『ウインドトーカーズ』:2002、アメリカ

1943年、ソロモンで日本兵と戦っていたジョー・エンダースは、絶望的な状況に陥っていた。彼は部下の撤退要求を聞き入れずに「沼地を守れ」との命令に固執し、仲間全員を失った。彼は左耳を負傷して平衡感覚を失い、ハワイの米国海軍病院に収容された。しかし彼は再び戦場に戻るため、看護婦リタの協力を得て聴覚を調べるテストに合格した。
復帰が決まったエンダースだが、命じられたのは彼の望むような任務ではなかった。彼が命じられたのは、ナバホ族の暗号通信兵を警護するという任務だった。通信兵が敵に捕まった場合、情報漏れを防ぐために殺害しろという指令も受けた。エンダースは同じ任務を受けたオックス、コンビを組む通信兵ヤージー、オックスの相棒になるホワイトストーンと顔を合わせた。
エンダースやヤージーはイェルムスタッドの部隊に所属し、サイパン島で仲間のチックやパパス、ハリガンやネリー達と共に戦いを繰り広げる。しかしある日、部隊は敵の奇襲を受け、オックスとホワイトホースが包囲されてしまう。オックスは「捕まりそうな時には通信兵を殺せ」という命令を遂行することができず、日本兵に殺害される。ホワイトホースは日本兵に捕まり、連行されそうになる。それを見たエンダースは、手榴弾を投げてホワイトホースを殺害する…。

監督はジョン・ウー、脚本はジョン・ライス&ジョー・バッティア、製作はテレンス・チャン&トレイシー・グラハム=ライス&アリソン・R・ローゼンツウィグ&ジョン・ウー、共同製作はアーサー・アンダーソン&キャロライン・マコーレー、製作協力はスティーヴン・トラックスラー、製作総指揮はC・O・エリクソン、撮影はジェフリー・L・キンボール、編集はジェフ・ガロ&スティーヴン・ケンパー&トム・ロルフ、美術はホルガー・グロス、音楽はジェームズ・ホーナー。
出演はニコラス・ケイジ、アダム・ビーチ、クリスチャン・スレイター、ピーター・ストーメア、ノア・エメリッヒ、マーク・ラファロ、ブライアン・ヴァン・ホルト、マーティン・ヘンダーソン、ロジャー・ウィリー、フランシス・オコナー、ジェイソン・アイザックス、ウィリアム・モーツ、キャメロン・ソー、ケヴィン・クーニー、ホームズ・オズボーン、キース・キャンベル、クレイトン・バーバー、スコット・アトキンソン、ジェレミー・デヴィッドソン、ブライアン・F・メイナード他。


第二次世界大戦時の、白人兵士とネイティヴ・アメリカンの通信兵の姿を描いた作品。
エンダースをニコラス・ケイジ、ヤージーをアダム・ビーチ、オックスをクリスチャン・スレイター、イェルムスタッドをピーター・ストーメア、チックをノア・エメリッヒ、パパスをマーク・ラファロ、ハリガンをブライアン・ヴァン・ホルト、ネリーをマーティン・ヘンダーソン、ホワイトホースをロジャー・ウィリー、リタをフランシス・オコナーが演じている。

事実から誕生した物語だが、しかし事実に即した映画作り、ノンフィクションに近い映画作りを目指しているわけではない。製作サイドは、この映画をリアリティーの枠内ではなく、ファンタジーの枠で構築しようとしている。
だからニコラス・ケイジは「ホリョダ」と拙い日本語を喋り、これが荒唐無稽な映画であることを観客にアピールしようとしているのだ。

ジョン・ウー監督はアクション映画の作り手として評価を上げてきた人だが、彼の作る映画というのは、リアリティーを求めないタイプの映画ばかりだった。今回も彼は、「シリアスな戦争映画」ではなく「荒唐無稽なアクション映画」として、この作品を演出している。たまたま舞台が戦場になったというだけで、基本的にはギャングや殺し屋が出てくるアクション映画と大して変わらない。
荒唐無稽だからこそ、主人公だけは無防備に飛び出していっても撃たれないし、たった1人でスーパーな活躍をする。とにかく、やたらと火薬を使いまくり、やたらと派手に騒がしくドンパチをやることに集中している。
そこに抑揚とか起伏という文字は無い。

とはいえ、全く同じことを繰り返しているわけではない。
ジョン・ウー監督といえば、『男たちの挽歌』シリーズにおいて男と男の熱い友情を描いた人だ。しかし、この映画ではエンダースとヤージーの関係という、彼が得意にしている「男同士の熱い友情」を使える要素があるにも関わらず、そこを活かそうという意識は乏しい。
そもそも、キャラクターの描き込みは総じて浅い。ナホバ族の苦しみも、エンダースの葛藤も、それほど掘り下げない。リタなどは、ちょっとテストのインチキを手伝っただけで、もう恋人気取りという状態だ。

エンダースは左の耳を負傷して平衡感覚が狂ってしまうのだが、それを活かそうという様子は、あまり見られない。例えば左から話し掛けられても聞こえないとか、そういう様子は無い。

エンダースは冒頭、命令に従わせようとして仲間を全員死亡に追いやっていながら、また命令にこだわって仲間を殺害する。彼はヤージーに対して「クソみたいな命令に部下を従わせて自分だけ生き残ったバカだ」と言っており、どうやらバカとしての自覚はあるようなのだが、しかし再びクソみたいな命令に従う。
つまり、彼は何も学んでいない、全く成長していないバカなのである。

彼は仲間を死に追いやった罪の意識から、死に場所を求めて戦場に戻ろうとするのではない。自分の判断ミスを棚に上げて、「みんな日本人が悪いんや」とばかりに日本兵を撃滅するために戦場へ戻るのだ。
どうやら、彼は彼なりに何か悩んだり葛藤したりということがあるようだ。ただし、どんなことを、どのように、どれぐらい悩んでいるのかは、観客には伝わりにくい仕掛けになっている。

日本人の中には、この映画における日本兵の扱いに対して抗議したり非難したりしたくなる人もいるだろう。
しかし繰り返しになるが、リアリティーを追求した戦争映画ではなく荒唐無稽なアクション映画なので、そこを非難しても意味が無い。
そんなことよりも、個人的に文句を言いたいトコロは別にある。
それは、なぜニコラス・ケイジが二丁拳銃を使って敵と1対1で戦い、スローモーションの中で鳩が飛ばないのかということだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会