『原子怪獣の襲来』:1965、アメリカ

フロリダのビーチでは、若者グループのリチャードやジェニー、スー、バニー、ブラッド、トムが楽しんでいた。バニーはブラッドのホットドッグに砂を掛けてからかい、笑って走り出した。ブラッドは後を追い掛け、2人は抱き合ってキスをした。するとバニーは彼から離れ、また笑って走り出した。ブラッドは呆れて仲間たちの元へ戻り、バニーは洞窟から出て来た怪物に襲われて死亡した。通報を受けて現場に到着したマイケルズ保安官とスコット保安官助手は、海へ続く奇妙な足跡を発見した。
鑑識係が足跡の正体を判定できないため、マイケルズは海洋生物研究所のオットー・リンジー博士に相談した。するとオットーは、「水の外でも生きられる南米の人食い魚に似ているが、突然変異かもしれない」と話す。エラの中に水を溜めることで、陸地でも呼吸することが可能なのだと彼は説明した。彼は巨大化の可能性もある。生け捕りにしてくれたらブームになる」と言うが、マイケルズは「人間の仕業だと思いますよ。たぶん変質者でしょう」と述べた。するとオットーは、「サーファーの連中ですよ。奴らは人も殺しかねない。何とかしなければ」と若者たちへの強い嫌悪感を示した。
オットーの息子であるリチャードは、継母のヴィッキーがバニーの死を軽んじることに不快感を示す。リチャードはヴィッキーに「アンタが何をしてるか知ってるぞ。母親失格だ」と告げた。帰宅したオットーは、リチャードが手伝った実験結果で興味深いことかあったと話す。しかしリチャードは「今日は駄目だよ」と言い、ジェニーの家へ行こうとする。居候している彫刻家のマークが来ると、リチャードは彼の部屋へ向かった。
自分の自動車事故でマークの足が不自由になったため、責任を感じたマークは1年以上も彼を住まわせていた。オットーはヴィッキーに、リチャードが何ヶ月も研究所に来ないことへの愚痴をこぼす。ヴィッキーはマークが1ヶ年以上も居候していることについて、「ブレーキの故障でリチャードのせいじゃない。ずっと彼の面倒を見るの?」と不満を漏らす。オットーが「息子が望むなら、そうさせるつもりだ」と言うと、ヴィッキーは自分より息子を優先するオットーに苛立ちをぶつけた。「マークにリチャードを奪われるわよ」とヴィッキーが言うと、オットーは「そんなことはさせない。リチャードと研究を進めるんだ」と感情的になった。
リチャードはマークから、急にサーフィン熱が高まったことについて質問される。「研究以外にも楽しいことがあると知ったんだ」とリチャードが言うと、マークは「オットーは考えが違うみたいだぞ」と告げる。リチャードは「自分の人生を生きなきゃ。人生は短いんだ。ジェーンと結婚する前に楽しみたい」と述べ、マークが手に入れたサーフィンの映像を観賞した。マークはリチャードに、バニーをモデルにした人魚像を見せた。マークはバニーの家族に渡してほしいと頼むが、リチャードは「君が渡した方がいい。人と関わるのを怖がらない方がいい」と告げた。
リチャードはジェニーを誘い、自宅のプールで泳ぐことにした。2人がキスしている様子を目撃したヴィッキーは、嫌味っぽい態度を取った。彼女は「マークのモデルをする前にビーチへ行くわ」と告げ、別荘を出て行った。リチャードはジェニーの前で、「犯人はあの女を殺すべきだった。あんな浮気女に父が引っ掛かるなんて」と忌々しげに告げた。一方、ヴィッキーが海から上がると、岩陰から怪物が覗き込んだ。怪物は背後から静かに近付くが、ヴィッキーが立ち去ると追い掛けなかった。
ヴィッキーは別荘へ戻り、マークの彫刻作りのモデルになった。ヴィッキーはマークを誘惑するが、彼がその気になってキスをすると「私がアンタとセックスすると思う?」と嘲笑して立ち去った。マークは「殺してやりたい」と怒りを彫刻にぶつけた。リチャードとマークは車に乗り、研究所までオットーを迎えに行く。リチャードがジェニーとビーチ・パーティーへ行くと知り、オットーは腹を立てた。オットーは息子が研究をサボっていることを咎め、「お前の将来のために時間と金を注ぎ込んでいるんだ」と声を荒らげた。
リチャードは「事故で死に掛けて僕は悟った。ずっと研究ばかりしていたが、違う人生を知っておきたい」と訴え、オットーが説教しても聞き入れなかった。帰宅したオットーから愚痴をこぼされたヴィッキーは、「息子のことばかりでウンザリ。もう貴方とは終わりよ」と冷たく突き放した。ヴィッキーが立ち去ると、オットーは激しい怒りを示した。ビーチへ出掛けたマークは、踊っている女性たちを覗き見た。彼は引きずる右脚を眺め、憂鬱な気分になった。
オットーはヴィッキーにキスして「愛してる」と言うが、「貴方が愛してるのは息子と魚よ」と冷たく拒絶された。ヴィッキーが浮気相手のポールに電話して会う約束をすると、オットーは親子電話で密かに聞いた。リチャードとジェニーはビーチ・パーティーに繰り出し、他の若者たちと一緒に盛り上がった。1組のカップルが集団から離れて抱き合うと、岩陰から怪物が現れた。全員が解散してパーティーは終わるが、トムはスーの忘れ物を取りに戻る。そこへ怪物が現れ、彼を殺害した。
たまたま通り掛かったマークは、その様子を目撃して「リチャード、助けてくれ」と叫ぶ。しかしリチャードはジェニーと遊んでいて気付かず、トムは怪物に殺された。現場に来たスーは、マークが犯人だと決め付ける。マークは怪物の仕業だと主張するが、まるで信じてもらえない。通報を受けて駆け付けたマイケルズは、事務所へ来るようマークに要求した。現場に落ちていたゴム片を見つけたマークは、パトカーを奪って逃走した。泥酔したヴィッキーはポールに車で送ってもらい、屋敷に戻った。「大事な話があるから部屋に来てほしい、マーク」というメモを見たヴィッキーがマークの部屋へ行くと、怪物が現れて彼女を殺害した…。

監督はジョン・ホール、原案&脚本はジョーン・ガードナー、追加台詞はロバート・シリファント&ドン・マーキス、製作はエドワード・ジャニス、撮影はジョン・ホール、美術はシャーリー・ローズ、編集監修はドルフ・ルディーン、音楽はフランク・シナトラJr.。
出演はジョン・ホール、スー・ケイシー、ウォーカー・エドミストン、エレイン・デュポン、アーノルド・レシング、リード・モーガン、キャロリン・ウィリアムソン、グロリア・ニール、トニー・ロバーツ、クライド・アドラー、デイル・デイヴィス他。


1940年代から1950年代は『伝説の英雄 ロビン・フッド』や『ザンバ』などB級映画の主演俳優として活動し、1953年から1954年に放送されたTVシリーズ『Ramar of the Jungle』の主演も務めたジョン・ホールが初監督を務めた作品。
女優や声優、作曲家や作家など多岐に渡って活動していたジョーン・ガードナーが脚本を手掛けた唯一の映画。
『ビキニの悲鳴』というタイトルでテレビ放映されたこともある。
オットーをジョン・ホール、ヴィッキーをスー・ケイシー、マークをウォーカー・エドミストン、ジェーンをエレイン・デュポン、リチャードをアーノルド・レシングが演じている。

スタッフの中には、注目すべき人物が含まれている。それは音楽担当のフランク・シナトラJr.だ。
「あの大物歌手であるフランク・シナトラのジュニアを名乗るなんて、なかなか大胆な男だなあ」と思うかもしれないが、この人、本当にシナトラの息子である(最初の妻であるナンシー・バルバトの間に産まれた3人の子供の末っ子)。
ジュニアはピアニストや歌手として活動していた人だが、映画の伴奏音楽を担当したのは、この1本だけだ。
どういう繋がりで、こんなクズ映画に参加することになったんだろうか。

冒頭、サーフ・ミュージックに乗せて水着の女子4人がビーチで踊る様子がチラッと写った後、安っぽいキグルミの怪物が画面に登場し、タイトルが表示される。始まって早々、こんなにハッキリと怪物の姿を登場させちゃう映画も珍しい。
しかも、そうやって冒頭に登場させることで観客の気持ちをグッと掴むことの出来るほど質の高い怪物なのかというと、むしろハリボテ感満載で脱力させちゃう可能性が濃厚なのだ。
まあ、そういうことを言い出したら、最初に恐怖を感じさせたいのなら、サーフ・ミュージックで女子たちが踊るシーンから始めている時点でダメだよね。そっちでは「能天気に楽しくやってます」という雰囲気を出しているんだから、そこは「何も不安や恐怖なんて無いですよ」という感じを徹底させておいて、後に恐怖が訪れる展開への落差を付ける方が効果的なはずだ。
ようするに、監督は計算能力が産まれたての赤ん坊レベルしか無いってことだろう。

本編が始まると、リチャードとブラッドはサーフィンから戻って来るが、まだトムが海の中なので置いて行く。踊っているジェーンたちの元へ戻ったリチャードは、いきなりラジカセの停止ボタンを押して音楽を止める。
勝手なことをするので女たちは怒るか思いきや、粗い編集でカットが切り替わるとバニーがホットドッグを作り出す。画面が切り替わると、いつの間にかトムが一緒にいる。
冒頭でトムを置き去りにしたことは、いかにも「彼が怪物に襲われる」という展開への伏線っぽいのだが、伏線として使われないどころか、いつの間にか瞬間移動でビーチに戻るという不可思議な行動をする男になっている。
ホットドッグに砂を掛けてリチャードをからかい、笑いながら走り出した時点では「はしゃいでいる女」に見えたバニーだが、抱き合ってキスをした後、また笑って走り出すと、もはやキチガイ女にしか見えない。
そんなキチガイ女が最初の犠牲者となるのだが、ここでも洞窟からノソノソと歩いて来る怪物の姿をハッキリと写し出している。まあ冒頭で見せちゃってるから、今さら「なかなか正体を見せない」とか「一部分だけ見せる」という演出をしたって無意味なんだけどね。

バニーが怪物に首を絞められるシーンではBGMがサーフ・ミュージックから変更されるが、緊張感は全く生じない。そもそも画面に写し出されている映像そのものが陳腐で恐怖のかけらも無いんだけど、BGMも恐怖を煽るような曲調ではない。
ちなみに、マイケルズたちが駆け付けて遺体の確認に向かう時も、なぜか都会的な雰囲気のモダン・ジャズを流すというヘンテコなセンスが炸裂している。
「やたらと会話シーンが多いが、ほとんど物語の進行には影響を及ぼさない無駄な内容でダラダラと時間を浪費するだけ」ってのは、「ポンコツな低予算映画あるある」と言ってもいい。それは本作品にも見られる特徴で、例えばオットーとヴィッキーがマークについて語る会話シーンも、リチャードとマークがサーフィン熱について語るシーンも、ものすごくダラダラしている。
一応、そこは「オットーがリチャードと一緒に研究したがっているけど、リチャードは違う」ってことを示す内容なので、完全に無意味というわけではない。ただ、それを観客に提示するために、そこまでダラダラと喋る必要があるのかと言うと、答えはノーだ。

リチャードとマークが観賞するサーフィンの映像に関しても、完全に時間の無駄遣いでしかない。
ちなみに、その映像は撮影監督のジョン・ホールが撮ったものではなく、トム役のデイル・デイヴィスによるもの。
彼は後にサーフィンのドキュメンタリー映画を製作する人で、そういうのが好きだったってことだね。
っていうかさ、その映像を観賞するシーンって、単にデイル・デイヴィスが撮ったフィルムを見せたかっただけじゃないのか。そんなのに2分弱も時間を割く必要性なんて無いでしょ。

リチャードはジェーンを誘い、プールで泳ぐことにする。「バニーのことがあったから」という理由でビーチを避けたのだが、そもそもバニーが死んだ翌日にプールへ遊びに出掛けていること自体がどうかと思うぞ。
ジェーンはバニーの死体を目撃している上に、「死んだなんて信じられない。あんなに引き裂くなんて、まるでモンスターよ」と嘆いているのだが、だったらショックで外へ出られないのかというと、ノホホンと泳ぎに出掛けているんだよな。
リチャードがジェーンにヴィッキーへの憎しみを語るシーンも、やはり無駄にダラダラしている。マークが来て「バニーの家に像を渡しに行った。家族は犯人が捕まらないので怒っていた」などと話すシーンも、やはり無駄で無意味な時間の浪費。リチャードとジェーンがプールで楽しむ様子も同様。そんなことより、さっさと怪物を登場させて人を襲わせろよ、と言いたくなる。
怪物が人を襲う様子を描くまで他のシーンで引っ張るにしても、そこに緊迫感を持たせたり不安を煽ったりするような演出があればいいんだけど、ひたすらダラダラしているだけなんだよね。

リチャードに「怪物はヴィッキーを殺すべきだった」と言わせたり、マークに「ヴィッキーを殺したい」と言わせたり、ヴィッキーに冷たくされたオットーに激昂の態度を取らせたりしているのは、ひょっとするとミスリードや「誰が犯人か分からないでしょ?」ということを狙っているつもりなのかもしれない。
しかし、そもそも犯人は怪物の格好をしており、「犯人は人間ではなく怪物」という風に思わせて話を進めているので、仮に前述した台詞がミスリード目的だったとしても機能していない。
そういうミスリードは、「犯人は人間であり、周辺にいる人物の誰か」と思わせておいてこそ意味が生じるのだ。
まあ、たぶんマトモに考えていないんだろうけど。

ビーチ・パーティーで若者たちが踊りまくる様子をダラダラと写した後、移動したカップルを岩陰から覗く怪物が登場する。
映画開始から約40分で、ようやく2番目の犠牲者が出るのかと思いきや、すぐにカットが切り替わる。
そして、女子のリクエストを受けたリチャードがギターを奏でてムーディーな愛の歌を歌うシーンになる。
そういう平穏な様子と殺人シーンをカットバックで描く趣向なのかと思いきや、カップルが襲われるシーンは無い。

リチャードの歌が終わると、今度はサングラスやヒゲで変装した男がライオンのパペットを動かし、ジェニーに「ローラ、僕は帰るよ。ビーチに怪物がいるんだ」と声色を変えて喋り出す。ジェニーも声色を変えて付き合い、そこから2人が児童向けの歌を歌い出して、他の連中が「イェイェイイェイ」と掛け声を入れる。
何が何だか分からないだろうが、そのパペットはウォーカー・エドミストンがホストをしていた子供向けテレビ番組『The Walker Edmiston Show』で使っていたキングズレーというキャラクターなのだ。
ってことは、たぶん変装した男はウォーカー・エドミストンがマークと二役で演じているんだろう。
でも、そこで急に彼がやっている子供向け番組のネタを持ち込まれても、「だから何?」ってことだよな。

ビーチ・パーティーが解散した後、怪物は忘れ物を取りに戻って来たトムを襲う。
いやいや、岩陰のカップルはどうなったんだよ。彼らが殺されるシーンを描かないのなら、怪物が迫る描写を入れたのは何だったんだよ。
あと、お前はトムを殺すために、わざわざビーチまで出て来たのかよ。それは他の連中に見つかるリスクの高い行動だが、そんなリスクを冒す必要がどこにあるのか。
しかも、不意打ちを食らわせるわけじゃなくて、障害物の無いビーチを歩いて堂々と正面から襲っているんだから、すんげえマヌケだぞ。
まあ、そんな奴に殺されちゃうトムもマヌケだが。

ネタバレを書くと、いかにもキグルミだった怪物は、実際にオットーが着ていたキグルミという設定だ。
でも、「実はオットーでした」ってことが明らかにされても、そこに嬉しい驚きなんて無くて、ただ脱力するか、もしくは何の感情も動かないか、どちらかになること請け合いだ。
「そんなオチを用意するぐらいなら、チープなキグルミでもいいから本物の怪物という設定にしてほしかったぞ」と言いたくなる。
そういうオチを付けることで「怪物映画だと思っていたら、優れたミステリー映画だった」という風に思えるわけもなく。

むしろミステリー映画にしちゃったことで、「オットーがキグルミを使う意味は皆無だろ。どうせ相手を殺すんだし、基本的には目撃者がいない場所で殺人を繰り返そうとしているんだから、正体を隠す必要も無いし」という設定の粗さが露呈しちゃうぞ。少なくとも、そんなに手間の掛かる怪物キグルミを用意する必要は無いでしょ。顔さえ隠せばいいわけだから。
怪物の仕業に見せ掛けたいのなら、むしろ姿を目撃してもらった方がいいわけだから、コソコソと殺しを繰り返すのは道理に合わないし。
実際、保安官は最後まで人間の仕業だと思っているんだから、怪物に成り済ましている意味が無いだろ。
そんで最後はオットーが車で逃走し、リチャードたちがパトカーで追跡し、ダラダラとしたカーチェイスが数分続いて、オットーが崖から転落死して、退屈な映画がようやく幕を閉じる。

(観賞日:2015年6月4日)

 

*ポンコツ映画愛護協会