『かけがえのない人』:2014、アメリカ
ルイジアナ沖の石油採掘基地で働くドーソン・コールは、休憩時間に入ると紙幣を入れた封筒を郵便ポストへ投函した。同じ頃、主婦のアマンダ・コリアーは星空を眺めながら、息子のジャレッドと話していた。ドーソンが星空を見上げていると、基地で爆発事故が発生した。同僚を助けようとしたドーソンは、爆風に吹き飛ばされて海に転落した。海に沈んだ彼の脳裏に、高校時代に愛したアマンダの姿がよぎった。奇跡的に助かったドーソンは、医者から「連絡したい人は?」と問われて「特にいない」と答えた。
アマンダはモーガン・デュプリーという弁護士から電話を受け、、タック・ホステトラーの死を聞かされた。モーガンはドーソンにも電話を掛け、タックの死を伝えた。出掛ける準備を始めたアマンダは、「予定が詰まってる」と反対する夫のフランクに不快感を示す。タックの修理工場へ赴いたドーソンが車を触っていると、アマンダが現れた。20年ぶりに再会した2人は、翌日の午前10時にモーガンと会う約束を交わしたことを知る。アマンダは母に会う予定があると言い、すぐに去った。
1992年の秋、ドーソンは若くして父親になった従兄のボビーと共に、カフェを訪れていた。ボビーの恋人であるエイプリルが、その店で働いているのだ。ドーソンは仲間と来ているアマンダを見掛けるが、その時は言葉も交わさなかった。帰り道、エイプリルの車がエンジンの不調で停まると、アマンダの仲間の男たちはクラクションを激しく鳴らした。ドーソンは自分の車を降り、アマンダの仲間たちを「手も貸さないで騒いでるだけか」と注意した。それでも彼らが構わずクラクションを鳴らして笑うと、アマンダは呆れて車を降りた。
アマンダはエイプリルの車を押すドーソンとボビーを手伝い、仲間の非礼を詫びた。仲間が呼びに来ると、ドーソンは「もう大丈夫だ」と告げてアマンダを行かせた。ボビーはアマンダが話したがっていたと気付いたが、ドーソンは「彼女は親切なだけだ」と否定した。後日、ドーソンは車が動かずに立ち往生しているアマンダを見つけ、外れていたバッテリーを直した。女性の扱いに不慣れなドーソンが会話に困っていると、アマンダの方からデートに誘った。
ドーソンが帰宅すると、父のトミーは女を連れ込んで昼間から酒を飲んでいた。トミーはドーソンに絶対服従を要求しており、ベンツの整備を指示した。トミーはドーソンの兄のアビーや親戚のテッドたちと麻薬密輸で稼いでおり、「明日の夜に取りに行くぞ」とドーソンに告げる。デートの約束があるドーソンだが、トミーは暴力と威嚇で指示に従うよう要求した。家を抜け出したトミーは、豪雨になったので見つけたガレージへ忍び込んで一夜を過ごした。
翌朝、ガレージの所有者であるタックはライフルを構え、ドーソンを起こした。しかしドーソンがトミーの息子で行く当ても無いと知り、文句を言いながらもガレージで居候させることにした。アマンダはボビーからドーソンの居場所を聞き出し、ガレージへ赴いた。ドーソンはドタキャンの理由を「気が変わった」と軽く言うが、アマンダが去ろうとすると、顔が腫れていたので人前に出たくなかったのだと釈明した。アマンダは「じゃあ人がいない場所で」と言い、誰もいない場所へ2人で出向いた。
アマンダは進路について、テュレーン大学で児童心理学と公共政策を学び、ロースクールを出たら非営利組織で子供の問題に取り組むつもりだと話す。ドーソンは父の命令で休学していたこと、反抗して復学したこと、卒業だけはしたいが大学は無理だと考えていることを語る。しかしアマンダは、彼が本当は大学へ行きたがっていることを見抜き、そのことを指摘した。またデートする約束を交わし、2人はキスをして別れた。
現在。アマンダとドーソンはモーガンの事務所へ出向き、「ヴァンデミアで遺灰を撒いてほしい」「家を整理してほしい」「遺品は自由に選んでくれ」というタックの遺言を聞かされた。モーガンは残った遺品を現金化して小児癌の支援団体に寄付するよう頼まれているが、ヴァンデミアの別荘だけは2人に贈ると言われていることを明かす。モーガンはタックに託された2人への手紙を渡し、1人の時に読むよう促した。アマンダはドーソンの質問を受け、バトンルージュで暮らしていること、結婚18年で2人の子供がいることを話した。だが、彼女は「互いの人生に興味を持っているフリなんて無意味よ。タックのために来ただけ」と告げ、その場を後にした。
高校時代。ドーソンがガレージを訪ねたアマンダと楽しく話していると、トミーたちが車でやって来た。すぐにドーソンはアマンダを立ち去らせ、トミーは家に変えるよう要求する。反発するドーソンをトミーが殴り付けると、タックが来てショットガンを威嚇発砲する。「撃ちたきゃ撃て」とトミーが挑発すると、タックは彼の車に連続で銃弾を撃ち込んだ。トミーたちは車で去り、タックは「外は危険だ。今夜は家で寝ろ」とドーソンに指示した。ドーソンは深夜にアマンダの元へ行き、「いずれ親父が報復に来る。俺といると危険だ。巻き込まれる」と告げる。アマンダは「大丈夫よ。構わないわ」と返し、2人は熱烈なキスを交わした。
現在。買い物に出たドーソンは1人の青年を見つけ、すぐにボビーの息子のアロンだと気付いた。そこへテッドとアビーが現れたので、ドーソンは相手にせず立ち去った。彼がタックの家へ行くとアマンダが来ており、「やっぱり手伝うわ」と告げた。遺品を整理している最中、ドーソンは「君が幸せか気になる」と口にする。アマンダはテュレーン大へ進んだが予定外の妊娠で結婚したこと、引っ越して家を買ったことを話し、「母親になれたから幸せよ」と述べた。
高校時代。アマンダはドーソンに奨学金を貰って大学へ行くよう勧め、願書に記入するよう告げる。しかし願書には住所の記入が必要であり、ドーソンはタックに迷惑が掛かると考えていた。するとアマンダは止めるドーソンの言葉を無視し、タックに大学の願書のことを話す。タックは何の迷いも無く承諾した後、4年前に妻のクララが亡くなったことを話す。3人で夕食を取った時、運命を信じるアマンダとドーソンは意見が対立した。アマンダに加勢を求められたタックは、「運命は信じない」と前置きした上で、戦地で死にそうになった時にクララが同じ内容の夢を見ていたという体験談を語った。
現在。アマンダはドーソンに、ジャレッドの後に授かった娘がいたこと、白血病を患って2歳で死んだこと、それから夫は酒に逃げ続けていることを語った。ドーソンはアマンダに質問されて独身だと語り、「君以上の人は、なかなか見つからない」と述べた。彼が「人の世話を焼きたがる。それが君の性分だ」と笑うと、アマンダは「危険だから帰る。どうして禿げたり太ったりしてないの?」と口にした。彼女が「告白するわ。車の故障はは運命じゃなかった。自分でバッテリーを外したの」と言うと、ドーソンは「分かってたる」と軽く笑い、2人はキスをして別れた。
高校時代。ドーソンはタックの代わりに庭の手入れをするため、ヴァンデミアの別荘へ赴いた。その夜、アマンダが別荘に現れ、ドーソンは彼女と肉体関係を持った。次の日も2人は一緒に過ごし、アマンダはドーソンが幼い頃から父親に虐待されていたことを知った。後日、ドーソンはアマンダからホーム・パーティーに誘われ、彼女の豪邸へ出向いた。彼はアマンダの両親のハーヴェイとエヴリンに挨拶し、ルイジアナ州立大学へ進学する予定を語る。ハーヴェイはドーソンと2人きりになり、学費と生活費を援助する代わりに娘と別れてほしいと持ち掛けた。ドーソンは「金は要らない」と告げ、憤慨してパーティー会場を後にした。
現在。アマンダとドーソンはヴァンデミアの別荘を訪れ、タックの遺灰を庭に撒いた。2人は湖畔で酒を飲み、ドーソンは爆発事故のことを話す。彼は海に落ちた時にアマンダの姿を見たと話し、「運命だと感じるんだ。君に教えてほしいんだ。どうする?」と問い掛ける。アマンダが顔を強張らせると、ドーソンは「なぜ助かったのか考えた。本当に悪かった、まだ愛してると君に伝えるためだ」と告げた。するとアマンダは、「また愛せと言うの?忘れたことも無いのに」と反発した。
高校時代。卒業の日を迎えたドーソンは、タックに記念写真を撮影してもらった。彼が学校へ行った後、トミーたちが現れてタックを暴行し、庭を荒らした。帰宅したドーソンは激昂し、ショットガンを持ち出した。ボビーは説得しようと車に乗り込むが、ドーソンは構わず車を走らせる。トミーは銃を向けられても余裕の態度を示し、「撃てやしない」と告げる。実際、ドーソンは撃つことが出来ず、トミーに殴られる。ドーソンは反撃して首を絞めるが、ボビーが止めたので立ち去ろうとする。しかしトミーがショットガンを取ろうとしたので、ドーソンは奪い返そうとする。揉み合ったドーソンは、誤ってボビーを射殺してしまった…。監督はマイケル・ホフマン、原作はニコラス・スパークス、脚本はウィル・フェッターズ&J・ミルズ・グッドロー、製作はデニーズ・ディ・ノヴィ&アリソン・グリーンスパン&ニコラス・スパークス&ライアン・カヴァナー&テレサ・パーク、製作総指揮はタッカー・トゥーリー&ロビー・ブレナー&ロン・バークル&ジェイソン・コルベック、共同製作はケネス・ハルスバンド&D・スコット・ランプキン、撮影はオリヴァー・ステイプルトン、美術はパトリツィア・フォン・ブランデンスタイン、編集はマット・チェシー、衣装はルース・E・カーター、音楽はアーロン・ジグマン、音楽監修はボブ・ボーウェン。
出演はミシェル・モナハン、ジェームズ・マースデン、ルーク・ブレイシー、リアナ・リベラト、キャロライン・グッドオール、ジェラルド・マクレイニー、セバスチャン・アーセラス、ジョン・テニー、クラーク・ピータース、イアン・ネルソン、ショーン・ブリジャース、ロバート・ウィリアムズ・メロ、ハンター・バーク、ロビー・ラスムッセン、キャロライン・ヘバート、スカイラー・フィスク、ダグラス・M・グリフィン、ビル・マーティン・ウィリアムズ、ジミー・ゴンザレス、ミア・フロスト、ドナ・デュプランティエ、デヴィッド・ジャンセン、ジム・グリーソン他。
ニコラス・スパークスの同名小説を基にした作品。
監督は『終着駅 トルストイ最後の旅』『モネ・ゲーム』のマイケル・ホフマン。
脚本は、『リメンバー・ミー』『一枚のめぐり逢い』のウィル・フェッターズと、これが3作目となるJ・ミルズ・グッドロー。
アマンダをミシェル・モナハン、ドーソンをジェームズ・マースデン、若き日のドーソンをルーク・ブレイシー、若き日のアマンダをリアナ・リベラト、エヴリンをキャロライン・グッドオール、タックをジェラルド・マクレイニー、フランクをセバスチャン・アーセラス、ハーヴェイをジョン・テニー、モーガンをクラーク・ピータース、ジャレッドをイアン・ネルソンが演じている。ニコラス・スパークスはハリウッドで重宝されている作家であり、この映画までに9作が映画化されている。
1999年の『メッセージ・イン・ア・ボトル』に始まり、『ウォーク・トゥ・リメンバー』『きみに読む物語』『最後の初恋』『ラスト・ソング』『親愛なるきみへ』『一枚のめぐり逢い』『セイフ ヘイヴン』、そして本作品だ。
このラインナップを見てピンと来た人がいるかもしれないが、ニコラス・スパークスの小説を映画すれば、かなりの高確率で駄作に仕上がるようになっているわけだ。
もはやハリウッドにおけるポンコツ映画製造マシーンと化している。序盤から不可解なシーンが色々と待ち受けている。
まず、アマンダがやたらとドーソンに対して積極的に押しまくるのが、かなり不自然に思えてしまう。一目惚れしたってことなのかもしれないけど、どうも都合のいい女という印象が強い。
とは言え、これが「ドーソン側からのみ描かれる物語なら、それはそれで構わない。男にとって都合のいい女になっていても、ある種の寓話としては成立する。
しかし、そうではないので、そうなるとアマンダの動かし方に難があると感じる。アマンダがドーソンに一目惚れしたとしても、そこまでガツガツと積極的に行く理由は何なのかと思ってしまう。
「そもそも押しの強い性格」という設定なのかもしれないけど、そういうことは事前に描写されていないのでね。アマンダはカフェでボビーに「ドーソンは?」と尋ね、カットが切り替わるとタックのガレージへ現れるが、それは変だ。
その段階で、まだドーソンはボビーに自分の居場所を教えていない。なのでアマンダがボビーに質問しても、タックのガレージにいることは分からないはずだ。
ちなみに、ボビーは高校時代のドーソンにとって唯一の「名前が分かる友人」であり、既に妊娠している恋人もいる。だから、かなり重要な人物なのかと思いきや、すぐに存在感を失う。誤射のシーンで存在感が高まるが、そこだけで終わりだ。
現在のシーンでは成長した息子のアロンが登場するが、全く存在意義が見えない。色々と使えそうなキャラのはずだが、何のために登場したのかサッパリ分からない奴になっている。ドーソンはデートに行かなかった理由について、「気が変わった」と嘘をつく。しかしアマンダが非難して去ろうとすると追い掛けようという素振りを示し、顔の腫れを見られると「人前に出たくなくて」と本当の理由を明かす。
でも細かいことを言うと、そこは自分から理由を明かすのではなく、「アマンダが顔に腫れに気付き、どうしたのかと尋ねる。ドーソンは顔が腫れた理由は言わなかったが、デートに行かなかった理由は明かす」という形にしておいた方がいい。
あと、ドーソンは「俺は格好の実験対象なんだろ?君は野良犬が好きらしい」という台詞を吐くけど、それだと「シャイ」とは別の性格に鳴っちゃうでしょ。それは単に口が悪くて性格が歪んでいるだけだ。
そうじゃなくて、「ホントは顔が腫れているから行かなかったけど、恥ずかしいから嘘をついた」という形に見えなきゃマズいはず。
それを考えれば、アマンダに悪態をつくような態度は排除すべきだ。いや、悪態をついても「恥ずかしさを誤魔化すため」という理由は成立するけど、そこまでに示されたドーソンのキャラ設定からすると邪魔なだけだ。現在と高校時代の両方を描く必要があるので、おのずと片方に使う時間が短くなってしまう。そのため、「高校時代のドーソンとアマンダの関係が進展する速度が慌ただしい」という問題が生じている。
ドーソンが「俺といると危険だ。巻き込まれる」と言い、アマンダが「大丈夫よ。構わないわ」と返すシーンは、2度目の回想で描かれる。こっちからすると、「2人が出会ってから間もない頃」という印象なのだ。
初デートで既に恋の炎は燃え上がっているから、そこから計算すれば早くないのかもしれんよ。でも、まだ映画が始まってから35分程度で、もう「どんな危険が待ち受けていても2人の愛は変わらない」というトコまで盛り上がられても、こっちの気持ちが付いていかないわ。
それに見合うだけの恋愛劇なんて、まるで描かれていないでしょうに。回想形式なので時間を飛躍させることも可能だが、「それから数週間や数ヶ月が経過して」というわけでもないし。タックがドーソンに残した手紙には、「2人には後悔を抱えて生きてほしくない。だから運命の相手と再会する機会を作った」と綴られている。
だけど、余計なお節介でしょ。そのせいで、アマンダの夫婦生活は完全に壊れちゃうわけで。
その時は運命の相手だと思っても、20年も経てば、それぞれの人生を歩んでいる。「あの頃は良かったね」という美しい思い出として残している方が、幸せかもしれない。
それに、本当に運命の相手だとしたら、そんな余計なお節介を焼かなくても再会できるんじゃないかと思うし。この映画、とにかくアマンダもドーソンも幸せとは縁遠い。
高校時代のドーソンは、父と兄と親戚に殴られたり脅されりしている。ボビーを誤って死なせてしまい、刑務所で服役する。
その後、アマンダは予期せぬ妊娠で大学卒業を断念し、娘を白血病で亡くす。
思い出話の中にも、ハッピーに感じられる出来事は全く無い。現在になっても、ドーソンは爆発事故に遭い、タックの死を知る。地元へ戻ると、テッドやアビーに絡まれる。
アマンダはともかくドーソンに関しては、辛いことや悲しいことばかりの人生だ。ただし申し訳ないけど、途中まではドーソンを不憫だと思っていたのに、ボビーを殺してしまうシーンで一気に同情の気持ちが薄れてしまうのよね。
それは、「ドーソンがトミーに挑発されても撃てず、殴り合いになったけど去ろうとして、向こうがショットガンを取ろうとしたので奪おうとして揉み合い、そして誤射」という手順になっているからだ。
まず「トミーを撃ち殺せばよかったのに」と言いたくなるが、そこは置いておくとしても「なんでショットガンを残したまま去ろうとしているんだよ」と言いたくなる。
そりゃあトミーだって、近くにショットガンが落ちていたら拾おうとするだろ。その愚かしいミスは、「ドーソンが誤ってボビーを撃ってしまう」という展開からのスムーズな逆算に失敗しているとしか思えないのよね。その後の展開は、ますますドーソンへの同情心を削ぎ落とす。
それは、彼がアマンダと別れ、ずっと連絡を取らずに生きて来た事情が判明するからだ。
彼はボビーを殺して刑務所に入り、面会に来たアマンダに別れを告げる。アマンダが面会に通っても、会わないようになる。
「アマンダに迷惑を掛けたくない、夢を邪魔したくない」という理由だから、それだけで終わっていれば納得できる。
しかし、そうやってアマンダを拒絶しておいて、20年ぶりに再会したら「まだ愛してる」とか言い出すんだから、それはダメでしょ。ドーソンは20年前にアマンダのことを思って距離を取ったのなら、その考え方を現在になっても貫くべきだよ。
まだアマンダが独身ならいいけど、結婚して子供もいるんだぜ。そんな彼女の心を今になって乱したら、20年前の行動が台無しだわ。「まだ愛していると感じたけど、相手の生活を考えて遠慮する」というスタンスの方がいいんじゃないかと。
おまけに、愛してると言ってセックスまでしちゃうくせに、翌朝になると「幸せを感じた」と感謝して終わりにしようとするし。
それも「ジャレッドからアマンダへの電話で我に返った」という言い訳は用意されているけど、すんげえ身勝手にしか思えんよ。一方のアマンダも、終盤になってフランクに別れを告げる行為が身勝手にしか思えん。
フランクって、決して酷い男ではないのよ。娘を亡くしたショックで酒に逃げているとか、息子には金融系へ進んでほしいと望むとか、そういう設定は「妻に嫌悪されて当然」ってわけではないでしょ。
むしろ、アマンダは惚れてもいないのに結婚して今まで一緒に暮らしていたわけで、それを今になって打ち明けられるんだから、フランクが不憫だわ。「俺の18年間は何だったのか」と嘆きたくなるだろう。
困ったことに、ドーソンと別れた後のアマンダの人生は、「どうしてこうなったのか」という台詞が示すように、全面的に「間違っていた」と否定されてしまうのだ。終盤、ジャレッドは車の衝突事故を起こして入院し、心臓の移植手術が必要になる。その直後、ドーソンがテッドとアビーに襲われて撃退するが、トミーに撃たれて死ぬ様子が描かれる。
で、ドーソンの死を知らされたアマンダが葬儀に参列し、最後は数年後のシーンに移る。
この段階で、もうオチはバレバレだ。
たぶん多くの人が予想した通りで、「ドーソンの心臓がジャレッドに移植されて助かった」というオチだ。
ドナーの情報を教えてもらったジャレッドからの連絡でアマンダはそのことを知り、驚いて映画は終わる。最後の展開が簡単に読めてしまう構成になっているのは、他にどうしようもないと思うし、まあ仕方が無いかとは思う。
それよりも問題なのは、「感動的な物語」として着地させていることだ。
冷静に考えてほしいんだけど、どう考えてもバッドエンドでしょ。
そこまでの展開で、ドーソンは前述したように幸せと縁遠い人生を送っていた。だったら、せめて最後ぐらいは幸せを与えてあげてもいいのに、「死亡」というリカバリー不能な状態へ陥れられるのだ。ドーソンを死に追いやるのは、それまでも彼を甚振り続けていたトミーたちだ。
彼らは麻薬密輸で服役していたものの、ムショを出て現在は普通に暮らしている。しかも全く反省も改心もしておらず、相変わらずのワルどもだ。そして今度は真面目なアロンを仲間に引き入れ、使い走りをさせている。それをドーソンが阻止してアロンを連れていくと、彼を襲うのだ。
その後のトミーについては描かれないので逮捕されたかどうかも不明だが、逮捕されたとしてもドーソンの不幸は変わらない。
そんな風に完全なバッドエンドなのに「いい話だなあ」ってことで終わらせているので、「いやいやいやいやいや」と全力で否定したくなってしまうのだ。(観賞日:2017年10月29日)