『紀元前1万年』:2008、アメリカ&南アフリカ
遠い昔、ヤガル族は獣の王者マナクを狩って生活していた。しかし、やがて彼らが住む谷には変化が訪れた。マナクが来るのが遅れ、全く 現れない季節もあった。村人が空腹に耐える中、年老いた巫母は大地の精霊と言葉を交わして救いを求めた。そこへ、村の男たちが山で 発見した少女エヴァレットを連れて来た。彼女に触れた巫母は、「彼女を通して、未来が見えた。四本足の悪魔が来て、我らの世界は 終わりを迎える」と告げた。
さらに巫母は、「それと時を同じくして、我らは最後の狩りへと向かう。そこで一人の戦士が現れ、この娘が妻となる。2人は新たな 暮らしをもたらし、ヤガルの民は二度と飢えに苦しむことは無くなる」と予言した。しかし村のリーダーの証である白い槍を持つカリドは 予言を信じず、一人で狩りに出ようと決めた。彼は親友ティクティクに白い槍を渡し、自分が村を出る理由は内緒にするよう頼んで出発 した。カリドの息子デレーは「村を捨てた卑怯者の息子」として、同年代の少年カレンたちから仲間外れにされた。一人ぼっちのデレーは 、家族を四本足の悪魔に殺されたエヴァレットと仲良くなった。
月日が過ぎ、デレーは青年へと成長した。マナクの到来を監視していたデレーは、仲の良い少年バクからティクティクが巫母に呼ばれた ことを聞かされた。バクは「きっと予言の日が来たんだ。このままだとカレンがマナクを狩って、エヴァレットも手に入れる」と告げる。 その時、マナクの群れが村へ迫って来た。ティクティクは村の若者たちを集め、「今日は、マナクを狩るのは俺ではない。お前たちの中で マナクを仕留めた者が白い槍を手に入れ、選ばれし勇者となる」と述べた。
カレンは若者たちを率いて出撃し、一匹のマナクを網の罠へと追い込んだ。しかしマナクは強い力で縄を引き千切り、網を被ったまま暴走 する。マナクを止めようとしたカレンたちは、途中で危険を察知して手を離した。しかしデレーだけは、手が絡まって離れなかった。 マナクに引きずられたデレーは、ようやく手が離れたところでマナクと対峙した。しかし掴もうとした槍が大きな石に挟まって取れず、 慌てて後ずさりする。マナクは突進してくるが、自分から槍に突き刺さって死亡した。
現場に駆け付けたカレンたちは、デレーが一人でマナクを倒したと信じ、勇者として認めた。デレーは白い槍を受け取り、エヴァレットを 妻にすると宣言した。村人たちが宴を開く中、ティクティクだけはデレーを祝福しなかった。デレーが赴くと、ティクティクは「本当に 白い槍を勝ち取ったのか?」と問い掛けた。デレーは自分がマナクを仕留めたわけではないことを認め、白い槍を彼に返した。
白い雨が降り積もる中、“四本足の悪魔”と呼ばれる騎馬民族が村を襲撃した。彼らはバクの母を始めとする大勢の人々を殺害し、数名を 生け捕りにした。騎馬民族のリーダーはエヴァレットを気に入り、彼女を捕まえて連行する。一味が去った後、デレーがエヴァレットの 奪還に向かおうとすると、ティクティクが同行を申し出た。巫母はカレンに対し、2人に付いて行くよう命じた。
デレーたちが雪山を歩いていると、バクが勝手に付いて来た。母を殺されたバクが「何か手伝いをしたい」と言うので、デレーは連れて いくことにした。雪山を越えたデレーたちは、ジャングルに入った。騎馬民族を発見したデレーは「エヴァレットを助け出そう」と言うが 、ティクティクは「この森は危険だ」と制止し、見張りを立てて休息するよう指示した。しかしデレーはティクティクの忠告を守らず、 エヴァレットの救出に向かった。
デレーはエヴァレットを連れ出すが、すぐに気付かれた。デレーたちは騎馬民族に追われ、カレンが捕まった。追い込まれたところで、 怪鳥の群れが襲い掛かって来た。デレーはエヴァレットを助けるため、囮として怪鳥の前に飛び出した。デレーが怪鳥を倒している間に、 エヴァレットとバクは騎馬民族に捕まった。騎馬民族がジャングルを去った後、デレーは怪鳥に襲われて大怪我を負ったティクティクを 発見した。デレーはティクティクを運び出し、応急手当てを施した。
デレーは食料を見つけに行くが、深い穴に転落してしまった。豪雨が降り出す中、デレーは溺れそうになっているサーベルタイガーを 助けてやった。デレーが穴を脱出して戻ると、ティクティクは元気になっていた。ティクティクは近くの村を指差し、騎馬民族に襲われた ことをデレーに教えた。2人が村に入ると、原住民であるナク族たちが取り囲んだ。そこへサーベルタイガーが現れるが、デレーを襲撃 することなく、ナク族を威嚇して去った。
デレーがサーベルタイガーに殺されなかったため、ナク族は彼を手厚く歓迎した。ナク族のリーダーは、「かつて山を越えて来た者に言葉 を教わった。お前とそっくりな顔をしていた」と話す。デレーは、それが父だと確信した。リーダーによれば、その男は仲間と共に神の山 へ連れ去られたという。村の賢者は「デレーが我々を山へ導く」と予言した。ナク族の間では、牙と話をする者が仲間を解放するという 言い伝えがあるのだという。ナク族のリーダーは、他の部族へ「牙と話をする者が現れた」と伝える使者を出した。
ティクティクはデレーに、カリドが村を捨てたのではなく狩りに出たことを教えた。デレーは戦うために集まった部族たちを率いて、神の 山を目指した。やがて彼らは、船で川を下る騎馬民族の連中を発見した。船が無いデレーたちは砂漠を歩き続け、神の山に辿り着いた。 そこでは“大神(おおかみ)”と呼ばれる男が絶対的な権力を誇り、捕まえた部族たちを奴隷として扱き使っていた。大神の家来たちは 奴隷やマナクを暴力で支配し、巨大な建造物を作らせていた…。監督はローランド・エメリッヒ、脚本はローランド・エメリッヒ&ハラルド・クローサー、製作はマイケル・ウィマー&ローランド・ エメリッヒ&マーク・ゴードン、共同製作はオジー・フォン・リヒトホーフェン&アーロン・ボイド、製作協力はクリスティン・ ウィンクラー、製作総指揮はハラルド・クローサー&サラ・ブラッドショウ&トム・カーノウスキー&トーマス・タル&ウィリアム・ フェイ&スコット・メドニック、撮影はウエリ・スタイガー、編集はアレクサンダー・バーナー、美術はジャン=ヴァンサン・ピュゾ、 衣装はオディール・ディックス=ミロー&レネー・エイプリル、視覚効果監修はカレン・ゴーレカス、音楽はハラルド・クローサー& トマス・ワンダー。
出演はスティーヴン・ストレイト、カミーラ・ベル、クリフ・カーティス、ジョエル・ヴァーゲル、ベン・バドラ、モー・ザイナル、 ナサニエル・バリング、モナ・ハモンド、マルコ・カーン、リース・リッチー、ジョエル・フライ、 クリスチャン・ビーズリー、ジュニア・オリファント、ルイーズ・トゥー、ジェイコブ・レントン、グレイソン・ハント・アーウィン、 ファルーク・イスマイル・ヴァレー=オマール他。
ナレーターはオマー・シャリフ。
『インデペンデンス・デイ』『デイ・アフター・トゥモロー』のローランド・エメリッヒが監督を務めた作品。
脚本はエメリッヒと作曲家のハラルド・クローサーが共同で担当。
デレーをスティーヴン・ストレイト、エヴァレットをカミーラ・ベル、ティクティクをクリフ・ カーティス、ナク族のリーダーをジョエル・ヴァーゲル、騎馬民族のリーダーをベン・バドラ、カレンをモー・ザイナル、バクを ナサニエル・バリング、巫母をモナ・ハモンドが演じている。マナク(マンモス)があまり現れなくなった中、巫母は大地の精霊と言葉を交わすのだが、そこでは何の託宣も得られない。エヴァレット に触れることで、未来を透視している。
だったら何日も祈りを捧げていた意味は何なのかと。
「エヴァレットが精霊からの贈り物」と巫母は解釈しているけど、ちょっと無理がある。
あと、マナクがあまり現れなくなったことで祈りを捧げているので、近いスパンでの予言をゲットするのかと思ったら、デレーが青年に 成長する頃の予言なのよね。
ってことは、それまでは食料に困っている状況を耐え忍ぶしか無いってことなのね。なぜカリドが村を出る理由を内緒にするようティクティクに頼むのか、それが良く分からない。
後になって、ティクティクが「白い槍を持った者が狩りに行くと、付いて行く者が出て来る。村に残った者は見捨てられる」と言うけど、 見捨てなきゃいいだけのことでしょ。
それ以前に、カリドが村人たちの前で「俺が一人で狩りに行くから、お前らは付いて来るな」と説明すれば、付いて来る者が続出すること も防げるんじゃないのかね。みんながマナクを捕まえようとする際、デレーは一人だけ群れに突っ込みすぎるという失態をやらかす。さらに、網から手が離れずに 引きずられてしまう。槍を掴もうとするが石に挟まっており、慌てて逃げようとしたら、マナクが勝手に死んでくれる。
それで周囲は勇者だと認める。
どうして、加瀬あつしの『カメレオン』の主人公・矢沢栄作みたいに「悪運の強さで凄い奴だと勘違いされる」というキャラにしたのか、 理解に苦しむ。
で、それならそれで、もっと徹底して弱虫で臆病なキャラにしちゃえばいいのに、戦おうとする勇気はあるので、なんか中途半端 なんだよなあ。で、ラッキーにもマナクが勝手に死んでくれただけなのに、デレーは堂々と白い槍を手に入れ、エヴァレットを妻にすることを笑顔で宣言 している。
そこには何の負い目も見られない。
一応、「エヴァレットを他の奴に奪われたくないから」と言い訳しているが、何の弁護材料にもならない。
ティクティクに嘘をついていると指摘され、それを認めて槍を返すが、誰かに指摘される前に、自分から「本当に白い槍を手に入れても いいのか」と悩んだりしろよ。
で、ラッキーだけで「選ばれし勇者」となったデレーだが、その後は普通に勇敢な戦いぶりを見せている。
だから「最初はヘタレだった男が次第に成長していく」という物語になっていない。騎馬民族が村を襲撃した際の、殺す奴と生け捕りにする奴の基準が良く分からない。
女だけを生け捕りにするわけではないし、労働に使うために元気な若者を全て連れて行くわけでもない。
彼らが去った後、村には大勢の面々が生き残っている。デレーやカレンのような、労働に使えそうな若者も含まれている。
デレーなんて、すぐにエヴァレットを取り戻そうと飛び出したんだから、騎馬民族は簡単に発見して捕まえることも出来そうに思うのだが 、なぜか完全にスルーしている。っていうか、デレーも一味が去った直後に「エヴァレットを奪還に行く」と言い出すのなら、その時点で助けようとしても良かったんじゃ ないの。
何か「その場は我慢して、追い掛けた方が奪還の方法がある」ということならともかく、奪還するための策は何も用意していないみたい だし。
で、そこの不自然さを解消するためには、例えば「デレーやティクティクたちが用事で村を離れている間に、騎馬民族が襲撃して エヴァレットを連れ去る」ということにでもしておけばいいんだよな。あと、デレーが騎馬民族を追跡する理由が「エヴァレットを奪還するため」というのは、ちょっとタチが悪い。
他にも村人たちが連行されているのに、そいつらはどうでもいいってことなのね。
そりゃあ、「愛する女を救うために主人公が行動する」ってのは、もちろん悪いことじゃないよ。
ただ、それなら他の村人は連行されず、エヴァレットだけが連れ去られる形にしておいた方が良かったんじゃないの。他の村人は殺される 形にしてさ。っていうか、騎馬民族が、わざわざ雪の降り積もった山を越えて、遥か遠くの村まで来る狙いが良く分からんのよね。
奴隷が欲しいのであれば、もっと近場で見つけりゃいいでしょ。
そんな過酷な環境の中を、長い時間を掛けて遠征する必要性は無いでしょ。
これが例えば「予言された女性であるエヴァレットを見つけるために、そこまで遠征した」ということなら、納得しやすいんだろうけど。ティクティクは怪鳥に襲われて瀕死の状態だったはずなのに、大した看護もしていない内に、元気に回復している。
それなら大怪我を負う展開の意味が無い。
で、そこでは大怪我から回復したティクティクだが、油断している間に背後から刺されるというマヌケな死に方をする。
そこでメインキャラの一人が「後ろから殺される」という死に方をしているのに、エヴァレットの時も同じように背後から殺されると いうパターンを使ってしまう。騎馬民族の連中にしろ、家来にしろ、なぜ大神と呼ばれる老人に服従しているのか解せない。
大神にはカリスマ性も感じないし、圧倒的な武力があるわけでもないし、特殊な能力が使えるわけでもない。
奴隷の一人が「神には勝てない」と言っているが、畏怖を感じさせるような力を大神は何も示していない。
で、何も怖さや強さを見せない内に、デレーが投げた槍で、あっさりと殺される。「大神は天に輝く星の印を持つ人物を恐れている」というセリフがあるが、なぜ恐れているのかは良く分からない。
で、その印を持っているのがエヴァレットだと判明するが、だったら最初から「エヴァレットが印の持ち主だから、騎馬民族は彼女を連行 する」という形にしておけばいいんじゃないの。
で、恐れていたはずの大神は、エヴァレットの印を見つけても全くビビらず、即座に八つ裂きにしようとしている。
どないやねん。サーベルタイガーはナク族の村に現れたことで「助けられた恩は返した」ということなのか、最後の戦いには登場しない。
デレーが父親と再会する展開があるかと思ったら、殺されて埋められていることが判明する。
殺されたはずのエヴァレットは、簡単に生き返る。
最後までデレーの意識は「帝国打倒」とか「奴隷解放」ではなく「女の奪還」に向けられているので、終盤の集団戦闘が行われている中で デレーだけは別の方向へ向かってしまう。
などなど、話はデタラメだ。エヴァレットの奪還に出発したデレーたちが雪山を越えると、熱帯のジャングルに辿り着く。
でも熱帯のはずなのに、なぜか竹林の地帯もある。どういうルートを辿ったのか、どういう場所なのか、サッパリ分からない。
そこに限らず、一般的に「こういう時代であった」とされている古代と、この映画で描かれる古代は、まるで別物だ。
そこをいちいち指摘していたら、それこそキリが無いだろう。しかし、時代考証がデタラメでも、それは構わない。
そもそも、この手の映画において、正確な時代考証など要らない。あっても邪魔ではないが、無くても支障は無い。
時代設定は古代だが、未来を舞台にしたSFと似たようなものだと解釈すべきだ。
それに、話がデタラメなのも、ローランド・エメリッヒ監督の映画だから、当然と言える。
壮大なスケールは作り出すが、その中身やディティールは大雑把というのがエメリッヒ作品の特徴なのだ。この映画が抱えている最大の欠点は、「カミーラ・ベルの露出度が皆無」というところにある。
この手の映画で、ヒロインの露出度がゼロってのは、ローランド・エメリッヒ監督のセンスが決定的に欠け落ちていると言わざるを 得ない。
そもそも最初の舞台が雪の積もる村であり、厚着をしなきゃいけない環境という時点で間違っているのだが、その後、暑い地域に移動 しても、カミーラ・ベルは全く肌を露出しないのである。
もうねえ、何も分かっちゃいないよ。
話とかどうでもいいから、とにかくカミーラ・ベルを脱がせなさいって。(観賞日:2011年8月22日)