『愛と野望のナイル』:1990、アメリカ

1854年。インドの部隊から休暇で南アフリカ沿岸にやって来たジョン・ハニング・スピーク中尉だが、現地は閉鎖されていた。そこで彼は、法律地理学協会の調査で内陸に入るという、リチャード・フランシス・バートンの探検隊を紹介してもらう。
スピークが加わった探検隊は、ナイル川の源流を探して内陸部を進む。だが、ある夜、現地部族にキャンプを襲撃されてしまう。バートンは槍で頬を貫かれ、大怪我を負う。スピークは部族に捕まるが脱出し、バートンと共に、現れた船に救出された。
ロンドンに戻ったバートンは、イザベルという女性と出会い、互いに惹かれ合う。バートンに挑発的な言葉を浴びせた出版社のローレンスは、スピークに接触する。そしてローレンスはスピークに上手く取り入って、冒険記を出版する話を持ち掛ける。
1858年、バートンとスピークは、再びアフリカへと旅立った。2人はシディ・ボンベイという現地の男を雇い、探検隊を編成する。途中、バートンは逃亡した囚人マブルーキをライオンから助けて、仲間に加えた。探検隊は、様々な困難に遭遇しながら旅を続ける。
やがて探検隊はンゴラ王が支配する村へと足を踏み入れ、贈り物を捧げて囚人として迎え入れられる。ンゴラ王の妹レマに気に入られたスピークは、探検に出る許可を得た。ただし、村に戻ってくる保証として、バートンは村に残されることになった。
冒険に出たスピークは、ナイル川の源流らしき場所を発見し、村へ戻ってきた。だが、スピークが村を離れている間にバートンはマブルーキを失い、意気消沈していた。彼はスピークの発見にも疑念を向けるばかりで、興味を示そうとはしなかった。
バートンに先んじてロンドンに戻ったスピークは、地理学協会で発表するよう勧められるが、バートンの帰国を待とうと考えるスピークに、ローレンスは「最初の探検の報告書で、バートンはスピークのことを臆病者呼ばわりしていた」と嘘を吹き込む。スピークはバートンを待たずに探検の成果を発表し、探検家としての地位を固めていく…。

監督はボブ・ラフェルソン、原作はウィリアム・ハリソン、脚本はウィリアム・ハリソン&ボブ・ラフェルソン、製作はダニエル・メルニック、製作協力はクリス・カーリング、製作総指揮はマリオ・カサール&アンドリュー・G・ヴァイナ、
撮影はロジャー・ディーキンス、編集はトム・ノーブル、美術はノーマン・レイノルズ、衣装はジェニー・ビーヴァン&ジョン・ブライト、音楽はマイケル・スモール。
出演はパトリック・バーギン、イェーン・グレン、フィオナ・ショウ、リチャード・E・グラント、ジョン・サヴィデント、ジェームズ・ヴィラーズ、エイドリアン・ローリングス、ピーター・ヴォーン、デルロイ・リンド、バーナード・ヒル、ポール・オンソンゴ、マシュー・マーシュ、リチャード・カルディコット、ドリーン・マントル、クリストファー・フルフォード、ギャリー・クーパー他。


実在した2人の冒険家リチャード・フランシス・バートン&ジョン・ハニング・スピークの冒険を綴ったウィリアム・ハリソンの原作を映画化した作品。バートンをパトリック・バーギン、スピークをイェーン・グレン、イザベラをフィオナ・ショウが演じている。

終盤の展開を考えると、それまでのスピークの存在が薄いと思う。ほとんどバートンが主役でスピークが脇役という状態になっている。完全にフィフティー・フィフティーとまでは行かなくても、ダブルメインという状態にすべきではなかっただろうか。
まず、最初の冒険でのスピークの行動理由が良く分からない。単純に狩猟が目的に見えるが、それだけのために命の心配があるような危険な場所に向かうというのは、ちょっと解せない。だが、それ以外に目的が見当たらない。狩猟目的で行ったとすれば、考えの浅いバカにしか思えない。
まあ、実際にオツムの弱そうな行動は取ってるけど。

ロンドンに戻ったスピークが、両足を冒険で負傷したのがバートンのせいだと言っているのが、これまた解せない。むしろ、ハンティングに出向いたスピークが現地部族に尾行されたという感じがするのだが。どうしてバートンのせいになるのか分からない。
で、2度目の冒険でも、やっぱりスピークの行動理由が良く分からない。ナイル川の源流を探すということに、それほど熱心になっているようには見えない。他に考えられるのはバートンへの思慕ぐらいだが、そんな気持ちは全く見えてこないしなあ。

一方のバートンは、スピークがナイル川の源流らしき場所を発見したと報告した時の、無関心な態度が解せない。いくら仲間を亡くしたからといって、命を危険にさらしてまで探していたはずの場所でしょ。ちょっと反応がおかしくないかねえ。
大体、最初の冒険で、現地部族に多くの仲間が殺されていたはずでしょうが。そいつらの時は再び探検に行く気持ちになれたのに、今回だけはガックリ来るってのは、妙でしょ。いくら精神が疲労していたとしても、スピークを批判するだけってのはなあ。

この作品、全体的に演出がおかしな飾り付けをする。
例えば、バートンが気付かずにライオンに背を向けて襲われそうになり、スピークがライオンを射殺するという場面があるが、やたら音楽が盛り上がる。それは完全に過剰な盛り上げだ。
他には、バートンやスピークが湖を発見して喜ぶという場面。
ここで音楽が入って感動的に盛り上げるというのは、演出としては間違っていない。しかし、その湖の発見が唐突なのよ。貯めて貯めて、ついに発見したという形があってこそ、感動の場面になるはずなのに、いきなり湖に到着してしまうものだから、感動しないのよねえ。

本来ならば、この作品は「アドベンチャー・ロマンをベースに、バートンとスピークの友情の深まりと誤解による対立、そして悲しき和解を描き出す」という形になっているべきだと思う。しかし、まず何よりも、壮大なアドベンチャーが描かれているはずなのに、ちっともワクワクドキドキしないという大きなマイナスポイントがある。
冒険旅行は、順番に困難が描写されていく。しかし、別にスピード感があるわけでもないし、起伏の激しさがあるわけでもない。それなりにトラブルにも遭遇しているはずなのだが、ナレーションによる説明が入る中、淡々としたムードで進んでいってしまう。

そして、そのアドベンチャーの上に乗るべき友情のドラマも、深まるところからして弱い。というか、友情が深まっていくような印象はほとんど無い。で、そんな状態でイザベラとの恋やローレンスの存在などが入ってきて、こちらもやはり平坦になる。
バートンが足を患い、生きるために自分の足を切断するようスピークに頼む場面がある。ここでスピークは切断することが出来ず、バートンを抱いてキスをするのだが、急にホモセクシャルを持ち込まれてもなあ。それまでに、スピークのバートンへの気持ちってほとんど描かれてないし。あと、切断しなくても死ななかったってのも、どうなのよ。

 

*ポンコツ映画愛護協会