『アメイジング・ジャーニー 神の小屋より』:2017、アメリカ

中西部で生まれたマック・フィリップスの祖先はアイルランド系アメリカ人で、両親は勤勉と規律を重んじるタイプだった。酒浸りの父は母に暴力を振るい、止めようとしたマックも殴られた。近所に住む黒人女性はマックを呼び、「父親が息子に手を出すのは愛じゃない」と教える。「どうすればいいの?」とマックが相談すると、彼女は「神に話すの。必ず聞いてくださる」と答えた。ある日曜日、両親と教会へ赴いたマックは、神父に全てを話した。すると激怒した父は雨の中で彼を連れ出し、お仕置きと称して夜中まで暴力を振るった。13歳のマックは母に「いつか僕を赦して」とメモを書き、父の酒瓶に殺鼠剤を入れた。
大人になったマックは、その頃の出来事に今も苦しんでいた。彼は妻のナンと結婚して18年が経ち、その悪夢を除けば幸せに暮らしている。夫婦の間には、ジョシュ、ケイト、ミッシーという3人の子供がいる。ナンは敬虔なクリスチャンで、家族と教会へ通っている。ナンは神を「パパ」と呼ぶほど深い信仰心の持ち主だが、マックは彼女に比べると熱心さに欠けていた。子供たちはナンの影響で、神を「パパ」と呼ぶようになっていた。
30年ぶりの大雪が降った日、マックは友人のウィリーから家へ来るよう誘われるが、暗い表情で断った。。帰宅した彼は郵便受けを開き、「会いたければ今週末、あの小屋にいる。パパより」と書いてある手紙を見つけた。雪が積もっているのに足跡は残っておらず、マックは周囲を見回した。足を滑らせて転倒した彼は意識を失い、あの出来事を思い出した。ナンがセミナーに参加する日、マックは子供たちを連れてキャンプに出掛けた。ミッシーにせがまれて滝に立ち寄ったマックは、部族長の娘が人々を病気から救うために崖から飛び降りたという伝説を語った。
ワロワ湖州立公園に着いたマックがキャンプの準備をしていると、エミルという男が手伝ってくれた。彼は自己紹介し、妻のエミリーや娘のアンバー&ヴィッキーと来ていることを話した。エミルはフィリップス一家を誘い、一緒にマシュマロを焼いた。夜、マックはミッシーから「偉大な霊は意地悪だよね。御姫様を飛び降りさせたし、イエス様を十字架に磔にした」と言われて上手い答えが見つからず、「家に帰ったらママに訊いてみよう」と告げた。ミッシーが「私もいつか崖から飛び降りるのかな」と言うと、彼は「お前は絶対に、そんな目に遭わない」と否定する。「神様の頼みだったら?」というミッシーの言葉に、彼は「神様は頼んだりしない」と断言した。
翌日、マックは帰る準備を始めるためボートで湖に出ているジョシュとケイトに呼び掛けた。ケイトがマックに「こっち見て」と叫んで立ち上がると、ボートはバランスを崩して転覆してしまった。マックは湖に飛び込み、溺れて気を失ったジョシュを救助する。ジョシュが息を吹き返したのでマックは安堵するが、ミッシーが姿を消してしまう。マックはエミルたちにも手伝ってもらって捜索するが、ミッシーは発見できなかった。
郡保安官が現場に到着し、マックはテーブルの上に見覚えの無いテントウムシのピンが置いてあるのに気付いた。保安官のダルトンは彼に、5人の幼女の誘拐容疑でFBIが追っているテントウムシ男の仕業かもしれないと告げた。FBIは体育館に捜査本部を設置し、連絡を受けたナンも駆け付けた。マックが「少し目を離しただけなんだ」と泣くと、ナンは「貴方のせいじゃないわ」と慰めた。山で不審な車が発見され、マックはFBIと共に現場へ赴いた。すると近くに山小屋があり、そこには血の付着したミッシーの服があった。
意識を取り戻したマックは、手紙の差出人がウィリーだと思って彼の元へ乗り込む。しかしマックに手紙を見せられたウィリーは、「冗談でもこんなことはしない」と否定した。翌日、マックはナンと子供たちが帰宅しても、手紙のことは言わなかった。ケイトは家族に心を開かなくなり、マックには冷たい態度を取るようになっていた。ナンはマックに、カウンセラーに診せるつもりだと話す。マックは郵便局へ行って手紙に見覚えが無いかと尋ねるが、消印が無いので配達ではないと言われた。
郵便局を出て車に戻ったマックは、ミッシーの葬儀を思い出す。ミッシーの遺体は見つからず、棺は空のままで葬儀は行われた。マックはウィリーに、四駆を貸してほしいと頼む。小屋に行くつもりだと知ったウィリーは「手紙は犯人の罠かもしれない」と言い、一緒に行くと告げた。マックは子供たちを連れて弟の家へ行くナンを見送り、ウィリーと合流した。しかしウィリーが目を離した隙に、彼は一人で車を発進させた。深い雪の積もる山に到着したマックは、小屋へ赴いた。彼が拳銃を構えて中に入ると、誰もいなかった。
マックが「姿を見せない気か。大したパパだ」と呟いて小屋を出ると、アラブ系の男が歩いて来るのが見えた。マックは背後から拳銃を向けるが、気付いていた男は笑顔で「ここは寒いな。中に入って暖炉で暖まろう」と言う。マックが男に付いて行くと、雪が無くなって暖かい緑の風景が広がった。マックが困惑しながら山小屋に入ると、2人の女性が待っていた。1人は年配の黒人女性で、もう1人は若いアジア系の女性だった。
黒人女性はマックを歓迎し、「この時をずっと楽しみに待ってた」と言う。彼女は「混乱してるのね。自分のペースでゆっくり理解してくれればいい」と告げ、エロウジアと名乗って「他にも名前はあるけど、これが一番のお気に入り」と語る。「貴方は、もしかして」とマックが口にすると、彼女は「神よ」と述べた。「聖書の通りでしょ」とパパである彼女は笑い、息子のイエスと聖霊のサラユーもマックに挨拶した。「3人の内の誰が神?」とマックが訊くと、全員が自分だと答えた。
マックが気持ちを落ち着かせようと桟橋に出ると、イエスがやって来た。彼は手紙について、自分たちが招待状を送ったのだと告げた。「なぜ呼ばれた?何をすればいい?」とマックが尋ねると、彼は「何をしてもいい。君次第だ」と答えた。パパは「なぜ連れ戻した?」とマックから問われ、「貴方が動けないままでいるから」と告げる。パパが「私たちの間には深い溝があるわ。信じないかもしれないけど、貴方のことが大好き。簡単に痛みを拭い去る方法なんて存在しない。必要なのは少しの時間とたくさんの繋がりなのよ」と言うと、マックは「貴方は全能の神だ。それなのに俺の娘を死なせた。娘が必要とした時、見捨てたんだ」と批判した。
「ずっと一緒にいた」とパパが言うと、マックは「俺が必要とした時、どこにいた?」と反発する。パパが「己の痛みだけを見ていたら、私を見失うわよ」と諭すと、彼は「謎かけはやめてくれ。俺を助けるなんて口にするな娘を見捨てたのに。貴方のせいで娘は死んだ。それが変わらない限り、俺は自由になれない」と声を荒らげる。パパが「真理は番人を自由にするものなの」と説くと、マックは「彼のことも見捨てた。十字架で彼は、なぜ神は私を見捨てたのかと自分を問い詰めた」と言う。パパは「貴方はあの時のことを理解していない」と手首の聖痕を見せ、「息子が決断した行為で、私たちは大きな犠牲を払ったの。愛は必ず印を残す。私は息子とも貴方ともミッシーとも、いつも一緒にいる」と語った。
その夜、マックは3人と夕食を取り、ケイトやジョシュについて質問される。食事を終えた彼は、「こんな美味しい食事は初めてだ」と言う。彼が「私が話さなくても、最初から全て知ってたはずでしょ」と告げると、サラユーは「貴方の口から聞きたかったの」と説明した。イエスはパパから「マックに作品を見せたら?」と促され、星空を見せる。マックが「君たちは三位一体だけど、君が一番リラックスできる」と言うと、彼は「私は人間だから」と口にした。イエスはマックに、「愛は繋がりの中に宿る。君とも築きたい。今は分からなくても、君は愛と神が与えた目的の中にいるんだ」と語った。
次の日、マックはミッシーを救えなかった悪夢で目を覚ました。パパは彼から「嫌いな奴はいるんですか」と訊かれ、「いない。それが私だから」と答える。「怒ることは?その時は天罰を下しますか」という質問には、「罰なんて必要ない。罪自体が罰だから。理解し難いだろうけど、人間が災いだと思うことにも私は関わってる。善きことのために」と言う。マックが世界は苦悩で溢れているのに、善きことだなんて。少女が異常者に殺される。そこにも善があると?貴方なら止められたはずなのに」と苛立つと、パパは「貴方は世界のほんの一部だけを見ている。貴方の根本的な問題は、私を善だと信じていないこと。信じて」と語った。
マックは「そんなの無理です。娘は死んだ」と怒り、山小屋を出て行く。するとサラユーが現れ、「私たちは何も正当化しない。望んでくれるなら、癒やすだけ」と言う。彼女は「帰る前に庭の手入れを手伝ってほしいんだけど。明日。お祝いなの」と語り、マックがお祝いの意味について尋ねると、サラユーは「知りたかったら残って」と告げる。彼女はマックを混沌の花畑へ案内し、「明日、ここに植えたい植物があるの。だから穴を掘って、周りの植物の根を掘り返す」と説明する。
マックが作業を手伝うと、サラユーは猛毒の植物に触れないよう注意する。彼女はマックに、「樹液だけを取り出すと猛毒よ。でも、この花の蜜と一緒にしたら素晴らしい治癒力を持つようになる」と話す。サラユーはマックに、「貴方の善いことの基準って何?」と質問した。「愛する人たちや、自分の役に立つこと」とマックが答えると、彼女は「悪いことは?」と尋ねる。「有害な物。愛する人を築透ける」というマックの答えに、彼女は「判断の基準は貴方ってこと?後で考えが変わることは?」と言う。サラユーはマックに、「貴方みたいな人が大勢いるの。全員が自分の主観で善悪を判断してる。自分の善が他人の悪とぶつかったら戦争が始まる。。人間が神を演じようとするせいよ」と説いた。
マックは大工仕事をしているイエスを見つけ、「湖の向こう岸に見せたいものがある。ボートで先に行ってくれ」と言われる。マックがボートを漕ぎ出すと、ミッシーの声が聞こえた。ボートに亀裂が入って浸水が始まったため、マックは狼狽する。そこへ水面を歩いてきたイエスが歩み寄り、マックに「大丈夫だ。これは現実に起こっているわけじゃない。君の心が見せている幻だ」と話し掛ける。「私を見ろ。誰も君を傷付けない」と言われたマックが落ち着くと、ボートは元に戻った。
マックがイエスに手を取られてボートを出ると、彼も水面を歩くことが出来た。マックが向こう岸に辿り着くと、イエスは独りで山道を進むよう促した。マックが山を歩くと、岩が行く手を塞いでいた。しかしマックが触れると向こうへの道が開かれ、洞窟が出現した。そこには英知を名乗る女性が待っており、「今日は重大な結果が出る日です。裁きの日なのです」と言う。彼女はマックに裁きの仕事を要求し、「神は善き存在か?」「アダムは有罪か?」などと次々に質問を投げ掛けた…。

監督はスチュアート・ヘイゼルダイン、原作はウィリアム・P・ヤング、原作協力はウェイン・ジェイコブセン&ブラッド・カミングス、脚本はジョン・フスコ&アンドリュー・ランハム&デスティン・クレットン、製作はギル・ネッター&ブラッド・カミングス、製作総指揮はマイク・ドレイク&クイン・ロン、共同製作はラニ・アームストロング・ネッター&ウィリアム・ステインカンプ、共同製作協力はシェン・ボー&チョウ・シーシン、製作協力はアーサー・スペクター、撮影はデクラン・クイン、美術はジョセフ・ネメック、編集はウィリアム・ステインカンプ、衣装はステイシー・カバジェロ&カリン・ノゼッラ、音楽はアーロン・ジグマン、音楽監修はアナスターシャ・ブラウン。
出演はサム・ワーシントン、オクタヴィア・スペンサー、ティム・マッグロウ、グレアム・グリーン、アヴラハム・アヴィヴ・アラッシュ、ラダ・ミッチェル、アリシー・ブラガ、すみれ、アメリー・イヴ、ミーガン・チャーペンティア、ゲイジ・マンロー、ライアン・ロビンス、ジョーディン・アシュリー・オルソン、ローラ・マクキロップ、エミリー・ホームズ、デレク・ハミルトン、タニア・ハバード、カーソン・ローム、デヴィッド・マッケイ、クリス・ブリットン、レーン・エドワーズ、ケンドール・クロス、ジェイ・ブラゾー、グレタ・ギブソン、デヴィッド・ロングワース他。


ウィリアム・ポール・ヤングの小説『神の小屋』を基にした作品。
監督は『エグザム』のスチュアート・ヘイゼルダイン。
マックをサム・ワーシントン、パパをオクタヴィア・スペンサー、ウィリーをティム・マッグロウ、男性になったパパをグレアム・グリーン、イエスをアヴラハム・アヴィヴ・アラッシュ、ナンをラダ・ミッチェル、英知(ソフィア)をアリシー・ブラガ、サラユーをすみれ、ミッシーをアメリー・イヴ、ケイトをミーガン・チャーペンティア、ジョシュをゲイジ・マンローが演じている。

キリスト教の信仰について描く宗教映画に対して、信者ではない人間が何かを言ったところで、何の意味も無いのかもしれない。「この映画を批評する資格は無い」と言われたら、そうなのかもしれない。
だから、これはあくまでも「何の信仰心も無いボンクラまっしぐらな野郎が勝手なことを並べ立てているだけの駄文」ってことを、あらかじめ理解しておいてもらいたい。
キリスト教の熱心な信者からすると不愉快かもしれないが、「何も分かっちゃいない奴だ」と侮蔑してくれて構わない。
たぶん、それと同じぐらい私もこの映画を侮蔑しているので、それで「おあいこ」ってことにしよう。

さて、愚かで無意味な前置きを済ませたところで、本作品の批評に入っていこう。
序盤、マックが父親の暴力について近所の女性(これを演じているのもオクタヴィア・スペンサー)に相談すると、「神に話すの。必ず聞いてくださる」という答えが返ってくる。
でも、酒浸りで暴力を振るう父親も、教会に通う熱心な信者なのよ。つまり厚い信仰心を持っている男が家庭内暴力を振るっているにも関わらず、それを神は見逃しているってことになる。
そんな神に話したところで、何の力にもなってくれないでしょ。
実際、マックの悩みに対して、神は役立たずっぷりを露呈しているし。

ところがマックは、そのことで信仰心をすっかり失ったのか、捨てたのかと思いきや、そういうわけでもないらしい。
大人になった彼は、家族と教会に通っている。妻に比べれば熱心な信者とは言えないが、だからって信仰心が無くなったわけでもない。
そしてミッシーが殺害された後も、それは変わらないのだ。
「神は救ってくれなかった」と怒りを抱いたり、それによって信仰心を失ったりするのかと思いきや、そうではないのだ。

だからマックは手紙が届いた時点で、早くも「ホントに神かもしれない」と思っている。そして小屋で3人と会った時も、向こうが正体を明確にする前から「もしかして貴方は?」と悟っている。
そして彼は「全員が神」ということを、あっさりと受け入れる。
「そんなはずがないだろ」と否定したり、彼女たちを拒絶したりする過程は無い。
なんて物分かりのいい男なんだ。まるで北尾光司のプロレスデビュー戦で対戦相手を引き受けたクラッシャー・バンバン・ビガロのように、ものすごく物分かりのいい男である(その例えは分かりにくい上に、たぶん間違ってるぞ)。

パパはマックに「娘が必要とした時、見捨てたんだ」と批判され、「ずっと一緒にいた」と言う。「俺が必要とした時、どこにいた?」と言われ、「己の痛みだけを見ていたら、私を見失うわよ」と話す。イエス・キリストを見捨てたことを批判されると、「私は息子とも貴方ともミッシーとも、いつも一緒にいる」と語る。
パパは「神はいつも貴方と一緒にいます」ってことを言いたいらしい。
でも裏を返すと、「一緒にいるけど何もしない」ってことなんだよね。つまり、「神は存在する。ただし、救世主でも何でもない」ってことだ。
だから神の存在を信じるのはいいけど、「神がお救いくださる」という考えは否定されるべきなのだ。
なぜなら、神はただの傍観者に過ぎないからだ。

この映画におけるパパたちの説明は、かなりクドクドと回りくどい表現もあるし、ダラダラと同じようなことを繰り返したりもしている。
でもギュッと短くまとめれば、「いつも一緒にいるよ。ずっと見ているよ」ってことに集約される。
それは別にいいのよ。そこに関してはヒステリックに否定しようと思わない。
ただ、「一緒にいるけど期待しないでね。誰も救ったりしないよ」という結論に至るのなら全面的に受け入れられるけど、そうではないのだ。最終的に、やっぱり「神は我々をお救いくださる偉大な存在だ」ということになっているのだ。
なので、「それは違うだろ」と言いたくなってしまう。

この映画、恐ろしいことに、少女を殺す異常者も肯定してしまう。
パパはマックから「少女が異常者に殺される。そこにも善があると?貴方なら止められたはずなのに」と非難されても全く悪びれず、堂々とした態度で「貴方は世界のほんの一部だけを見ている」と告げる。
つまり、「マックからすればミッシーを殺した異常者は悪かもしれないが、広い視野で見れば善になる」ってことだ。身勝手な連続殺人犯も、パパからすると天罰なんて与えちゃいけない愛すべき存在なのだ。
「神は全ての人間を平等に愛する」ってことなんだろうけど、それで納得しろってのは難しい。

もちろん、この考えはパパだけでなく、イエスやサラユーも同様だ。
サラユーはマックに、「全員が自分の主観で善悪を判断してる」と語る。つまり彼女に言わせれば、「ミッシーを殺したことは、犯人にとっては善」ってことなのだ。すげえ理屈だな。
でもパパたちの説明って、所詮は卑怯な詭弁に過ぎないのよ。巧妙に誤魔化して、言いくるめようとしているだけなのよ。
パパは「貴方の根本的な問題は、私を善だと信じていないこと。信じて」と言うけど、信じられるはずもないでしょ。っていうか「善悪の基準は人によって違う」と主張するくせに、パパは「私を善だと信じて」と言うんだから、それはダメだろ。
なぜ自分だけは絶対的な善だと言えるんだよ。むしろ、パパたちが善じゃないってことだけは断言できるわ。

パパたちがマックに求めているのは、「ミッシーを殺した犯人を赦す」ってことだ。
だけど、それが正しい道だなんて到底思えないのよ。
そりゃあ、いつまでも憎しみや恨みを抱き続けたところで、娘が戻ってくることは無いよ。心の傷を癒やしたり、前を向いて人生を歩み始めたりするのに、そういう感情を捨てることの必要性を主張するのは、分からんでもない。
ただ、少なくとも本作品の場合、犯人は逮捕もされていないんだよね。

つまり犯人が犯した罪に対する罰も受けていない内から「犯人を赦す」という答えに導くのは、すんげえ不愉快なのよ。
それはテメエが娘を殺されていない奴の語る、陳腐な理想論じゃねえのかと。
「娘を殺されて犯人も捕まっていない」という状況の男がいて、そいつを救うために何が必要なのか、どんな方法があるのかと考えた時に、そりゃあ「復讐」ってのは選択肢に入らないよ。だって、犯人が誰なのかも分かっていないんだから、それは不可能でしょ。
ただ、この映画で描いているような「神が救ってくださるから、全て任せろ」ってのは、それと同じぐらい無い選択肢だわ。

そういう状況における「神の救い」ってのは、怪しいセミナーとかカルト教団の誘いと大して変わらないのよ。金を搾取しないという違いはあるけど、「弱った心に付け込んで信じさせる」という手口は同じだからね。
そして「金を搾取しない」と書いたけど、「だから純粋で何の悪意も無いし、それは素晴らしい救いの道だ」とも言えないからね。
確信犯(ここでは思想犯という意味ね)として人を殺す奴だって、純粋で何の悪意も無いからね。
キリスト教に限ったことじゃないけど、世界中で起きている多くの争いは宗教絡みだしね。

(観賞日:2021年6月10日)

 

*ポンコツ映画愛護協会