『ヴィクター・フランケンシュタイン』:2015、アメリカ&イギリス&カナダ
せむし男はサーカス団で生まれ育ち、道化として働いている。彼には名前も無いが、優しくされた経験が無いので当たり前だと受け止めていた。サーカスの仕事が無い時、彼は医学の勉強に励んだ。男は人体の構造に興味を抱き、医学に没頭している間は惨めさを忘れられた。ロンドンで興行していた時、団員のローレライが誤って空中ブランコから落下してしまう。彼女に密かな好意を抱いていた男は、慌てて駆け寄った。客として来ていたヴィクター・フランケンシュタインはローレライの体に触れ、骨折していることを男に告げる。
ヴィクターが「骨を元に戻す器具が無いと」と言うと、せむし男は懐中時計を借りてローレライの首に添える。男はヴィクターと協力し、ローレライの肩を引っ張って呼吸を回復させた。ヴィクターは男の見事な処置を称賛し、「こんな所から飛び出せ」と告げた。彼は詰め寄って来た団長のバーナビーに、ローレライを病院へ運ぶよう指示した。バーナビーはせむし男の行動に腹を立て、団員のラファーティーたちと暴行を加えて檻に監禁した。
ヴィクターは檻の鍵を開け、せむし男に逃げ出すよう促した。気付いたバーナビーはの指示を受け団員たちが襲い掛かるが、ヴィクターと男はサーカスから逃走した。ヴィクターは自分の住む広い屋敷へ男を連れ帰り、嫌がる彼に特殊な器具を取り付けた。ヴィクターは「君は背骨が曲がってるわけじゃない」と言い、背中に溜まった膿を注射器で吸い出した。そして背骨矯正装置を装着させ、真っ直ぐに立たせた。ヴィクターはイゴール・ストラウスマンというモルヒネ中毒のルームメイトがいること、ほとんど家に戻って来ないことを語り、その名を使えと告げた。イゴールの名を手に入れた男はシャワーを浴びて道化のメイクを落とし、体を洗って髪を切った。
ヴィクターが逃亡の際に団員1名を殺していたため、翌日にはターピン警部補と部下のアリステアが捜査に乗り出した。イゴールが目を覚ますと、ヴィクターは大学へ出掛けた後だった。街へ出たイゴールは、ローレライが搬送された病院へ行く。ローレライは眠っており、イゴールは投与する薬を看護婦に指示して金を渡した。屋敷へ戻る途中、イゴールは自分が殺人犯として指名手配されていることを知った。ターピンはアリステアに、ロンドン動物園で動物の死骸を買おうとして断れた男がいること、動物の手足が切断されて盗まれたことを話す。サーカス団員が殺された現場には、切断されたライオンの脚が残されていた。せむし男を逃がした男と死骸泥棒の容貌が良く似ているため、ターピンは関係があると睨んでいた。
ヴィクターはイゴールから指名手配のことを聞かされ、「もし君はせむし男じゃない」と告げる。彼は王立大学の学生だが満足していないこと、イゴールが頭脳明晰だから助けたこと話す。そして動物の死骸を譲ってもらうためバーナビーを訪ねたこと、死んでから復活させる研究をしていることを明かす。イゴールは信じなかったが、ヴィクターは電気を通すゼリーを使って3ヶ月以上も保存している動物の眼球を見せた。彼はラザロ・フォークという道具を開発し、特殊な液体に突き刺すことで死者を蘇らせることが出来ると説明した。
イゴールが「神経の繋ぎ方を間違えている」と指摘すると、ヴィクターは「俺が探していた相棒は君だ」と喜んだ。彼は詳細を明かさず、助手として協力してほしいと要請した。イゴールは承諾し、動物のパーツを集めて繋ぎ合わせる作業を手伝った。病院が見つけた支援者に、ローラレイは保護されることになった。イゴールは馬車で病院を去るローレライの様子を確認して安堵するが、彼女を恋しく思う気持ちは消えなかった。
ヴィクターはイゴールを伴い、名医の父が援助した社交クラブのパーティーへ赴いた。ヴィクターは受精について饒舌に語り、同席した女性2人を困惑させる。イゴールはローレライに気付き、後を追った。ローレライは見た目の変わったイゴールの正体に気付き、「命の恩人」と感謝した。ローレライはボマイン男爵に同伴しており、彼の店で働いていることをイゴールに話す。イゴールが2人の関係に不安を感じていると、ローレライはボマインが男色であることを教えた。
ヴィクターは2人の元へ来て、「もう少しで命を作り出せそうなんだ」とローレライに語る。会場を出たヴィクターは、イゴールに「感じのいい子だが、仕事の妨げになる。もう彼女とは会うな」と告げた。彼は「そろそろ僕たちの怪物に会ってもらう」と言い、イゴールを地下室へ案内する。幾つもの実験装置が並ぶ中で、診察台には醜い怪物の死体が寝かされていた。ヴィクターは「ゴードンだ。僕と君で作ったんだ」と言い、動物のパーツを繋ぎ合わせて作ったことを明かす。ヴィクターが電流を流すと、ゴードンは少しだけ動きを示した。イゴールが「生きてる」と興奮すると、ヴィクターは「明日、一緒に大学へ来てくれ。研究の成果を発表する」と告げる。
翌朝、イゴールはローレライに手紙を届け、今夜8時に王立大学のH講堂へ来るよう頼んだ。ローレライと数少ない学生たちが見守る中、ヴィクターはゴードンを披露する。彼はラザロ・フォークを使ってゴードンを動かそうとするが、全く反応が無い。学生たちは講堂を去り、ローレライとフィネガンという男だけが残った。フィネガンはヴィクターを嘲笑するが、何度も電流を流しているとゴードンの上半身が動いた。しかし装置が壊れてゴードンが逃亡したため、イゴールは慌てて後を追う。
イゴールは凶暴なゴードンに襲われ、階段から落ちそうになる。助けに来たヴィクターは、ゴードンを始末した。裕福な家の息子であるフィネガンは、ヴィクターに経済的な支援を持ち掛けた。するとヴィクターは、次は人間を作ると自信たっぷりに宣言した。イゴールは反対するが、ヴィクターは「俺に指図する権利は無い」と怒鳴った。翌朝、屋敷にターピンとアリステアが訪ねて来たので、イゴールが応対する。ターピンはイゴールがサーカスの道化だと見抜いた上で、ヴィクターを呼ぶよう求めた。ヴィクターは研究対象がチンパンジーであり、安楽死させたとターピンに話す。ターピンは1年の実験記録を全て見せるよう要求するが、ヴィクターは「それなら令状を取って下さい」と不敵に笑った。
イゴールはローレライから、ヴィクターの研究への批判的な意見を聞かされる。イゴールが「ヴィクターは新しい人生を与えてくれた。だから信じたい」と語ると、ローレライは「ヴィクターが友達なら、誤っていたら止めてあげなきゃダメ」と述べた。イゴールが屋敷に戻ると、ヴィクターの父が訪ねて来た。ヴィクターは父から、「お前を大学の理事会に出頭させろという電報を受け取った。学業を疎かにしていると。このままだと退学処分だ」と告げられる。ヴィクターが「僕の研究は、あの大学で最も重要な研究だ」と抗議すると、父は「お前は我がフランケンシュタイン家の恥さらしだ」と冷淡に告げて去った。
イゴールはヴィクターが現在のプロメテウスを作ろうとしている計画書に目を通すと、「これじゃ小さい。ゴードンは息が苦しそうだった。ちゃんと生き続ける物を作るには、膨大なエネルギーが必要だ」と語る。稲妻を使えばいいという意見で2人は一致し、イゴールは負荷に耐えるよう肺を2つにするアイデアを提案する。ヴィクターは心臓も2つにすると決め、実験に取り掛かろうとする。イゴールが申し訳なさそうに「ローレライと舞踏会に行くんだ」と言うと、ヴィクターは「君にはその権利がある。行って来い」と告げた。
イゴールはローレライと舞踏会を楽しみ、会場を抜け出して肉体関係を持つ。ターピンは捜査令状が許可されなかったものの、ヴィクターの屋敷には必ず何かあると確信して動き出した。翌朝になってイゴールが屋敷へ戻ると、ターピンが警官隊を率いて乗り込もうとしていた。ヴィクターが扉に板を打ち付けて封鎖されていたため、ターピンは破壊して突入しようとしていた。イゴールが裏口から中に入ると、ヴィクターは実験装置を運び出そうとしていた。
ヴィクターは「フィネガンに馬車を回すよう言ってある。落とし戸から下水道に出るしかない」と言い、冷凍室のツルハシを持って来るようイゴールに頼む。イゴールが冷凍室に入ると、男の死体が保管されていた。イゴールが驚愕しているとヴィクターが来て、「そいつはイゴールだ。ヤクのやり過ぎで死んだ」と冷静に告げる。両目が抜き取られていたため、イゴールは「どうかしてる」と口にする。そこへターピンが乗り込み、ヴィクターに拳銃を向ける。ヴィクターは隙を見てターピンに殴り掛かり、電流を浴びせて逃亡する…。監督はポール・マクギガン、原案&脚本はマックス・ランディス、製作はジョン・デイヴィス、共同製作はマイリ・ベット、製作総指揮はアイラ・シューマン&デレク・ドーチー、撮影はファビアン・ワグナー、美術はイヴ・スチュワート、編集はチャーリー・フィリップス&アンドリュー・ヒューム、衣装はジェイニー・ティーマイム、視覚効果監修はアンガス・ビッカートン、音楽はクレイグ・アームストロング。
出演はダニエル・ラドクリフ、ジェームズ・マカヴォイ、ジェシカ・ブラウン・フィンドレイ、アンドリュー・スコット、フレディー・フォックス、チャールズ・ダンス、ダニエル・メイズ、カラム・ターナー、ブロンソン・ウェッブ、アリステア・ペトリ、ロビン・ピアース、スペンサー・ワイルディング、ルイーズ・ブレーリー、ギヨーム・デラウニー、ディー・ボッチャー、マーク・ガティス、ニール・ベル、ニコラ・スローン、ウィル・キーン、イヴ・ポンソンビー他。
『ラッキーナンバー7』『PUSH 光と闇の能力者』のノポール・マグイガンが監督を務めた作品。
原案&脚本は『クロニクル』のマックス・ランディス。
イゴールをダニエル・ラドクリフ、ヴィクターをジェームズ・マカヴォイ、ローレライをジェシカ・ブラウン・フィンドレイ、ターピンをアンドリュー・スコット、フィネガンをフレディー・フォックス、ヴィクターの父をチャールズ・ダンス、バーナビーをダニエル・メイズ、アリステアをカラム・ターナー、ラファーティーをブロンソン・ウェッブが演じている。
何となくグラフィック・ノベルが原作っぽい映画だけど、そういうわけではない。冒頭、ローレライが落下事故を起こして呼吸が出来なくなり、イゴールとヴィクターが迅速な処置を施すシーンが描かれる。
しかし、そこは「ヴィクターがイゴールの外科医の如き処置を見て感心する」というシーンであり、もっと言うならば「ヴィクターがイゴールの能力を見抜いて助手にしようと考えるきっかけになる出来事」だ。
それぐらい重要なシーンであることを考慮すると、イゴールがヴィクターの力を借りず、自分の力だけでローレライを助ける形にした方がいい。
中途半端にヴィクターが助力しても、メリットは無い。ヴィクターがイゴールをサーカスから逃がす時は、襲って来る団員と戦ったり、攻撃を回避したりというアクションシーンとして描かれる。
話を盛り上げるにはアクションを持ち込むのが手っ取り早いし、何かと便利なのだ。だから昔の怪奇小説や童話を現代風にアレンジする場合、ハリウッドではアクション映画として演出する傾向にある。
それが必ずしもダメだとは言わないけど、少なくとも本作品に関しては「安易な手口に走ったね」という感想が湧く。
ヴィクターにしろ、イゴールにしろ、そういうキャラじゃないでしょ。メアリー・シェリーの小説『フランケンシュタイン』をモチーフにしていることは、タイトルを見て大半の人間が気付くだろう。
小説を忠実になぞっているわけではないが、「キャラクターを借りただけで全くの別物」というわけでもない。
基本的には、「イゴールから見たヴィクター」という形で原作の内容を描いている。
過去の映画では脇役だったイゴール(1931年の映画ではフリッツ)を、主役に据えているわけだ(原作には登場しない)。序盤の内容から推測したのは、「ヴィクターとイゴールの友情ドラマ」、あるいは「イゴールのヴィクターに対する崇拝と決裂」である。
イゴールはサーカスで虐げられ続け、名前さえ無かった。そんな彼をヴィクターが外へ連れ出し、名前を与える。そしてイゴールに「自分の役割」「自分の居場所」を与え、共同研究者として高く評価する。
そんな扱いを受けたのは初めてなので、イゴールはヴィクターに感謝し、信頼し、心を許す。しかし、ヴィクターの研究に不安や恐怖を抱くようになり、次第に反対したり距離を置こうとしたりするようになる。
ザックリ言うと、そんな内容になるんじゃないかという予測を勝手に立てていた。その予想は実のところ、大まかに言うと的中している。
ヴィクター側からの友情は全く見えないけど、イゴールは彼に心を許して協力するが、後半は反対する立場に回るのでね。
そう考えると「何の捻りも無い話」と言えなくもないが、だからって否定されるようなことでもない。オーソドックスなストーリー展開であっても、魅力的に感じられるケースなんて幾らだって存在する。
むしろ本作品の場合、そういったオーソドックスな展開を充分に肉付けしていないことの方が遥かに大きな問題だ。そりゃあ正直なところ、イゴールとヴィクターの関係を濃密に描く人間ドラマとして構成した場合、娯楽映画としては厳しいことになる可能性も高そうだ。
それと、わざわざ『フランケンシュタイン』をモチーフにしておいて、その調理方法は違うんじゃないかという気もしないではないしね。
ただ、それを軸に据えながら、飾り付けの部分で工夫すれば何とかなるんじゃないかと。
それこそ、アクション映画にしちゃっても構わないし。『フランケンシュタイン』をモチーフにする場合、本来なら大きく扱われる存在である「怪物」をどう描くのか、どういう配置にするのかという問題がある。
そこを原作や今までの映画と同じように扱うと、「イゴールとヴィクターの関係」を描く上では邪魔になる。イゴールをメインに据える以上、普通に考えれば、怪物は脇に回さざるを得ない。
しかし、『フランケンシュタイン』が題材なのに怪物の扱いが小さいってのは、果たして観客に納得してもらえるのかと考えると、そこは難しい部分があるだろう。
なので、実は難しいアプローチで『フランケンシュタイン』を扱っているんだよね、この映画。実は怪物を脇に回さなくても済む方法があって、それは「イゴールと怪物の関係を軸に据える」という方法だ。
イゴールは醜い容貌のせいで、ずっと酷い扱いを受けて来た。そんな彼が、醜い要望で生命を得た怪物にシンパシーを感じ、救ってやろうと考える。
あくまでも1つの例だが、そういう内容で構築すれば、怪物を脇に回さなくても済む。
ただし、その場合はイゴールとヴィクターの関係をメインに据える形を捨てる必要がある。どっちも重視するってのは、まず無理だろう。
で、この映画の場合、「ヴィクターがイゴールをサーカスから連れ出して」という導入にしてあるので、「イゴールと怪物の関係を軸に据える」という形は使えなくなる。ターピンとアステアが、早い段階から「殺人事件を追う刑事」として登場する。
つまりヴィクターとイゴールは追われる身となるわけだが、この要素が邪魔にしか思えない。
ちなみにターピンは単に「事件を追う刑事」としての存在かと思いきや、「信仰心の厚いターピンと信仰心を持たないヴィクター」という対比にも使われる。
しかし、信仰を巡る要素は上手く扱い切れておらず、全く有効に機能していない。ターピンが妻を亡くしているとか、ヴィクターが兄を亡くしているという設定も同様だ。これまで何度も映像化された作品を題材にする中で、脇の人物に注目するってのは、1つのアイデアとして理解できる。
ただ、本来ならば、イゴールを主役に据えた上で、どういう方向性で進めるか、どういう内容にするかが重要なはずだ。
しかし、「イゴールを主役にする」というアイデアの段階で、ほぼ思考停止したような状態と化している。
どこに焦点を絞り込むのか、どういう切り口で題材を描くのか、そういうことが全く定まっていない。逃亡シーンはアクションの色が濃くなっていたが、じゃあ映画全体としてアクションのジャンルに入るのかというと、そうではない。
SF、怪奇、サスペンス、ロマンス、友情劇、様々な要素が少しずつ見えるが、裏を返せば「何をやりたいのか良く分からない」ってことだ。
ヴィクターを悪役で終わらせないための配慮なのか、終盤には「フィネガンがヴィクターを始末しようと企む」という展開があるけど、覚悟が足りないと感じるだけ。
残り時間がわずかになってからヴィクターが「俺が間違っていた。こいつ(怪物)には魂が無い」と反省する展開も、同じことだ。
ようするに、全てにおいて中途半端でヌルいのだ。(観賞日:2017年8月4日)