『ウォリスとエドワード 英国王冠をかけた恋』:2011、イギリス

ウォリー・ウィンスロップが自宅にいると、夫のウィリアムから留守電に「まだワシントンだ。今夜は帰れない」というメッセージが入る。1924年、上海。ウォリス・スペンサーは夫のウィンが一向に帰宅しないので、用意した夕食をゴミ箱に捨てた。1998年、マンハッタン。ウォリーはウォリスに関する解説の音声を聞きながら、廊下を歩いて風呂場へ向かう。ウォリスが入浴しているとウィンが帰宅し、夕食を作れと凄んで髪を掴む。壁に頭を叩き付けられたウォリスが「6時間も待ったわ」と言うと、ウィンは彼女の腹を蹴り付けた。妊娠していたウォリスは、倒れ込んで陰部から出血した。
28歳のウォリーは産婦人科医から、妊娠は難しい状態だが根気良く努力を続けるよう促される。結婚6年目のウォリーは夫婦で休暇を取るよう勧められるが、「夫は休暇を取りません」と告げる。ウィリアムは末期患者の子供たちのための財団に貢献して表彰され、ウォリーも記念式典に参加した。知人から「幸せな人ね」と言われたウォリーだが、ウィリアムの浮気を感じ取って暗い表情になった。ウォリーはウィンザー公爵夫妻コレクションの展示会場へ赴き、サザビーズ学芸員時代の同僚であるテンテンと再会した。
ウォリーはコレクションを見物し、想像を巡らせた。彼女は不妊治療を始めると決めたが、ウィリアムは「僕に相談せずに決めるな」と言う。「子供が欲しくないの?」とウォリーが問い掛けると、彼は「欲しがってるのは君だろ」と述べた。ウィリアムがオフの日、夫婦はデートに出掛けた。しかしポケベルが鳴り、ウィリアムは「病院に行かないと。すぐ戻るから待っててくれ」と告げて去った。帰宅したウォリーは病院に電話を入れ、ウィリアムが来ていないことを知った。
1931年、ロンドン。ウォリス・シンプソンは夫のアーネストと共に、フォート・ベルヴェデールへ赴いた。ウォリスは風邪気味だったが、半年もテルマの機嫌を取って舞踏会の招待状を手に入れたのだ。ウォリスは皇太子のエドワード8世と踊り、会話を交わした。ウォリーは警備員のエフゲニから「もう閉館ですよ」と声を掛けられ、我に返った。「ここのスタッフだった人ですね。話す機会が無かった」とエフゲニは語り、「いい夜を」とウォリーを見送った。
家に戻ったウォリーはウォリスのドキュメンタリー映像をパソコンで鑑賞し、彼女の幻影と話した。ウィリアムが戻ると、彼女は「病院に電話したらいなかった」と告げる。ウィリアムは「緊急救命室にいたんだ」と言い、「問い詰めるのはよせ」と苛立つ。ウォリーが「電話できたはずよ。携帯にも掛けたけど電源がオフだった」と口にすると、ウィリアムは激しく突き飛ばした。1936年、エドワードは不況に苦しむウェールズの地区を訪問し、その現状を目の当たりにする。記者の質問を受けた彼が「何とかしなければ」とコメントすると、その記事が出て政治干渉だと非難を浴びた。エドワードはシンプソン邸を訪れ、ウォリスに「皇太子は意見も言えない」と漏らす。ウォリスは来客のコニーたちにマティーニを作り、エドワードは愛人のテルマと音楽に合わせて踊った。
ウォリーは再び展示会場へ赴き、コレクションを熱心に見学する。その様子をエフゲニが、警備室のモニターで眺める。1934年、ロンドン。テルマはアメリカへ3ヶ月の予定で行くことになり、ウォリスに「彼をよろくしね。貴方たち夫婦を信頼してるわ」と告げる。展示会場は閉館時間になり、またエフゲニはウォリスに挨拶した。帰宅したウォリーは、ウィリアムとセックスしようとする。しかしウィリアムは途中でやめてしまい、「妊娠願望の重圧無しでセックスしたい。子供は欲しくない」と言う。「欲しいと言ったでしょ。貴方の希望で仕事も辞めたのに」とウォリーは抗議するが、ウィリアムは無視して寝室を去った。
エドワードはシンプソン邸を毎日のように訪れ、ウォリスから下院での話し合いについて問われると「最悪だ。社会主義者と呼ばれたよ」と話す。「生活保障は必要です。ドイツは社会主義政権に。英国も可能では?」とウォリスが言うと、彼は「私の仕事に興味を持つ唯一の女性だ」と口にする。彼は自分を「殿下」ではなく、テルマと同じように「デイヴィッド」と愛称で呼ぶよう求めた。2人が頻繁に会うようになったことに、アーネストは不安を抱くようになった。
1934年、アスキス・ハウス。テルマの帰国パーティーが開かれ、ウォリスは会食の席でエドワードの隣に座る。彼女が「デイヴィッド」とエドワードを呼んだため、テルマは不機嫌になって退席した。1936年、ホテル・ムーリス。アーネストはエドワードを訪ね、「私は妻を愛しています。これからも愛し続けます。殿下も同じであればいいいのですが」と告げる。彼がエドワードの求めた握手に応じず立ち去る様子を、奥の部屋からウォリスが密かに見ていた。
ウォリスとエドワードは逢瀬を重ね、人前でも堂々と一緒に過ごすようになった。エドワードが地中海を旅する時もウォリスが同伴し、2人はマスコミに写真も撮影させた。ウォリーが展示品を見て妄想にふけっていると、エフゲニが心配して「大丈夫ですか」と声を掛けた。彼は「休憩時間なので、コーヒーでもどうです?」と誘い、ウォリーと互いのことを喋る。エフゲニは亡命ロシア人であること、別れた妻がウォリーに似ていることを語った。ウォリーが帰宅するとウィリアムから電話が入り、「仕事が山積みで今夜は帰れない」と言われる。ウォリーは途中で電話を切り、不妊治療薬を全て捨てる。誤って手から出血した彼女は、座り込んで嗚咽した。
1936年、ウォリスとエドワードはアンティーブで過ごしていた。ある時、エドワードの弟のバーティーと妻のエリザベスが2人を訪ねてきた。ウォリスはエリザベスから「ご主人はどちらに?」と問われて「ロンドンで仕事をしています」と言うが、不快感を示して席を立つ。彼女はエドワードに、「みんなが敵意を向ける」と漏らす。「結婚すれば済む」とエドワードが告げると、ウォリスは「その話はやめて。ロクなことにならないわ。王室も首相も猛反対する」と話す。エドワードが「王位を捨てる」と口にすると、彼女は「私は世界一の悪女にされるわ」と不安を示す。しかしエドワードは、「君がどこに行こうと、僕は付いて行くよ」と語った。
ウィンザー城では、国王のジョージ5世とメアリー王妃がエリザベスと話していた。エドワードがウォリスに夢中だとエリザベスが言うと、メアリー王妃は「相手は結婚してるのよ」と顔をしかめる。ジョージ5世が「結婚も子供も許さん。王位を継ぐのはパーティーだ」と口にすると、エリザベスは「デイヴィッドは国王になる運命です。陛下の希望は叶いません」と述べた。その会話を盗み聞きしたエドワードは両親と会わず、後をバーティーに任せて城を去った。
ウォリーはエフゲニから、「見せたい者がる。興味があるはずだ。閉館後に展示ロビーで待っていてくれ」と告げられる。エフゲニは同僚の警告を無視し、衛兵の格好でウォリスの前に現れる。彼は展示会場でシャンパンを開け、展示品のネックレスをウォリーの首に掛けた。数日後、オークションが開かれ、ウォリーも会場へ赴いてウィンザー公爵夫妻の所持品が次々に落札される様子を目にした。オークションの後、彼女はエフゲニから「貴方も競売に?」と訊かれ、「神経が持たないし、夫は私の浪費を嫌がる」と告げる。エフゲニは「浪費じゃない」と言うが、ウォリーは「夫はそうは思わない」と述べた。
1936年、ロンドン。エドワードは首相との会食に、ウォリスを未来の妻として同伴する。彼が「アーネストは僕たちの仲を認めてるんだろ。後は時間の問題だ」と言うと、ウォリスは「離婚手続きが先よ。私は半年、田舎暮らしよ。会いに来ないでね。綺麗に離婚したいの」と告げる。ウォリーはオークションに参加し、手袋のコレクションを落札した。帰宅した彼女は夫から浪費を責められ、「なぜ抱かないの?浮気してるなら言ってよ」と反撃する。2人は激しい口論になり、ウォリーはウィリアムに暴力を振るわれた。
エドワードは田舎で暮らすウォリスに電話を掛けて、「退位の声明文は用意した。僕が英国に残る条件は、君と別れることだ。絶対に同意しない」と話す。ウォリスは何も言わずに電話を切り、アーネストの元へ戻ろうと考える。彼女は「私は貴方を幸せには出来ません。私も幸せになれないわ」と手紙に綴るが、エドワードは考えを変えず退位の声明を出した。エフゲニはオークション最終日にウォリーが来ないことが気になり、彼女の家へ赴いた。傷付いて座り込んでいるウォリーを見た彼は、「大丈夫だ。僕が付いてる」と抱き締めた…。

監督はマドンナ、脚本はマドンナ&アレック・ケシシアン、製作はマドンナ&クリス・サイキエル、製作総指揮はスコット・フランクリン&ドナ・ジグリオッティー&ハーヴェイ・ワインスタイン、共同製作はコリン・ヴァインズ&サラ・ザンブレノ、製作協力はクレオン・クラーク、撮影はハーゲン・ボグダンスキー、美術はマーティン・チャイルズ、編集はダニー・B・タル、衣装はアリアンヌ・フィリップス、音楽はアベル・コジェニオウスキー、音楽監修はマギー・ロッドフォード。
出演はアビー・コーニッシュ、アンドレア・ライズブロー、ジェームズ・ダーシー、オスカー・アイザック、リチャード・コイル、デヴィッド・ハーバー、ジェームズ・フォックス、ジュディー・パーフィット、ハルク・ビルギナー、ジェフリー・パーマー、ナタリー・ドーマー、ローレンス・フォックス、ダグラス・リース、ケイティー・マクグラス、クリスティーナ・チョン、ニック・スミザース、ダミアン・トーマス、リバティー・ロス、ライアン・ヘイワード、シャーロット・カマー、デュアン・ヘンリー、アンナ・スケラーン、ペニー・ダウニー、デヴィッド・レッデン、アルベルト・ヴァスケス、ニコール・ハーヴェイ他。


歌手のマドンナが2008年の『ワンダーラスト』に続いて監督&脚本を務めた作品。
彼女と共同で脚本を手掛けたのは、『私の婚活恋愛術』のアレック・ケシシアン。
ウォリーをアビー・コーニッシュ、ウォリスをアンドレア・ライズブロー、エドワードをジェームズ・ダーシー、エフゲニをオスカー・アイザック、ウィリアムをリチャード・コイル、アーネストをデヴィッド・ハーバー、ジョージ5世をジェームズ・フォックス、メアリー王妃をジュディー・パーフィット、アル=ファイドをハルク・ビルギナー、ボールドウィンをジェフリー・パーマー、エリザベスをナタリー・ドーマー、バーティーをローレンス・フォックスが演じている。

この映画が製作国であるイギリスでボロクソに酷評されて興行的にも惨敗したのには、大きな理由が2つある。
1つは、マドンナを嫌っている人が大勢いるってことだ。
もう1つは、ウォリス・シンプソンを嫌っている人が大勢いるってことだ。
なので本作品は公開される前の段階で、既に二重苦を背負っていたことになる。
マドンナとしては、ウォリスが英国で嫌われ者だからこそ、余計にシンパシーを感じて彼女の物語を描きたいと思ったのかもしれない。

マドンナはウィンザー公爵夫妻がナチスのシンパだったことを「戦争を回避するためにヒトラーと会っただけ。2人はピュアだった」とウォリーに言わせて全面的に擁護するぐらい、すっかり入れ込んでいる。
それに留まらず、ジョージ6世であるエリザベス皇太后を悪者にするような描き方までしている。
だけど、イギリスの国民にしてみればウォリスは「エドワードをタラし込んだ女」であり、エリザベスは「イギリスのために命懸けで尽力した偉大な女性」なので、そりゃあボロクソに酷評されても仕方がないんじゃないかなと。
ウォリスと同じような人物を日本で捜すのは難しいけど、そういう実在の人を美化する伝記映画を作ったら、たぶん日本でも似たような反応になるんじゃないかな。

なので「マドンナとウォリスが嫌われているから、映画の質以前の部分で大勢の観客にそっぽを向かれた」という事情は否めないが、それだけではない。実際に映画を観賞しても、やっぱり出来栄えが良いとは言えないのだ。
まず序盤で感じるのは、「2つの時代の行ったり来たりが無駄に多い」ってことだ。
粗筋で触れた通り、まずウォリーのパートで、すぐにウォリスのパートへ移り、またウォリーに戻る。ウォリーが服を脱いで風呂場へ向かうが、カットが切り替わると入浴するのはウォリス。
この時点で、既に「無駄にゴチャゴチャしてる」と感じる。
入浴に至る演出なんかは、策を凝らしたいのは分かるけど、外しちゃってるなと。

その後、ウォリーがコレクションの展示を見ていると、1948年のブローニュの森のシーンがチラッと挿入されてから再び展示会場に戻る。
「展示品を見ていたウォリーが、それに関連するウォリスの出来事を妄想する」という仕掛けではあるんだけど、そのタイミングで1948年のシーンを短く挿入する意味は薄い。
で、またシーンが切り替わると、今度は不妊治療の注射を打つウォリーの様子にウィリアムとの会話の音声が被さる。そこからウォリスの1931年のパートがあり、ウォリーとウィリアムがデートする様子が写るので、どんどん話が進んでいるのかと思いきや、展示会場のウォリーがエフゲニに声を掛けられて我に返るという手順に至る。
つまり、そこは全て展示品を見ていたウォリーの妄想だったってことだ。
だけど、もっと行き来の数を減らしてスッキリさせた方が絶対にいいよ。

そもそも、1924年のシーンなんかは、ホントに必要なのかと思ってしまう。
ウォリスが不幸な女性だったことを序盤でアピールしておこうという狙いだったのかもしれないが、次に彼女が登場するとアーネストとラブラブな様子が描かれている。そのくせエドワードと浮気するわけだから、序盤でウィンのDVを受けていたことを描写しても、そんなのは簡単に打ち消されてしまう。
あと、序盤の音声でウォリスの経歴をザックリと紹介しているけど、周辺のキャラ紹介や彼女との関係描写が充分とは言えないので、それも取っ付きにくさに繋がっている。
「ウォリスについて一定の知識がある人」ってのを観賞のハードルにするのは、得策とは思えない。

ウォリーのパートを1998年に設定しているのも、「なぜ映画が公開された2011年じゃないのか」と言いたくなる。それが1998年でなければいけない必然性ってのが、まるで見えて来ない。
っていうか、もっと根本的な疑問があって、「ウォリーのパートはホントに必要なのか」と感じるんだよね。
「現代のヒロインが自身をウォリスに重ねて云々」という構造にしてあるんだけど、その効果が狙い通りに発揮されているとは到底思えない。
そもそも、それを効果的に使うなら絶対にウォリーのパートは2011年であるべきでしょ。

1936年のパートでは、エドワードがウェールズを訪れてコメントする様子が最初に描かれる。つまり、まるで「エドワードのパート」のような形になっているわけだ。
それは手を広げ過ぎていると感じる。
過去のパートは、徹底して「ウォリスの物語」にしておくべきだろう。ウォリーの人生と重ねる構成にするのなら、そこは余計に徹底すべきだ。
エドワードから始めないと描き方が難しいという判断だったのかもしれないけど、そこを上手くやるのが監督の手腕であって。

粗筋では端折っている部分もあるが、その他にもウォリーのパートとウォリスのパートを行ったり来たりする手順はある。
その全てが必要なのか、あるいは充分な効果を得られているのかというと、答えはノーだと断言できる。
「ウォリーが展示品を見ながら妄想する」という形でウォリスのパートへ移る形が多いのだが、そこでのウォリーのパートにどんな意味があるのかというと、ほぼ「ウォリスのパートへ入るためのきっかけ」に過ぎない。
だから、ウォリーのパートを削除して、ウォリスのパートを直接繋げば成立するのだ。

根本的な問題として、ウォリーが自分の境遇を重ねる対象として、ウォリスが適切な女性だとは到底思えないのだ。
ウォリーはウィリアムの浮気や、子供を欲しがらないことに苦しみ、悲しんでいる。
しかしウォリスは、むしろ浮気する側の人間だ。夫の身勝手さや冷たさに、苦悩したり悲嘆に暮れたりするわけではない。
それどころか、親友のテルマを裏切っても全く罪悪感を抱かないし、自分を愛してくれる夫のアーネストを裏切っても全く悪びれない。

ウォリスは浮気相手のエドワードと、堂々たる態度で一緒に過ごす。エリザベスからアーネストのことを問われても申し訳なさそうな様子は皆無で、それを質問した彼女が悪い奴であるかのように不快感を示す。
「王室や首相が猛反対する」とか「世界一の悪女にされる」と、まるで自分が哀れな被害者であるかのように捉えている。
「どのツラ下げてんのか、どの口が言うのか」というツッコミ待ちなのかと思うような態度や言動なのだ。
そんな彼女が苦悩や不安を吐露しても、「テメエが撒いた種じゃねえか」と言いたくなる。まるで同情や共感を誘わない女なのである。

エドワードが退位しようとすると、ウォリスはアーネストの元へ戻って静かに暮らしたいと言い出す。
そんなの、ただの身勝手でしかない。結婚している身でエドワードと交際し、それを堂々とマスコミにまで見せていたら、バッシングを浴びるのは誰でも分かることでしょ。
ウィンザー公爵夫妻は、「激しいバッシングを受けて辛い体験をしながらも、愛を貫いた2人」として称賛できるような面々には全く受け取れない。だけどマドンナは、そのように見せようと狙っていたのだろう。少なくともウォリスについては、美化して描いているつもりだったのだろう。
だが、その目的は全く達成されていない。
ウォリーがウォリスに勇気を貰って「前を剥いて生きて行こう」と決意する形で2人の人生を重ねる構成も、最後まで全くピンと来ないままだった。

(観賞日:2018年10月11日)

 

*ポンコツ映画愛護協会