『アンブレイカブル』:2000、アメリカ

スタジアムの警備員デヴィッド・ダンは列車に乗っている時、衝突事故に遭った。乗客と乗員132人の中で、生き残ったのは彼だけだった。しかもデヴィッドは、かすり傷一つ負っていなかった。彼は生まれて以来、一度も怪我をした経験が無かった。
デヴィッドの息子ジョセフは、父がフットボール選手だった頃に怪我をしたことがあったと告げる。しかし、それはデヴィッドがついた嘘だった。彼はフットボールを危険だと考える妻オードリーのため、怪我を負って選手生命を絶たれたように装ったのだ。
自分だけが生き残ったことに悩むデヴィッドの元へ、謎めいたメッセージが届けられた。送り付けた相手は、コミック原画専門画廊のオーナーを務めるイライジャ・プライスという男だった。デヴィッドはジョセフを伴ない、彼に会いに出掛けた。
イライジャは骨形成不全症という難病を患い、両手と両足を骨折した状態で生まれて来た。簡単に骨折することから、少年時代にはミスター・ガラスという仇名が付けられた。家に閉じ篭もりがちになった彼に、母は1冊のコミックをプレゼントした。それ以来、イライジャは何冊ものコミックを読み漁るようになったのだった。
イライジャはコミックを読み漁った結果、ある結論に達した。世の中は、対極の存在によって成り立っている。そして虚弱な自分とは正反対に、不滅の肉体を持つ人間が存在する。そしてデヴィッドこそが不死身の人間、アンブレイカブルだと彼は考えたのだ…。

監督&脚本はM・ナイト・シャマラン、製作はバリー・メンデル&サム・マーサー&M・ナイト・シャマラン、製作総指揮はゲイリー・バーバー&ロジャー・バーンバウム、撮影はエドゥアルド・セラ、編集はディラン・ティシェナー、美術はラリー・フルトン、衣装はジョアンナ・ジョンストン、音楽はジェームズ・ニュートン・ハワード。
出演はブルース・ウィリス、サミュエル・L・ジャクソン、ロビン・ライト・ペン、シャーレイン・ウッダード、スペンサー・トリート・クラーク、ジェームズ・ハンディー、イーモン・ウォーカー、エリザベス・ローレンス、レスリー・ステファンソン、
ジョニー・ハイラム・ジェイミソン、ミカエラ・キャロル、ボスティン・クリストファー、デヴィッド・ダフィールド、ローラ・リーガン他。


M・ナイト・シャマランが『シックス・センス』に続いて撮った作品。
デヴィッドをブルース・ウィリス、イライジャをサミュエル・L・ジャクソン、オードリーをロビン・ライト・ペン、イライジャの母をシャーレイン・ウッダード、ジョセフをスペンサー・トリート・クラークが演じている。スタジアムの麻薬密売人役でM・ナイト・シャマランも顔を見せている。

『シックス・センス』と同じく、パンチ・ライン(オチ)だけで乗り切ってしまおうという作品だ。だから、全てはパンチ・ラインのためにある。たっぷりと時間を掛けて雰囲気を作り、伏線を張り巡らせて、さんざん引っ張りまくって、最後のオチによる一発勝負という仕組みだ。
幾つも張り巡らされた伏線は、最後に待ち受けている答えが衝撃的であればあるほど、「そうか、あの時のアレは、そういう意味だったのか」という気持ちの良い驚きを与えてくれる。この作品の場合、別の意味で衝撃的なオチが待ち受けている。

最初に観客に提示される不思議な現象は、「デヴィッドだけ無傷で生き残る」という部分だ。だから大抵の観客は、「なぜデヴィッドだけが生き残ったのか、なぜ彼は不死身なのか」という疑問に対する答えがオチになっているのだと考えてしまうだろう。
しかし、この映画のオチは、そんな所には無い。全ての伏線は、不死身の理由を説明するためのモノではない。張り巡らされた伏線は、「これはヒーローと悪党の覚醒を描いたアメコミ実写版でした」というネタばらしのために存在しているのだ。

劇中、上下が逆さまになっている映像が何度も登場する。これは、デヴィッドとイライジャが対極の位置にあるということを暗示している。そのように、全ての伏線は「デヴィッドが正義のヒーローでイライジャは対極の悪党だ」というオチのためにある。
だから「なぜデヴィッドは生き残ったのか、なぜ不死身なのか」という質問の答えは、期待するだけ無駄である。それはテーマではないので、語られないのだ。あえて答えるとするならば、「アメコミのヒーローだから不死身なのだ」ということになる。

「そんなの、何の説明にもなっていないじゃないか」と言われそうだが、実際にそうなんだから仕方が無い。あなたはアメコミを読んだ時、「なぜヒーローは無敵なのか」と疑問を抱いたりしないはずだ。「ヒーローだから無敵なのは当たり前」という感覚で読むはずだ。つまり、そこは、それ以上の追及をすべき個所ではないのだ。
イライジャは、「コミックは世界中の人々が体験した歴史を伝達するための表現だ」と、まるでアメコミが事実を記録しているモノであるかのように語る。これがコメディーではなくシリアスに語られるのだが、そのマジな語り口が逆に笑いを誘う。

この作品のストーリーはミステリー仕掛けになっている。これが例えば聖書を使ったミステリー仕掛けによって不死身の男を描くのであれば、そこにオカルティックで意味ありげな空気が生じるだろう。しかし、そこにアメコミを持って来るというのが凄い。
荒唐無稽な設定や強引な辻褄合わせが当たり前のように行われる(というか、別シリーズだと辻褄が合っていないことも珍しくない)アメコミの世界観を使って、ミステリーが仕掛けられていく。そのアイデア自体が、まさにアメコミ的な荒唐無稽だと言える。

デヴィッドとイライジャは、互いに自身のアイデンティティーに気付く。自身が正義のヒーローであること、自身がヒーローと対峙する悪者であることに、それぞれ気付くのだ。これは、ヒーローの”誕生編”である。だからこそ、監督は3部作の1作目として想定していたのだ。第2部は、イライジャが精神病院を出るところから始まるのだろう。
この映画の最も凄いところは、これがヒーローと悪党の覚醒編であるにも関わらず、そのテーマさえも謎に包んで、ミステリーとして仕立て上げたことだ。しかも、相当に陰気なムードで淡々と進め、人物への感情移入を完全拒否するほどの突き放しっぷりだ。

普通にアメコミ的ヒーローの話として作っていれば、そしてイライジャがアメコミを使って世界観を語らなければ、それで成立していた映画なのだ。そこを根本から破壊して、“結果的にズレまくったコメディー”にしてしまうのだから、シャマラン監督は凄い人だ。

 

*ポンコツ映画愛護協会