをハッキリさせた上で物語を進行すればいいのかというと、それはそれで問題がある。
とどのつまり、少年が本当に生まれ変わりであるにせよ、思い込みであるにせよ、どっちににしても大幅な改変が必要だったんじゃないかと思ってしまうなあ。

これって「少年が本当にショーンの生まれ変わりかどうか」ってことに主眼は無くて、まだショーンのことを引きずっているアナの心理が重要なんじゃないかと思うんだよね。
だけど、こういう作りにしてしまったら、やはり「少年の言っていることは事実なのか」という部分に意識が向いてしまうわけで。
しかも、ホントは「哀しみのアナ」に共感したり同情したりするところへ着地すべきだろうに、ちっとも気持ちが動かないんだよなあ。
それどころか、バカバカしさを感じてしまうほどだ。

アナへの同情心が沸かない一因として、少年が「自分はショーンの生まれ変わりじゃない」と告白した後、彼女がジョゼフに「今回のことは私が悪いわけじゃない。貴方とやり直したい」と言い出すことが挙げられる。
ジョゼフの方がアナを許して受け入れるならともかく、アナの方から「私は悪くない」と主張するなよ。
すげえ身勝手にしか思えないぞ。
ヨリを戻そうとするにしても、せめて「自分が悪かった、愚かだった、間違っていた」と認めろよ。

(観賞日:2014年9月9日)

 

*ポンコツ映画愛護協会