『悪の法則』:2013、アメリカ&イギリス

恋人のローラと2週間ぶりに会ったカウンセラーは、ベッドで幸せな時間を満喫した。実業家のライナーと愛人のマルキナは、サバンナで会話を交わしている。カウンセラーはオランダのアムステルダムへ出向き、婚約指輪を購入するため宝石商と会う。カウンセラーは友人であるライナーの豪邸へ行き、「アンタの新しいビジネスにローラは気付いていないだろうな」と確認される。ライナーは「合法的に悪事を働けるのが弁護士だ」と告げた後、「これからアンタがやる裏のビジネスでは、いきなりギリギリの決断をしなきゃならない時がある」と助言する。
カウンセラーが「ずっと続ける気は無い」と言うと、ライナーは「大抵の奴は何度か取り引きした後、俺の商売敵になる。そついらは俺が潰す」と話す。彼は組織の連中もビジネスに情けを持ち込まないことを告げ、「ボリート」と呼ばれる殺人装置について教える。メキシコのフアレスでは、コカインを隠したトラックが2人の男たちによって運ばれている。カウンセラーはレストランでローラと外食し、指輪を渡してプロポーズする。感涙してOKしたローラに、カウンセラーは「死ぬまで愛し続ける」と言う。
後日、ローラはマルキナと会い、カウンセラーとの結婚について話す。教会に通っていることをローラが語ると、マルキナは懺悔で細かいことまで訊かれるのかと質問する。彼女がセックスのことばかり話題にするので、ローラは困惑する。カウンセラーはライナーに、裏のビジネスをやると告げる。ライナーは現金があることを確認し、カウンセラーは麻薬ブローカーのウェストリーを訪ねる。ウェストリーは麻薬戦争について語るが、カウンセラーは麻薬取り引きで得られる利益について質問する。
カウンセラーが「麻薬戦争が終われば、この商売も終わり?」と訊くと、ウェストリーは「もっと危険な仕事になる。それをライナーは分かっていない。奴の暮らしは派手になっている」と告げる。カウンセラーがマルキナの存在に触れると、「あれは腹を明かさない女だ。気を付けろよ」と彼は忠告する。「フアレスのディーラーは人種が違う。大勢が殺されている。やるんなら根性を据えろ」とウェストリーは暗に降りることを勧めるが、カウンセラーは軽く受け流した。
カウンセラーはテキサスの女子刑務所へ赴き、殺人犯のルースと面会する。ルースは彼に、息子がスピード違反で逮捕されたことを話す。カウンセラーは罰金の肩代わりを約束し、「それでも、まだ貸しがある」と笑う。トラックの2人組は交通警官に賄賂を渡し、検問を通過して仕事を終える。カウンセラーは2週間後にオープン予定のクラブをライナーに見せてもらい、資金調達を約束する。ワイヤーマンと呼ばれる男は、助手の女と共にバイカーの若者を張り込む。何かを取引する様子を確認したワイヤーマンは、雇い主であるマルキナと連絡を取る。マルキナは彼に、尾行して1時間後に連絡するよう指示する。
カウンセラーがローラとランチを取っていると、かつて弁護したトニーが恋人と共に現れる。トニーはカウンセラーを挑発するような態度を見せ、「こいつは人が不幸になっても平気で見捨てる。アンタも気を付けな」とローラに捨て台詞を吐いて立ち去る。マルキナは教会の懺悔室に入るが、カトリックではないと言うので神父は「それでは赦しを与えられない」と告げる。マルキナは「知ってる。でも誰かに話したくて」と告げるが、神父は無意味だと感じて立ち去ろうとする。マルキナが呼び止めてセックスの話を始めたので、神父は憤慨した様子で懺悔室を出て行った。
カウンセラーはライナーから「マルキナは俺の車をファックしたことがある」と聞かされ、戸惑いを見せる。彼が詳しい説明を求めると、ライナーは「フェラーリでドライブに出た時、いきなりマルキナが下着を脱いでボンネットに上がり、フロントガラスに股間を擦り付けて絶頂に達した」と語った。ライナーは「時々、マルキナにゾッとする。不安になる」と漏らすが、カウンセラーには理解できなかった。ワイヤーマンはバイクの高さを調べ、田舎の直線道路にワイヤーを張った。深夜、何も知らないバイカーが猛スピードでバイクを走らせ、ワイヤーに激突して死亡した。
翌朝、ワイヤーマンはコカインを積んだトラックを盗み出す。ウェストリーはカウンセラーに電話を掛け、「ヤバいことが起きた」と言う。彼はカウンセラーをホテルに呼び出し、新聞を見せる。そしてグリーン・ホーネットと呼ばれるバイカーが死んだこと、組織に雇われていたこと、2千万ドルのブツが消えたことを話す。グリーン・ホーネットはルースの息子であり、カウンセラーが金を払って釈放していた。そのため、組織はカウンセラーが麻薬を盗んだと思い込んでいるとウェストリーは話す。
カウンセラーが「ルースは何かを知ってるはずだ。電話する」と焦った様子で言うと、ウェストリーは「彼女はアンタを殺すってさ」と笑った。カウンセラーは「誰かの罠だ。俺は巻き込まれただけだ」と言うが、ウェストリーは「そんな主張は無駄だ。組織は俺たちがグルだと思ってる。容赦しないぞ」と話す。ウェストリーはスナッフ・フィルムを見た経験を語り、「ここまで来たら、打つ手は無いと思え。最後はみんな道連れだ」と諦めるよう告げた…。

監督はリドリー・スコット、脚本はコーマック・マッカーシー、製作はリドリー・スコット&ニック・ウェクスラー&スティーヴ・シュワルツ&ポーラ・メイ・シュワルツ、製作総指揮はコーマック・マッカーシー&マーク・ハッファム&マイケル・シェイファー&マイケル・コスティガン、製作協力はテレサ・ケリー、撮影はダリウス・ウォルスキー、美術はアーサー・マックス、編集はピエトロ・スカリア、衣装はジャンティー・イェーツ、音楽はダニエル・ペンバートン。
出演はマイケル・ファスベンダー、ペネロペ・クルス、キャメロン・ディアス、ハビエル・バルデム、ブラッド・ピット、ブルーノ・ガンツ、ロージー・ペレス、サム・スプルエル、トビー・ケベル、エドガー・ラミレス、ルーベン・ブラデス、ナタリー・ドーマー、ゴラン・ヴィシュニック、リチャード・カブラル、アンドレア・デック、ディーン・ノリス、エマ・リグビー、カルロス・フリオ・モリーナ、イーベン・ヤング、リチャード・ブレイク他。


これまで3本の小説が映画化されているピューリツァー賞作家のコーマック・マッカーシーが、初めて映画脚本を手掛けた作品。
監督は『ロビン・フッド』『プロメテウス』のリドリー・スコット。
カウンセラーをマイケル・ファスベンダー、ローラをペネロペ・クルス、マルキナをキャメロン・ディアス、ライナーをハビエル・バルデム、ウェストリーをブラッド・ピット、宝石商をブルーノ・ガンツ、ルースをロージー・ペレス、ワイヤーマンをサム・スプルエル、トニーをトビー・ケベルが演じている。
アンクレジットだが、ドラム缶に死体を入れている工員2人組の1人として、ジョン・レグイザモが1シーンだけ出演している。

コーマック・マッカーシーは1992年の『すべての美しい馬』がベストセラーとなり、全米批評家協会賞と全米図書賞を受賞した。2006年の『ザ・ロード』もベストセラーで、こちらはピューリツァー賞を受賞している。
この2作に加えて、2005年の『血と暴力の国』と3作が映画化されている。『血と暴力の国』の映画化である『ノーカントリー』は、アカデミー賞4部門など数多くの賞を獲得している。
現代のアメリカ文学を代表する小説家の1人として、高い評価を受けている人物だ。
そんなコーマック・マッカーシーが初めて映画脚本を手掛け、しかも巨匠と呼ばれるリドリー・スコットが監督を務めたのだから、きっと多くの人が高い期待を持っていたのではないだろうか。
しかし完成してみると、2人とも厳しい批評を浴びることになった。
リドリー・スコットは今までも酷評を浴びることがあっただろうけど、コーマック・マッカーシーからすると初めての大失敗と言える出来事になるかもしれない。

本作品の大きな欠点として、「やたらと話が分かりにくい」ってことが挙げられる。
事前にザックリとしたストーリーを知った上で鑑賞しないと、初見では内容を把握することだけで精一杯になってしまい、読み解くことにまで意識が向かないのではないだろうか。
もちろん、読み解く必要なんて全く無いような単純明快な映画であれば、そんなトコに頭を使う必要は無い。
でも、そういう作品ならば、そもそも内容を把握することだけで精一杯になるってことも無いわけでね。

序盤から色んなことが起きていて、それが絡み合ってストーリーは進行している。
最初の内、それは全く関連性が分からない。
例えば、ライナーとマルキナが登場した時点では、カウンセラーとの関係性は分からない。トラックでブツを運ぶ男たちが登場したり、バイカーの若者が登場したりしても、そことカウンセラーとの関係性は全く見えない。
話が進む中で、バラバラだったピースが1つに組み合わさるという構成になっているわけだ。

ただし、そんな構成になっている映画なんて、世の中には山ほど存在する。
だから、「最初はバラバラだったピースが後で組み合わさる」という構成が話を分かりにくくしているというわけではない。問題は構成にあるのではなく、説明不足という部分にある。
いや、その表現は、実は適切ではないのかもしれない。
なぜなら、これは意図的に説明を省略している映画だからだ。
つまり説明が不足しているのではなく、最初から「そういうモノ」として作られているのだ。

何かが起きた時、そこには必ず原因があり、そこに至る経緯が存在する。
しかし、そういう説明をバッサリと省いているために、この映画は理解することが難しくなっているのだ。
「説明不足」という表現について「実は適切ではないのかもしれない」と前述したが、結果として「説明が足りないせいで内容の理解に支障をきたしている」という状況が生まれているわけで。
だから、まあ「説明不足」と言ってもいいんだろうな。うん、ハッキリ言って説明不足だよ。
それが意図した仕掛けであっても、失敗しているわけだから。

劇中では多くの会話シーンが用意されており、それによって多くのことを伝えようとしている節が見える。
それは物語の内容だけでなく、テーマやメッセージも含めてだ。
しかし、それらの大半が、いや全てと言ってもいいかもしれないが、「何だかよく分からない」というシロモノになってしまっている。
これは推測に過ぎないのだが、ひょっとすると理解できているのはコーマック・マッカーシーだけで、リドリー・スコット監督でさえ充分には分かっていなかったんじゃないかとさえ感じるほどだ。

例えば序盤、マルキナとライナーが会話を交わすシーンがある。
「俺は誰かに似てるか。会いたいか」とライナーに問われたマルキナは、「その人は死んだ。会いたいとか思わない。そう思うのは、戻って来るのを願うから。消えた物は戻らない。小さい頃から分かってた」と話す。「それ、ちょっと冷たくないか」とライナーが言うと、彼女は「そんなこと、どうでもいいわ」と口にする。
この会話、果たして何が言いたいのか、サッパリ分からない。
物語が進む中で「そういうことだったのね」と腑に落ちるようになるのかと思いきや、最後までワケが分からないままなのである。

宝石商がカウンセラーに、「決して手頃な物ではないが、どんな人でもダイヤの永遠の価値を追い求める。それが宝石という物です。そして愛する人をダイヤで飾ることで、逆にその人のはかなさに気付き、限りある命の価値を知るのです。愛する人にダイヤを贈るのは、命のはかなさを知り、永遠に生きてほしいと願うからです」と語るシーンがある。
たぶん、っていうか確実に、コーマック・マッカーシーはそこに深い意味を込めているはずだ。
しかし、こっちからすると「だから何なのか」ってことになっているだけだ。

他にも様々な会話や台詞があるのだが、「それは本当に必要なのか」と思うことが少なくない。
クエンティン・タランティーノのように、無駄話の面白さで見せようとする意識が無いことは間違いないだろう。その無駄に思える言葉の全てに、コーマック・マッカーシーは深い意味を込めているのだろう。
しかし、あまりにも抽象的でボンヤリしており、何が言いたいのかサッパリ伝わって来ないので、結果的には「何だか良く分からないだけの無駄話」に留まっている。
最初は「単にワシの理解力が乏しいだけではないか。頭のいい人なら簡単に理解できるのではないか」とも思ったが、同じような感想を抱いた人が多かったらしい。
まあ、「理解できない奴らがワシも含めてバカなだけで、これは頭のいい人に向けられた映画」とも考えられるんだけどね。
でも、「ものすごく頭のいい人だけに向けられた映画」だとしたら、それはそれで問題があるでしょ。

ライナーやウェストリーが殺されるのはヤバい仕事に手を出したせいだから自業自得だと捉えるにしても、ローラまで惨殺されてスナッフ・フィルムの餌食となるのは、ひたすら可哀想で痛々しい。
その一方、全ての黒幕だったクソ女のマルキナは余裕の笑顔で生き残っている。
そんな不愉快極まりない展開を見せられて、そこから何を感じ取ればいいのかと。
本作品の内容に関連して、コーマック・マッカーシーは「流血の無い生など無い」という考えを語っているようだから、そういうテーマを表現しているんだろう。
でも、それがテーマだとしても、「だから何なのか」と思っちゃうだけなんだよな。

結局、この作品から伝わって来るのは、「メキシコの麻薬カルテルはシャレにならんぐらいヤバいから、麻薬取引なんかに軽々しく手を出したら危険だよ」という、まるでプロパガンダ映画のような説教めいたメッセージぐらいなのだ。
もしも「観客を不愉快な気持ちにさせる」ってことが目的だとしたら、それは充分に達成できていると言えよう。
でも、そんなことは絶対に有り得ないわけでね。
っていうか、それが目的だったとしても、たぶん酷評されるだろうし。

(観賞日:2016年5月27日)

 

*ポンコツ映画愛護協会