『アイ・フランケンシュタイン』:2014、アメリカ&オーストラリア

1795年、ヴィクター・フランケンシュタイン博士は墓場から掘り起こした8つの死体を繋ぎ合わせて、人造人間を誕生させる実験を行った。電流を流すことによって、人造人間は動き出した。しかし怪物を生み出したことに恐怖を抱いたヴィクターは、殺害しようと目論んだ。怪物は縛られた状態で川に投げ込まれるが、死ななかった。復讐心を燃やした怪物は、ヴィクターの妻であるエリザベスを抹殺した。ヴィクターは怪物を追って北極に辿り着くが、そこで凍死した。
怪物はヴィクターの遺体を家族の墓地へ運び、埋葬してやった。そこへ悪魔たちが現れ、怪物に襲い掛かった。怪物は必死に応戦するが、悪魔たちは生け捕りにして連れ去ろうとする。そこへガーゴイルのケザイアーとオフィールが現れ、悪魔を倒した。2人は意識を失っている怪物を捕まえ、女王であるリオノアの聖堂へ連行した。ギデオン司令官は怪物を殺そうとするが、リオノアが制止した。彼女は怪物に、自分たちが大天使ミカエルの下で悪魔と戦っていることを話した。
怪物を襲った悪魔たちは、ナベリアス王子の命令によって動いていた。まだリオノアたちは、ナベリアスの目的を掴んでいなかった。怪物は彼女から悪魔と戦うよう持ち掛けられるが、冷たく拒絶した。リオノアは怪物をアダムと名付け、悪魔と戦うための武器を与えた。聖堂を去ったアダムは、人里離れた山奥で暮らした。悪魔が来ると、彼は返り討ちにした。200年以上が経過し、アダムは悪魔狩りをしようと決めて街へ出た。ナイトクラブで見つけた悪魔を倒すアダムだが、オフィールに連れ去られた。
ナベリアスはチャールズ・ワセックスという実業家に成り済まし、テラ・ウェイドとカール・アヴェリーという科学者を雇って死者を蘇生させる実験を行っていた。マウスの実験に成功する現場を見たナベリアスは、部下のヘレクからガーゴイルの攻撃で犠牲が出たという報告を受けた。ナベリアスはヘレクの失態を叱責し、激しい怒りを示した。ナベリアスはテラに、人体実験へ移るよう要求した。テラが懸念を示すと、ナベリアスはヴィクターによる蘇生実験の証拠を持って来ると約束した。
リオノアは拘束されたアダムの元に現れ、目立ちすぎる軽率な行動を諌めた。ナベリアスは部下のズリエルに、怪物を連れて来るよう命令した。ズリエルは悪魔軍団を率いて聖堂を攻め、ガーゴイルたちも応戦する。オフィールはアダムから「身を守る。武器を渡せ」と要求され、鎖を外した。悪魔軍団が撤退を始めると、ガーゴイルたちが後を追った。だが、それは悪魔軍団の罠だった。聖堂の警護が手薄になったところへ悪魔の別働隊が侵入し、リオノアを連れ去った。
アダムは捕まえた悪魔を脅し、リオノアが取引の材料としてウォルトン劇場に監禁されていることを聞き出した。聖堂に戻ったギデオンはリオノアを救うため、地下に保管されていたヴィクターの日記を持ち出した。劇場に潜んだアダムは、ギデオンが日記とリオノアの交換をズリエルに持ち掛ける様子を観察する。取引を終えたギデオンがリオノアを連れて飛び去った直後、アダムは日記を奪おうと試みる。だが、ズリエルは手下の悪魔が倒されている間に劇場から逃走した。
アダムはズリエルを追い掛け、ナベリアスの実験施設に潜入した。ナベリアスはズリエルから日記を受け取り、それをテラとカールに渡す。アダムは日記を奪うが、ナベリアスの秘書であるデカルたちに包囲される。そこにナベリアスが現れ、実験への協力を要請した。アダムはズリエルが攻撃の機会を窺っていることに気付き、窓を突き破って逃亡した。ナベリアスはテラから説明を求められ、帰って休むよう告げた。ズリエルはアダムが日記の内容を理解できるテラに接触すると確信し、彼女を尾行した。
アダムはテラに接触し、ワセックスが悪魔であること、ガーゴイルと戦っていること、密かに保管している大量の死体を蘇生させようとしていることを話す。そこズリエルが現れ、アダムに襲い掛かった。ズリエルはアダムを追い込み、死体を使って地獄にいる仲間たちを蘇らせる計画を口にした。テラがズリエルに話し掛けて引き付け、アダムは隙を見て攻撃した。ズリエルは消滅し、テラは怪我を負ったアダムを彼の隠れ家まで運んだ。
テラの手当てを受けたアダムは、「リオノアの助けが必要だ。彼女を捜さねば」と口にする。カールから連絡を受けたテラは、「研究を辞めたい」と告げる。テラは研究資料を持ってきてほしいと頼み、カールと駅で会うことにした。しかしテラが駅に行くとデカルたちが待ち受けており、彼女は実験施設へ連行された。一方、アダムは聖堂を訪れてリオノアと会い、ナベリアスの計画を教えた。アダムは提案された共闘を拒否し、日記を渡すからテラと自分を逃がしてほしいと持ち掛けた。
リオノアはアダムの要求を受け入れ、彼とテラを逃がすことを約束した。しかし彼女はギデオンに、「アダムを尾行し、日記を見つけたら始末しなさい」と命じた。隠れ家に戻ったアダムはギデオンの襲撃を受けるが、返り討ちにした。アダムは駅へ行き、テラが拉致されたことを悟った。ナベリアスはテラに協力を拒まれるとカールを殺害し、「助けたかったら蘇生させろ」と要求した。アダムは日記を読んで燃やすと、聖堂の前に現れた。彼はガーゴイルたちに自分を追跡させ、ナベリアスの実験施設へ誘い込んで悪魔軍団と戦わせる…。

監督はスチュアート・ビーティー、原作はケヴィン・グレイヴォー、映画原案はケヴィン・グレイヴォー&スチュアート・ビーティー、脚本はスチュアート・ビーティー、製作はトム・ローゼンバーグ&ゲイリー・ルチェッシ&リチャード・ライト&アンドリュー・メイソン&シドニー・キンメル、製作総指揮はトロイ・ラム&エリック・リード&デヴィッド・カーン&ジェームズ・マクウェイド&ブルース・トール&ジム・タウバー&マット・ベレンソン&ケヴィン・グレイヴォー、製作協力はアン・ブラニング、撮影はロス・エメリー、美術はミシェル・マクガヒー、編集はマーカス・ダーシー、衣装はカッピ・アイルランド、視覚効果監修はジェームズ・マクウェイド、音楽はジョニー・クリメック&ラインホルト・ハイル。
主演はアーロン・エッカート、ビル・ナイ、イヴォンヌ・ストラホフスキー、ミランダ・オットー、ジェイ・コートニー、ソクラティス・オットー、ケヴィン・グレイヴォー、ケイトリン・ステイシー、マヘーシュ・ジャドゥー、エイデン・ヤング、スティーヴ・モウザキス、ニコラス・ベル、デニズ・アクデニズ、クリストファー・パン、ブルース・スペンス、ヴィルジニー・ル・ブラン、ペニー・ヒッグス、ゴラン・クラウト、ヤスカ・シニガグリア、ニコール・ダウンズ他。


ケヴィン・グレイヴォーによる同名グラフィック・ノベルを基にした作品。
監督&脚本は『トゥモロー 僕たちの国が侵略されたら』のスチュアート・ビーティー。
アダムをアーロン・エッカート、ナベリアスをビル・ナイ、テラをイヴォンヌ・ストラホフスキー、リオノアをミランダ・オットー、ギデオンをジェイ・コートニー、ズリエルをソクラティス・オットー、デカルをケヴィン・グレイヴォー、カザイアーをケイトリン・ステイシー、オフィールをマヘーシュ・ジャドゥーが演じている。
製作のレイクショア・エンターテインメントは、『アンダーワールド』シリーズ(ケヴィン・グレイヴォーが脚本を担当)も手掛けた映画会社だ。

最初に思ったのは、「フランケンシュタインの怪物を主人公にしている意味があるのかな?」ってことだ。
フランケンシュタインの怪物は、メアリー・シェリーの怪奇小説『フランケンシュタイン』に登場するキャラクターだ。
しかし、これは『フランケンシュタイン』の物語を使っているわけではない。冒頭でヴィクターとエリザベスは登場するが、あくまでも「怪物を登場させるための駒」に過ぎない。
つまり小説の物語を使わないだけでなく、登場人物としても怪物以外は全く意味が無い。

メアリー・シェリーの小説から離れても、例えば「古典怪奇映画のモンスターを勢揃いさせる」という企画なら、フランケンシュタインの怪物を使うのは理解できる。しかし、そういう企画ではない。
「フランケンシュタインの怪物」の個性を活用する内容であれば、まるで原作小説と無関係な内容でも理解できなくはない。しかし、この映画の主人公は、「フランケンシュタインの怪物」の広く知られているイメージとはズレがある。
何より、ちっとも怪物っぽくない。動きはギクシャクしていないし、巨漢じゃないし、顔も普通にイケている。
小説の内容と関係性が薄いし、キャラクターとしても一般的なイメージとは違うモノにしているのなら、もはや「フランケンシュタインの怪物」が主人公である意味は何なのかと思ってしまうのだ。

結局のところ、これは「天使と悪魔」のバトルという『アンダーワールド』に似たような世界観の中に、フランケンシュタインの怪物を無造作に放り込んでいるだけなのだ。
「単に天使と悪魔の戦いという構図だけでは弱いから、フランケンシュタインの怪物という有名なキャラクターの力を借りよう」というだけなのだ。
とは言え、有名なキャラを物語の訴求力として利用するのは、決して悪いことではない。
ただし、この映画の場合、そこを上手く機能させているとは言い難いのよ。

もう1つの問題として、「そもそも話が面白くない」「っていうかチョー適当すぎる」ってことが挙げられる。
荒唐無稽な世界観を用意するのなら、「観客には馴染みの無い世界」なんだから、キッチリとしたディティールを組み立てて、「荒唐無稽のリアリティー」とも言うべき説得力を生み出す必要がある。
デタラメで構わないから、キャラクターや世界観には厚みと深みのある設定を用意しておくべきなのだ。不可思議な現象を起こすなら、これまたデタラメでいいから、「何がどうなってそうなるのか」という論理的な説明を用意すべきなのだ。
それが出来ない作品は、観客を引き付ける力が弱くなる。
この映画は、そこの作業をサボっている。

「天使と悪魔のバトル」と前述したが、厳密には「ガーゴイルと悪魔のバトル」だ。この映画の世界観では、ガーゴイルが天使という設定になっているのだ。
その時点で、拒否反応が否めないわ。なんでガーゴイルが天使なのよ。むしろ悪魔サイドの方が、まだ腑に落ちるわ。
そりゃあ「ガーゴイルが天使」という奇抜な設定で新鮮味や面白味を出そうとしているんだろうけど、「新鮮味」よりも「違和感」の方が圧倒的に強い。
ただし、それより問題なのは、「ガーゴイルが天使」というのが出オチのようなモノになっており、その設定が物語の魅力に全く繋がっていないってことだ。
ガーゴイルが天使であることに何の意味があるのか、普通に描く「天使vs悪魔」と比べて生じる面白味は何なのかと考えた時に、その答えが何も見えないのである。

アダムは悪魔との戦いに協力するようリオノアから要請され、冷たく断る。それなのに、リオノアは彼に武器を与える。
アダムの方も、共闘するのは断ったくせに、武器の受け取りは拒まない。
彼は武器の選択権を自由に与えられるのだが、選んだのは2本の棒。たぶんカリ・スティックを意識した武器なんだろうと思うけど、「フランケンシュタインの怪物」に合っている武器とは思えない。実際、それを使って戦う様子は、「ただの戦士」にしか見えない。
なんで徹底して怪物らしさを排除しようとするのか、意味が分からんよ。

ズリエルとの一騎打ちでは、相手もカリ・スティックのような武器を使う。どちらも同じ武器を使い、どちらも同じようにスピーディーな動きで戦う。
フランケンシュタインの怪物なんだから、重厚さを意識したアクションをやるのかと思いきや、スピーディーで軽快に戦う。
ぶっちゃけ、劇中で何度か言及してくれなければ、アダムがフランケンシュタインの怪物であることを忘れそうになる。
もはや「どういう類の怪物なのか」っていうこと以前に、「ちょっと鍛えた普通の人間」にしか見えないのよ。

アダムはガーゴイルの城を出た後、人里離れた場所に暮らす。そこへ悪魔が来ると、返り討ちに遭わせる。
そこまでは分かるのだが、なぜ200年以上も経過してから「こっちから攻撃してやる」と決めて街へ出るのか。
「どこまで逃げても悪魔は見つけ出す」ってのは、もっと早い段階で気付くはずでしょ。だったら、「それでも逃げ続けるのか、それとも先制攻撃に転じるのか」という決断も、もっと早く下せるはずでしょ。
その決断に200年以上も掛かるって、どんだけボンクラなんだよ。

悪魔軍団は怪物を捕まえるために聖堂を攻撃し、ガーゴイル軍団は応戦する。そんな戦いが、まだ始まってから30分も経過しない内に到来する。ナベリアスが参加していないものの、ほぼ全面戦争と言ってもいいようなシーンなのに、それが早い段階で配置されているわけだ。
ってことは、それを超える派手で大規模な戦闘が後半に用意されていなければ、計算が合わない。
ところが、そんなアクションシーンは用意されていない。つまり、計算が合わないのだ。
しかも、主要キャラのように登場したケザイアーとオフィールが、その戦闘であっさりと退場してしまう。
キャラの出し入れに関しても、どういうセンスなのかと言いたくなる。

悪魔軍団がガーゴイルの聖堂を襲った目的は、アダムを連れ去ることだ。しかし彼らは巧みな罠でガーゴイルたちを城から引き離した後、アダムではなくリオノアを連れ去っている。
だけど、幾ら何でもリオノアが独りだけポツンといるってのは有り得ないだろ。普通は護衛が近くにいるはずだろ。
「アダムを守ることに集中していた」ってのも理由にならない。なぜなら、アダムは勝手に戦っており、ガーゴイルが彼を守りながら戦っている気配は無いからだ。
あとさ、あっさりと拉致された上に取引の材料にされるって、それでもリオノアって女王なのかよ。女王にしては、あまりにも扱いが軽くねえか。

悪魔軍団がガーゴイルの聖堂を攻撃すると、あっさりとリオノアを連れ去ることに成功している。しかも、それは悪魔軍団が全員で攻撃した結果ではない。
ってことは、本気になったらガーゴイルなんて簡単に片付けてしまえるんじゃないかと思うのよ。
だったら、邪魔な連中なんだから、さっさと始末すればいいんじゃないのかと。
あとさ、「アダムの生け捕り」という目的にしても、リオノアを監禁して「返してほしければアダムを捕まえて来い」と要求すれば良かったんじゃないのかと。

ただし、一方の悪魔軍団にしても、そんなに強そうには見えないのよね。武器の一撃を浴びただけで、あっさりと消滅しちゃうんだから。
しかも「一撃で死ぬ」という設定にしているせいで、バトルシーンでは「なかなかアダムが攻撃をヒットさせられない」という状態に陥っているのよ。なんせヒットした時点で終わっちゃうからね。
そのせいで、アダムの強さをアピールすることも難しくなっている。
あと、ラスボスであるナベリアスにしても、ちっとも強そうに見えないし。そもそも王子なのにビル・ナイって。
見た目が強そうじゃないなら、特殊能力で圧倒的なトコを示すべきだろうに、そっちも冴えないし。

ナベリアスがアダムを生け捕りにしようとするのは、蘇生実験に必要な素材だからだ。
しかしヴィクターの日記があれば、蘇生実験を次のステップへ進めることは出来る。それはアダムと同じ意味を持つ道具だ。
つまり裏を返せば、日記さえ手に入れればアダムは要らないってことになるのだ。
そうなると、長年に渡ってアダムを生け捕りにしようとしてきたのが阿呆にしか思えない。それよりも日記を入手しようとする方が、どう考えたって楽なはずでしょ。

アダムは劇場に潜み、リオノアと日記を交換する現場を観察する。
だったらギデオンが日記を置いた時点で奪おうとすればいいんじゃないかと思うが、なぜか彼が取引を終えて飛び去るのを律儀に待っている。
っていうか、そもそもアダムが日記を手に入れようとする理由が良く分からない。
仲間を復活させようとするナベリアスにとっては有益な道具だけど、アダムにとって日記が何の役に経つのかサッパリ分からないのよ。「悪魔の野望を阻止する」という目的意識は無いわけだし。

前半はギデオンの忠告を聞かずにアダムを保護したり手を組もうと提案したりしていたリオノアだが、後半に入ると始末するよう命じる。
その急激な考え方の変化は、どういうことなのかと言いたくなる。
本人なりの理屈はあるんだろうけど、それが納得できる形で伝わって来ないから、ただ単に「その場その場でコロコロと考えが変わるテキトーなキャラクター」にしか思えない。
まあ、そういうことを言い出すと、テキトーじゃないキャラクターなんて劇中に存在しないけど。

アダムはテラを守りたいと思うようになり、2人の間にはロマンスも生まれている。その辺りは、ベタだけど間違っちゃいないストーリーテリングと言える。
しかし、アダムがそういう気持ちになるドラマが充分に描かれているのかというと、答えはノーだ。
「人間なんて、どうなっても知るかよ」という考えだったアダムが、なぜ人間のために戦う気持ちになったのか。なぜ彼は、テラを守りたいと思うようになったのか。
そこを納得させるための、心の変遷が全く伝わらない。
テラがアダムに惚れるのも、これまたサッパリ分からんし。

『アイ・フランケンシュタイン』というタイトルには、違和感を覚えた。
これは日本の配給会社が勝手に付けたタイトルではなく、原題も原題も『I, Frankenstein』だ。
しかし主人公はフランケンシュタイン博士に作られた怪物であり、フランケンシュタインという名前ではない。
ただ、最後まで見ると、タイトルの意味は理解できた。アダムは最終的に、「自分はヴィクターにを産み出された存在だから、父親と同じフランケンシュタインを名乗る」ってことを決める。だからタイトルは、内容と合致しているとは言える。

ただし、それで全てが腑に落ちるのかというと、それは違う。まだ大きな問題が残されている。
それは、「戦いの中でアダムがヴィクターの気持ちを知り、彼を父親として認識するようになる」というドラマが弱すぎるってことだ。
弱すぎるっていうか、何も無いのよ。日記を読むシーンはあるけど、それによってアダムが何を感じたのかは全く分からないし。
あと、「最初は魂の無い存在だったが、最後は魂のある存在になっているので悪魔が入り込むことは出来ない」ということになっているけど、いつの間に、どういう理屈で魂が芽生えたかもイマイチ分からんし。

(観賞日:2016年3月8日)

 

*ポンコツ映画愛護協会