『アス』:2019、アメリカ
1986年、サンタクルーズ。幼いアデレード・トーマスは父のラッセルと母のレインに連れられ、遊園地へ来ていた。レインはラッセルに娘を見ているよう頼み、トイレへ行く。しかしラッセルはゲームに没頭し、アデレードのことなど全く見ていなかった。アデレードは父の元を離れ、「エレミヤ書11章11節」と書いた札を掲げる男を目撃した。海辺へ行った彼女は、『ビジョン・クエスト』という館を発見して中に入る。そこは鏡だらけの建物で、自分の姿が写っていると思ってアデレードが歩み寄ると、瓜二つの別人だった。
現在。成長したアデレードは、夫のゲイブ、娘のゾーラ、息子のジェイソンと4人で暮らしている。4人は休暇を過ごすため、アデレードの実家だった別荘にやって来た。ゲイブが「休憩したらサンタクルーズのビーチへ行こう。ジョシュの家族も来る」と言うと、アデレードは「行きたくない」と渋る。しかしゲイブが「ジェイソンが楽しみにしていた。婆さんが死んで初めての夏だ。辛かっただろう」と語ると、夕方までには戻るという条件で承諾した。ゲイブはボートを購入しており、「お買い得だった」と家族に自慢した。
アデレードは車でビーチへ向かう途中、「エレミヤ書11章11節」の札を持つ男が救急車に運び込まれる様子を目撃した。一家がビーチに着くと、友人付き合いしているジョシュ・テイラーと妻のキティー、娘のベッカ&リンジーが先に来ていた。ジェイソンが簡易トイレを利用して出て来ると、左手から血を流したコートの男が背中を向けて立っていた。アデレードはジェイソンが見当たらないので、慌てて捜そうとする。そこへジェイソンが戻って来たので、彼女は安堵した。
その夜、アデレードがジェイソンの部屋に行くと、デジタル時計を見るよう言われる。すると時計は11時11分になっており、「11章11節」とジェイソンは告げる。ジェイソンの部屋には、彼がコートの男と会った時の様子を描いた絵が置いてあった。アデレードは寝室へ戻り、ゲイブに「帰りたい。ここにいると変な感覚になる」と漏らす。ゲイブに分かってもらえないので、彼女は『ビジョン・クエスト』で自分と瓜二つの少女に出会った体験を話す。アデレードは必死で逃亡したが、「今も狙われている気がする」と口にした。
アデレードがゲイブと話していると、停電が起きた。そこへジェイソンが来て、「外に家族がいるよ」と教えた。アデレードとゲイブが窓から覗くと、4人家族の影が見えた。怖くなったアデレードは、ゾーラの携帯電話を借りて警察に「不審者がいる」と訴える。ゲイブはアデレードの制止を聞かず、金属バットを握って外へ出た。彼は4人を威嚇して追い払おうとするがも、1人が近付いて来たので慌てて家の中に避難した。
赤い服を着た4人は家に乗り込んで来るが、その姿はウィルソン一家に瓜二つだった。レッド、アブラハム、アンブラ、プルートーという4人である。レッドは植木バサミを持っており、プルートーは白いマスクを被っていた。ゲイブが「金目の物は無いぞ」と言うと、レッドは静かに「昔、少女がいた」と話し始めた。彼女は「少女に影がいて、お互いに繋がっていた。少女はお腹が空くと、温かくて美味しい食事を貰えた。でも影は、血まみれのウサギを生で与えられた」などと、少女と影の扱いの格差を語った。
レッドは「少女はハンサムな王子と出会って恋に落ち、影は王子と繋がっているアブラハムと出会った。少女が可愛い娘を産むと、影はモンスターのアンブラを産んだ。少女が2人目を産むと、影はプルートーを産んだ。影は少女を憎んだ」と話し、アデレードに手錠で自分をテーブルに繋ぐよう命じた。アデレードが応じると、アブラハムがゲイブを連れ出して激しい暴行を加えた。レッドはゾーラに逃げ出すよう要求し、アンブラに追い掛けさせた。
プルートーがジェイソンに近付くと、アデレードは怯える息子に「手品を見せてあげて」と告げた。プルートーはジェイソンと物置部屋に入り、仮面を被せた。ジェイソンが動くと、プルートーは真似をした。ジェイソンが仮面を外すと彼はマスクを脱ぎ、顔の火傷が明らかになった。家の外に出たゾーラは、近所の男性がアンブラを注意して襲われている間に逃走した。レッドはアデレードに「何が目的なの?」と問われ、「この時間を楽しみたい。これは鎖からの解放」と告げた。
アブラハムは殴打したゲイブを袋に入れ、モーターボートで湖に出た。ゲイブは隙を見て脱出し、金属バットでアブラハムを殴り付けた。ゲイブは反撃を受けるが、アブラハムを始末してモーターボートで岸に戻った。ジェイソンはライターの火にプルートーが驚いた隙に逃走し、部屋に閉じ込めた。レッドがプルートーの元へ向かった間に、アデレードは手錠を外した。彼女はジェイソンと合流して外に出るが、車を使おうとして鍵が無いことに気付いた。そこへゾーラが合流し、3人は戻って来たゲイブのボートに乗って逃亡した。タイラー家には瓜二つの姿をした赤い服のダリア&テックス&イオ&ニックスが侵入し、キティー&ジョシュ&ベッカ&リンジーを殺害した。
アデレードたちは助けを求めようとタイラー家を訪れ、赤い服の連中と入れ替わっていることに気付いた。アデレードは捕まり、ゲイブは子供たちを逃がしてテックスをおびき寄せた。彼はボートに誘い込み、テックスを始末した。ゾーラとジェイソンは邸宅に侵入し、ダリア&イオ&ニックスを始末してアデレードを助けた。ウィルソン家の4人は、邸宅で休息を取った。テレビのニュースでは、下水道から出て来た赤い服の連中が人々をハサミで刺し殺していることが報じられていた。アデレードは「どちらかが死ぬまで終わらない」と家族に告げ、海沿いにメキシコまで逃げると宣言する…。脚本&製作&監督はジョーダン・ピール、製作はショーン・マッキトリック&ジェイソン・ブラム&イアン・クーパー、製作総指揮はダニエル・ルピ&ベアトリス・セケイラ、撮影はマイケル・ジオラキス、美術はルース・デ・ヨング、編集はニコラス・モンスール、衣装はキム・バレット、視覚効果監修はグレイディー・コーファー、音楽はマイケル・エイブルズ。
出演はルピタ・ニョンゴ、ウィンストン・デューク、エリザベス・モス、ティム・ハイデッカー、シャハディー・ライト・ジョセフ、エヴァン・アレックス、ヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世、アナ・ジョップ、カリ・シェルドン、ノエル・シェルドン、マディソン・カリー、アシュリー・マッコイ、ナピエラ・グローヴス、ロン・ゴーワン、アラン・フレイジャー、デューク・ニコルソン、ダスティン・イバーラ、ネイサン・ハリントン、カーラ・ヘイワード他。
『ゲット・アウト』でアカデミー賞の脚本賞を受賞するなど高い評価を受けたジョーダン・ピールが、脚本&製作&監督を務めた作品。
アデレードをルピタ・ニョンゴ、ゲイブをウィンストン・デューク、キティーをエリザベス・モス、ジョシュをティム・ハイデッカー、ゾーラをシャハディー・ライト・ジョセフ、ジェイソンをエヴァン・アレックス、ラッセルをヤーヤ・アブドゥル=マティーン二世、レインをアナ・ジョップ、ベッカをカリ・シェルドン、リンジーをノエル・シェルドンが演じている。「そもそもホラー映画を作っているつもりは無い」ってことかもしれないが、ホラー映画としての見せ方を全く分かっていないとしか思えない。
それは冒頭シーンから顕著であり、アデレードが出会う瓜二つの少女は後ろを向いたままなのだ。
そこから影が振り返ることは無いまま、アデレードが驚いている顔のアップで現在のシーンに切り替わる。
でも、そこは影を振り向かせて顔を見せた方がインパクトは絶対に上だし、瓜二つであることをハッキリさせる意味でも有効だろう。例えば、影の顔がアデレードよりも凶暴だったり表情が異常だったりして、それを後から「実は」と明かす趣向になっているのなら、最初は後ろ姿だけで済ませるのも理解できる。
しかし、そんな仕掛けなど無いのだ。
アデレードがゲイブに少女時代の体験を語るシーンでは影と遭遇した時の様子が挿入されるが、そこでは普通に影が振り向いて瓜二つの顔を見せているのだ。
だったら、冒頭で顔を見せない理由は何も無いはずでしょうに。影の一家がウィルソン家に現れるシーンでも、やはりホラー映画としての見せ方に失敗している。
そこは絶対に、「最初はシルエットだけだった4人の顔が明らかになると、全員がウィルソン家の4人に瓜二つ」という見せ方をすべきなのだ。
ところが実際には、4人を別々に行動させてしまう。そしてドアの近くで倒れているゲイブの前にアブラハムが現れるシーンで、初めて顔が明らかになる。
つまり、全員が同時に顔を見せるのではなく、アブラハムだけが先に出すのだ。しかも薄暗いから、ちょっと分かりにくいし。しかも、全員が瓜二つであることに対するウィルソン一家の面々の「驚愕する」という反応もイマイチだし。
っていうか、プルートーはマスクを被って顔を隠しているから、「全員が瓜二つ」という状態が成立していないんだよね。それも中途半端だし。テイラー家の4人が赤い服の連中に殺害されるシーンも、やはりホラー映画のセオリーからすると失敗しているとしか思えない。
それを先に見せてから「アデレードたちがテイラー家を訪れ、赤い服の連中に入れ替わっていることに気付く」という展開に入ると、観客は「もうテイラー家の4人が殺されたことは分かってるし」という気持ちになるでしょ。
殺害シーンを描かずにアデレードたちがテイラー家へ行く展開に入れば、観客に「テイラー家の4人も瓜二つの連中に殺されていた」という衝撃を与えることが出来たはずで。あと、赤い服の連中はテイラー家に侵入した時、さっさと始末しているんだよね。
それを見せることで、ダラダラしていたレッドたちがボンクラに見えちゃうでしょ。
ゾーラを外に逃がすとか、ゲイブを湖に連れ出すとか、そういう全ての行動が全くの無意味でしかないし。
「アデレードたちの反撃のチャンスを与える必要がある」という脚本としての都合が、モロに分かっちゃうでしょ。
テイラー家の4人が殺されるシーンを描かずに済ませておけば、そういう問題も解消することが出来る。ウィルソン家にしろテイラー家にしろ、その家族と同じ姿をした連中が殺しに来ている。
なので赤い服の連中は、基本的には自分たちと瓜二つの家族を標的にしているのかと思いきや、テレビのニュースによると近くにいる市民を次々に襲っているんだよね。
だったら、自分たちと瓜二つの家族が暮らす邸宅を狙う必要は無いでしょ。目に入った人間を手当たり次第に殺せばいいでしょ。
どうやら「瓜二つの家族に成り済ます」という目的は無さそうだし、「知人や友人が赤い服の連中と瓜二つの家族を間違える」という手順も無いし。『ゲット・アウト』はアカデミー賞で脚本賞を受賞するなど高い評価を受けたが、個人的にはそこまで良く出来ているとは思わなかった。
とは言え、途中までは「そんなに悪くない」という印象だったが、終盤に入って急失速した。
ザックリ言うと「幽霊の正体見たり枯尾花」になっていたのだが、残念ながら今回も同じような結果になっている。
しかも尻すぼみ感は、前作よりも増している。
その原因は明確で、レッドたちの正体を詳しく説明したことにある。『ゲット・アウト』では、不気味で悪意のある連中の正体について「実はこういう連中で、こういう目的で」などと詳細を明かした途端、一気にトンデモ度数が高くなってバカバカしさ満開になっていた。
そして本作品の場合も、同じようにレッドたちの正体や目的を明らかにする展開が本編の残り15分辺りになって用意されている。
完全ネタバレだが、かつて人間は地下施設で肉体を複製する方法を発明したが、魂は作れなかった。そこで1つの魂を分け合い、人間はテザードを作成して上の人間を操った。しかし失敗してテザードは見捨てられ、何世代も生き続けたが狂気に走った。特別な存在だったレッドは、長い年月を掛けて計画を練っていた。
これが真相だ。ようするに、赤い服の連中はコピー人間で、地上の人間とは魂で繋がっていた。地上で暮らす人間の行動は、地下のコピー人間と連動していたってことだ。
この真相が明らかになった時、そのバカバカしさに苦笑せざるを得なくなる。
それまでレッドたちがまとっていた恐怖の鎧は、跡形もなく崩れ去ってしまう。
余計な説明をしたせいで、色んなトコでボロが出てしまう。
「あれはどうなのよ、あの設定は整合性が取れないんじゃないのかよ」と、色々とツッコミを入れたい問題が生じてしまう。この映画に限らず、アメリカのホラーやオカルト系の映画って、敵の正体を明かしたがる傾向が強い印象がある。
そして、その結果として「得体の知れない存在のままで良かったのに」と思わされるケースが、ものすごく多い。
正体や目的を明かしたがるのは、ひょっとすると国民性が関係しているのかな。あるいは、キリスト教の考え方が影響しているのかな。
その辺りを真面目に考察すると、論文でも書けそうな気がする。
でも、そういうのは物好きな人にでも任せるとしよう。さらにネタバレを書くと、ラスト寸前で「実はアデレードがコピー人間だった」ってことが判明する。
アデレードは幼少期に『ビジョン・クエスト』でコピーと出会った時、襲われて拉致されていた。そしてアデレードが地下に残され、コピー人間が地上へ赴いてウィルソン家の娘に成り済ましたのだ。
そのことを、ラスト直前になってアデレードは思い出す。
だけど、そのオチが明らかになった時、「だったら整合性が取れないだろ」と言いたくなる。
これも「コピー人間が発明されて云々」という設定と同様で、「余計なことをやらかしたせいでボロが出てしまった」ってことだよ。ジョーダン・ピール監督は前作の『ゲット・アウト』でホラー映画という体裁を取りながら、その奥に社会派のメッセージを込めていた。今回の映画でも、そういう方向性を受け継いでいる。
冒頭で「Hands Across America」というイベントのコマーシャルが流れるが、これが大きなヒントになっている。それは単に「1986年」という時代を示すための表現ではなく、社会派のテーマ的に考えると重要な意味のあるシーンになっている。
「Hands Across America」は、ニューヨークからカリフォルニアまで人間の鎖を作るイベントだ。その目的は、飢餓に苦しむ人々とホームレスのために寄付金を集めること。
しかし費用対効果が悪すぎて、大いに疑問符が付くイベントだった。ジョーダン・ピール監督のコメントによれば、この映画には「自分たちが享受できている自由や幸福は、その裏で苦しんでいる人間の犠牲によって成り立っている」いうメッセージが込められているそうだ。
「だから自分が得ている特権を当たり前だと思わず、恵まれない人々のことを考えるべきだ」ってことなんだろう。
ただ、ウィルソン一家って、そこまで裕福って感じでもないのよね。
もちろん貧乏ではないけど、メッセージからすると、もっと分かりやすく「金持ち一家」にしても良かったんじゃないかと。ただ、そんなことより何より、「そのメッセージ、ホントに必要かね?」と言いたくなる。
もっとハッキリ言っちゃうと、「うるせえよ」ってことになるかな。
「そのメッセージを本気で伝えようとした時に、真正面から訴えても観客が来ないから娯楽映画の体裁を取る」ってことなら、それは分からんでもないよ。
ただ、映画を見ただけでメッセージを感じ取れる人って、決して多くは無い気がするのよ。
そうなると、単なる監督の自己満足になってないかという気がしないでもないぞ。(観賞日:2022年9月15日)