『愛と哀しみの果て』:1985、アメリカ

1913年、デンマークに住む資産家の娘カレンは、スウェーデン貴族のブロア・ブリクセン男爵と結婚することになった。2人は、カレンが所有するケニアの農園で暮らすことにした。ナイロビに向かう列車に乗ったカレンは、冒険家のデニス・ハットンと出会った。デニスは友人のバークレー・コールを象牙を渡すようカレンに頼み、立ち去った。
農園に到着したカレンはブロアから、酪農を取り止めてコーヒー栽培を始めるという計画を聞かされる。翌日、カレンが目を覚ますと、ブロアは雨が降るまで戻らないという伝言を召し使いのファラーに言い残し、狩りに出掛けた後だった。
農園に残されたカレンは、コーヒー栽培に取り組み始めた。ある日、草原でライオンに襲われそうになったカレンは、デニスに救われた。物語を作ることが得意なカレンは、創作話を語って聞かせた。デニスはカレンに、物語を書くよう勧めた。
第一次世界大戦のため、ドイツ領との境界線に偵察隊が送られることになり、その一員にブロアが加わった。カレンは缶詰を提供するよう求められ、自ら運ぶことにした。英軍のキャンプでブロアと再会したカレンは、彼が農園をする気が無いことを知った。
梅毒で倒れたカレンはデンマークへ帰国するが、子供の産めない体になってしまった。再びアフリカに戻ったカレンは、キクユ族の子供達のために学校を作ることにした。戦争が終わった後、カレンはデニスに誘われてサファリに同行した。
カレンとデニスは、互いに愛し合っていることを確かめた。カレンは女遊びを続けるブロアを、家から追い出した。やがてデニスは、カレンの家で暮らすようになった。ブロアとの離婚を決めたカレンはデニスとの結婚を考えるが、彼は同調しなかった…。

監督&製作はシドニー・ポラック、原作はアイザック・ディネーセン&ジュディス・サーマン&エロール・トルゼビンスキー、脚本はカート・リュードック、共同製作はテレンス・クレッグ、製作協力はジュディス・サーマン&アンナ・カタルディー、製作総指揮はキム・ヨルゲンセン、撮影はデヴィッド・ワトキン、編集はフレドリック・ステインカンプ&ウィリアム・ステインカンプ&ペムブローク・ヘリング&シェルドン・カーン、美術はスティーヴン・グライムス、衣装はミレーナ・カノネロ、音楽はジョン・バリー。
出演はロバート・レッドフォード、メリル・ストリープ、クラウス・マリア・ブランダウアー、マイケル・キッチン、マリク・ボーウェンズ、マイケル・ガフ、スザンナ・ハミルトン、レイチェル・ケンプソン、グラハム・クロウデン、レスリー・フィリップス、シェーン・リマー、ジョセフ・シアカ、スティーヴン・キンヤンジュイ、マイク・ブガラ、ジョブ・セダ、モハメッド・ウマール、ドナル・マッキャン他。


アイザック・ディネーセンの回想録『アフリカの日々』、ジュディス・サーマンの伝記とエロール・トルゼビンスキーの原作を基にした作品。アカデミー賞で作品賞、監督賞、脚色賞、撮影賞、作曲賞、美術賞、音響賞の7部門を獲得した。
カレンをメリル・ストリープ、デニスをロバート・レッドフォード、ブロアをクラウス・マリア・ブランダウアーが演じている。

この作品がアカデミー賞を独占した1985年には、スティーヴン・スピルバーグ監督の『カラー・パープル』が公開されている。事前予想では、『カラー・パープル』の評判が高かったようだ。
だが、蓋を開けてみれば、この作品が主要部門を独占することになった。

『カラー・パープル』は、どれだけ観客に受ける娯楽映画を作り続けてもアカデミー協会から無視されたスピルバーグが、思いっきりアカデミー賞を狙って作った映画だ。
しかし、どうやらアカデミー協会、意地でも彼にアカデミー賞を渡したくなかったようだ。
で、しょうがないから『愛と哀しみの果て』に賞をあげた、そんな感じなのかもしれない。
まあ、個人的には『カラー・パープル』が絶賛するような名作だとも思わないが、他の候補作品もどうかと思うし、消去法で、これしか無かったのかもしれない。

ハッキリ言って、話は退屈だ。カレンの過剰なモノローグも、冗長な雰囲気に拍車を掛ける。だが、きっと壮大な大河ロマンを印象付けるため、わざと冗長とも思えるような作りにしたのだろう。プロペラ機で空を飛ぶシーンなんて必要なのかと思えなくもないが、美しい映像が無いとどうしようもないのだから、そこは生かさざるを得ないんだろう。
「女の半生を綴りました、それはウンザリするほど良く分かりました、で、だから何なの」という感じ。よほど面白い半生ならともかく、この映画を見る限り、そうでもない。
大まかに言えば、「ステータス欲しさに結婚してアフリカに行き、浮気癖のある夫から梅毒を移され、冒険家と恋に落ちたが結婚は断られました」という話。

カレンは最初から、男爵夫人の肩書きのためだけに結婚している。つまり、そこには愛が無い。でも、2人は愛していると言い合ったり、一方でブロアは浮気、カレンのデニスに惹かれたりする。関係が悪化するようなことを言い合いながらも、セックスしたりする。ワケの分からない関係だが、きっと男女関係の難しさを見せたかったんだろう。
カレンもデニスも表面的には取り繕っているが、一皮剥けば、そんなに魅力は感じないキャラクターだ。カレンは芯が通っているというより、かなり意固地な女性に見える。最初はイヤな女だったのが、次第に変わっていくのを見せたいのかもしれない。ただ、浅はかで高慢な匂いは薄れていくが、魅力的とまでは行かない。

デニスは自由というより、身勝手にしか思えない。「カレンの家で一緒に暮らします、でも縛られたくないから、彼女が望んでいても結婚はしません。家にもほとんど帰りません」というのは、「好きな時だけ会う都合のいい女」を欲しがっているだけに見える。
そもそも、この2人の恋愛が話の軸になっているということに、疑問を感じなくも無い。というのも、前半のカレンの話に、デニスという男がそれほど大きな影響を与えているとも思えないのだ。彼女、デニスに頼らなくても、ほぼ1人でやっていけてる気がする。

アフリカの広大な自然は素晴らしい。映像は美しい。ジョン・バリーのスコアも雰囲気を盛り上げる。音楽も美しい。さあ、これで以上だ。この2つだけだ。この映画が高く評価されるとするならば、そのポイントになるのは、映像と音楽、この2つだけだ。
しかし、そういう考え方は、きっと心が捻じ曲がっているからだ。そんなにダメな作品が、アカデミー賞で7部門も獲得するはずがないのだ。素直な気持ちで観賞すれば、きっとアカデミー賞にふさわしい映画だと思えるはずだ。そうに違いない。

 

*ポンコツ映画愛護協会