『エクソダス:神と王』:2014、アメリカ&イギリス&スペイン

紀元前1300年。ファラオの王宮であるメンフィス。ヒッタイト軍が野営しているという情報を得たセティ王は、「先制攻撃を仕掛けたら勝つか?」と巫女に尋ねた。巫女は鳥の腸を使って女神セクメトの神託を受け、「別の答えが出ました。戦で指導者が救われ、救った者が、やがて民を率いる」と述べた。将軍のモーゼは馬鹿にした態度を取るが、セティは巫女を信頼していた。モーゼはセティの息子で兄弟のように育ったラムセスに、「お前がファラオになったら、あの巫女を辞めさせろ」と告げた。ラムセスは「当然だ」と承諾し、「戦で俺に危険が迫っても助けるなよ」と述べた。
セティは2人に剣を渡すと、「兄弟の絆を忘れず、互いに助け合え」と指示した。ラムセスは軍を率いて戦地へ赴き、勇ましく戦う。だが、戦車の車輪が壊れて投げ出され、危機に陥った。それに気付いたモーゼは彼を救い、兵士たちに「ラムセスを守れ」と命じた。敵軍を倒してメンフィスへ戻ったモーゼは、民衆の喝采を浴びる。セティの元へ赴いたモーゼは、ラムセスを救ったことに関して「巫女の言葉など信じません」と言う。セティは「私は信じる」と口にするが、モーゼは「あんな予言は無意味です」と述べた。セティはモーゼに王位継承権が無いことに触れた上で、「だが、お前は息子より優れている。民を率いる力がある」と語った。
書記官が今回の戦いについて「神々の力だけで敵を打ち倒した」と記した時、それをラムセスは修正しなかった。ピトムの地で奴隷たちに不穏な動きがあるという情報が入ったため、セティはラムセスに「ヘゲップ総督を訪ねて報告しろ」と命じる。ラムセスが不満を持っていることを悟ったモーゼは、代役を引き受けた。ピトムを訪れたモーゼは、多くの奴隷が扱き使われている中でヘゲップだけが豪邸で裕福に暮らしている様子を目にした。
ヘゲップはモーゼに、ヘブライ人の増加を懸念していることを明かす。彼が「増えれば生産力は上がりますが、過剰は良くない。謀反を企てたら危険です。兵力増強か、奴隷を間引くしかないでしょう」と話すと、モーゼは「根拠も無く殺せば、最悪の事態が起きる」と反対する。モーゼはヘブライ人を理解するために話し合う必要性を説くが、ヘゲップは鼻で笑う。モーゼは作業現場へ出向き、奴隷のヨシュアが鞭打たれている様子を目撃した。監督官に事情を尋ねると、「問題ばかり起こす常習犯です」という答えだった。
ヘブライ人の長老であるヌンと面会したモーゼは、彼らの望みがカナンへの帰還だと聞かされる。「あそこにはエジプト軍より残忍な部族が住んでいる。戻れば命は無いぞ」とモーゼが言うと、ヌンは「神の言葉と違う」と告げる。「お前たちを選ばれし神と言った神か?神は間違ってる」とモーゼは述べ、ヌンたちの考えを全面的に否定した。モーゼの名前と母の名を知ったヌンは、自分の家で改めて会うことを要望した。モーゼが訪問すると、ヌンは「貴方がビトムへ来たのは、偶然ではない」と告げた。
ヌンはモーゼに「貴方は奴隷の息子だ」と言い、「貴方が産まれた年、預言があった。我々を自由の身にする指導者が産まれると。王はヘブライ人の男児を皆殺しにしろと命じた」と話す。そしてモーゼが川に流されたこと、先代の王の娘であるビティアが見つけたこと、姉のミリアムを子守に雇って息子として育てたことを話した。その話を盗み聞きしていた奴隷2名は、ヘゲップに密告した。報酬が目当てだったが、ヘゲップは「褒美として、お前らを殺さずにいてやろう」と告げて追い払った。
モーゼがメンフィスに戻るとセティは病に臥せており、間もなく息を引き取った。王位を継承したラムセスの元にヘゲップが現れ、モーゼがヘブライ人だという情報を知らせる。ラムセスから証言を求められたモーゼは、「信じるな」と告げる。呼び出されたビティアも「嘘を信じるのですか」と憤慨するが、ラムセスはミリアムを尋問する。ミリアムはモーゼの姉であることも、ヘブライ人であることも否定する。するとラムセスは、彼女の右腕を切断しようとした。モーゼは止めに入り、ミリアムの弟でヘブライ人であることを認めた。
トゥーヤ王妃はモーゼを反逆罪で殺すようラムセスに要求し、「認めたのよ」と言う。するとラムセスは「認めたのではない。腕を切断させないためだ。あの目は噂など信じていない。俺も信じたくない」と告げ、追放処分に留めた。モーゼはビティアとミリアムから、ヌンの話が真実であることを聞かされる。ミリアムは川に流す時にモーゼが付けていた腕輪を差し出し、「ヘブライの印だから外した。私たちと実母を結ぶ物」と告げた。
過酷な旅を続けたモーゼは、途中で馬を失った。砂漠で襲って来た刺客2人を始末したモーゼは、彼らの馬を奪って旅を続けた。紅海を渡ったモーゼは、羊飼いの娘であるツィポラたちと出会った。そこへ男の一団が現れ、ツィポラたちを扱き使おうとする。モーゼが剣を見せて追い払うと、ツィポラは感謝して村へ招待した。ツィポラの父であるジェスロと話したモーゼは、しばらく滞在してから旅立とうと考える。しかしモーゼはツィポラと結婚し、羊飼いとして村で暮らし始めた。
9年後、ラムセスは新しい王宮の建設計画を急がせ、現場監督に脅しを掛けた。一方、モーゼはゲルショムという息子に恵まれ、平穏な日々を送っていた。しかし神を信じるツィポラとの間で、子育てに関する意見は異なっていた。嵐の日、入ることが禁じられている神の山に、モーゼは逃げた羊を追って足を踏み入れる。崖崩れに巻き込まれたモーゼが泥に埋もれる中、マラクという少年が現れた。マラクは「戦うために将軍が必要だ。神が安心するよう、同胞に何が起きているか見に行け」と述べ、姿を消した。
家に戻ったモーゼから話を聞いたツィポラは、頭を打ったせいで幻覚を見たのだと告げる。「神は少年じゃない」とツィポラは言うが、モーゼは村を出てピトムへ向かう。モーゼはヌンの元へ行き、兄のアロンを紹介された。彼はメンフィスへ潜入し、ラムセスに剣を突き付けた。彼が刺客を差し向けたことを指摘すると、ラムセスは「母の仕業だ。お前を守るため、荷物に剣を入れた」と釈明した。モーゼは「王位を奪いに戻ったのではない。巫女の予言は忘れろ。奴隷の状況は以前より悪化している」と語り、奴隷の解放を要求した。「経済的な面から見ても、大きな損失を生む。時間が掛かる」とラムセスが言うと、モーゼは剣を収めて立ち去った。
翌日、ラムセスは側近を集め、モーゼと家族の殺害を命じた。ラムセスはヘブライ人の家族を捕まえ、モーゼの居場所を教えなかったという理由で処刑した。彼はヘブライ人たちに、「明日、ここで同じ時間に別の家族が身代わりで殺される。明後日は、また別の家族が」と告げた。ヘブライ人たちはモーゼの下に集結し、武器を作って戦闘訓練を開始した。その後もヘブライ人の家族が次々と処刑される中で、モーゼたちは訓練に明け暮れた。
モーゼは補給路を断ってエジプト人からラムセスに圧力を掛けさせ、要求を飲ませようと考える。船団を襲われたラムセスは、報復としてピトムの街に火を放った。マラクはモーゼの前に現れ、「この調子では一世代は掛かるな」と告げる。モーゼが「そのつもりだ」と言うと、マラクは「私は断る」と告げる。「なぜ俺を家族から引き離した」とモーゼが批判すると、彼は「お前が勝手に来た」と言う。「俺に用は無いのか」というモーゼの言葉に、マラクは「今の所は。お前は何もするな」と告げた。
ナイル川には大量のワニが発生して人間を食い荒らし、水が赤く染まった。続いて大量の蛙が出現して王宮にも入り込み、ブヨとアブも大量発生する。皮膚病が流行する中、モーゼは王宮へ白馬を差し向ける。その白馬には「これらの災いは神の御業。ますます酷くなる。互いのために合意すべきだ」というメッセージが記されていたが、ラムセスは拒絶した。彼は奴隷の仕事量を倍に増やし、煉瓦の材料となる藁さえ用意しなかった。
モーゼは神に対し、「初めは感動したが、その気持ちは消えた。誰のための罰だ?」と呼び掛ける。疫病によって家畜が次々に死亡する中、ラムセスは何の手も打てない大宰相や巫女たちを処刑した。次の災いでは雹が降り注ぎ、さらにイナゴの大群が出現して穀物を食い荒らした。飢えた民が貯蔵庫の作物を盗み出そうとすると、ラムセスは兵隊を使って惨殺した。モーゼはマラクが姿を現したので、「もうすぐ民が反旗を翻す」と告げる。しかしマラクは「そうは思わない。最悪の災いが必要だ。ラムセスの軍がある限り、何も変わらない」と言い、第十の災いについて話す…。

監督はリドリー・スコット、脚本はアダム・クーパー&ビル・コラージュ&ジェフリー・ケイン&スティーヴン・ザイリアン、製作はピーター・チャーニン&リドリー・スコット&ジェンノ・トッピング&マイケル・シェイファー&マーク・ハッファム、共同製作はアダム・ソムナー、製作協力はテレサ・ケリー、撮影はダリウス・ウォルスキー、美術はアーサー・マックス、編集はビリー・リッチ、衣装はジャンティー・イェーツ、VFXスーパーバイザーはピーター・チャン、音楽はアルベルト・イグレシアス。
出演はクリスチャン・ベイル、ジョエル・エドガートン、ジョン・タートゥーロ、ベン・キングズレー、シガーニー・ウィーヴァー、アーロン・ポール、ベン・メンデルソーン、マリア・バルベルデ、アイザック・アンドリュース、ヒアム・アッバス、インディラ・ヴァルマ、ユエン・ブレムナー、ゴルシフテ・ファラハニ、ガッサン・マスード、タラ・フィッツジェラルド、ダール・サリム、アンドリュー・ターベット、ケン・ボーンズ、フィリップ・アルディッティー、ハル・ヒューエットソン、クリストファー・シューレフ、エムン・エリオット、アントン・アレクサンダー他。


旧約聖書の出エジプト記をモチーフにした作品。
実質的には『十戒』のリメイクのような内容に仕上がっている。
監督は『プロメテウス』『悪の法則』のリドリー・スコット。脚本は『トラブル・カレッジ/大学をつくろう!』のアダム・クーパー&ビル・コラージュ、『ナイロビの蜂』のジェフリー・ケイン、『ドラゴン・タトゥーの女』のスティーヴン・ザイリアンによる共同。
モーゼをクリスチャン・ベイル、ラムセスをジョエル・エドガートン、セティをジョン・タートゥーロ、ヌンをベン・キングズレー、トゥーヤをシガーニー・ウィーヴァー、ヨシュアをアーロン・ポール、ヘゲップをベン・メンデルソーン、ツィポラをマリア・バルベルデ、マラクをアイザック・アンドリュース、ビティアをヒアム・アッバス、巫女をインディラ・ヴァルマが演じている。

冒頭、「400年もの間、ヘブライ人はエジプトで奴隷として扱われた。エジプトの栄光である彫像や街を建設した。ヘブライ人は祖国のことも、自分たちの神のことも忘れなかった。そして神も彼らのことを忘れなかった」という文字が出る。
で、忘れなかったから神か彼らを救うために力を使うってことなんだけど、「そもそも400年も放置していただろうに」と言いたくなるわ。
ホントにヘブライ人を救ってやりたいと思ったのなら、もっと早く何とかしてやれよ。

ラムセスは巫女の預言があった後、モーゼに「戦で俺を助けるな」と要求している。そして戦で救われると、露骨に不快感を示している。王位を継承した後、ヘゲップから情報を得ると、何の迷いも無くモーゼを追放している。
「モーゼが民を率いることになったらマズい」という思いが頭をよぎったとしても理解できるけど、幼い頃から兄弟のように仲良く育って来た間柄なんでしょ。それにしては、もう最初から「表面的には仲良くしているけど、実際はモーゼを排除したい」という気持ちがハッキリと見えるのよね。
そうなると、「義兄弟」という設定との間に乖離を感じてしまうのよ。「優秀なモーゼへの劣等感があった」とか、「セティのモーゼに対する愛への嫉妬があった」とか、そういう描写でもあれば納得するための助けになっただろうけど、そういうのは用意されていないし。
一応は「反逆罪として殺すことは回避し、追放だけに留める」ってトコで義兄弟への温情を示す形になっているけど、その前に「ミリアムの腕をモーゼの前で切り落とそうとする」という残虐さを見せているし、そもそもクソ野郎であるヘゲップからの情報だけでモーゼを追放しているわけで。だから「殺さずに追放した」ってだけでは、焼け石に水だよ。
むしろ、中途半端にラムセスの人情味をアピールしたせいで、話の作り自体も中途半端になっている。

ヌンはモーゼに「貴方は奴隷の息子だ」と言い、「我々を自由の身にする指導者が産まれるという預言があり、ファラオはヘブライ人の男児を皆殺しにしろと命じた。モーゼは川に流され、先代の王の娘であるビティアが見つけたこと、姉のミリアムを子守に雇って息子として育てた」と説明する。
しかし、そこには何の証拠も無いのだ。
そもそもヌン自らが、「ビティアはモーゼのことを考え、誰にも真実を話さなかった」と語っている。だったら、なぜヌンはそんな情報を知っているのか。出所はどこなのかと。
あと、ヌンは「姉のミリアムを子守に雇って」と話しているが、どういう経緯でビティアがミリアムを知ったのか、それはサッパリ分からないんだよね。

2人の奴隷はヌンとモーゼの会話を盗み聞きして、「モーゼは奴隷の息子」という情報をヘゲップに知らせる。
でも、モーゼはヘブライ人の指導者として産まれた人物であり、そこから彼は「ヘブライ人を解放するために」ってことで尽力するようになるのだ。そして本作品では、ヘブライ人を全面的に「救われるべき被害者」「哀れな善玉」として描いている。
それなら、そこで醜悪なヘブライ人を登場させるってのは、望ましくないでしょ。
もっと徹底的に、「ヘブライ人は善人ばかり」という形にしておかないと。

モーゼはミリアムが尋問で腕を切断されそうになると、「ヘブライ人だ」と認める。
それは「召使いのミリアムを救うため」ってことであり、ラムセスが言うように、決して噂を認めたわけではない。そして追放処分を受けた後、ビティアとミリアムから話を聞いて、ヌンの説明が真実だと知る。
だけど、そういう順番にしている意味があるのかなあと。
あまり効果が感じられないので、もうミリアムを救う時点で「ヌンの話は真実」と知る証拠をモーゼが得ている形にしても良かったんじゃないかなと。
そうすれば、メンフィスを去るモーゼがビティア&ミリアムと話す手順は省けるし。

ラムセスがミリアムを尋問する際、そこにはトゥーヤが同席している。
こいつが冷徹非道なクズ女としての存在をアピールするんだけど、最初は「お前は誰だよ」と言いたくなった。
どうやら王位継承シーンでは同席していたようだが、序盤では全く姿を見せていなかったので、ピンと来ないのよ。
トゥーヤを「ただの母親」という立場に終わらせず、「ラムセスを焚き付ける恐い母親」として使うのであれば、登場シーンは粒立てた方がいいでしょ。

羊飼いの村に招待されたモーゼは、その段階では「すぐに旅立とう」と考えている。しかしシーンが切り替わると、もうツィポラと結婚式を挙げている。
いつの間に恋愛感情を抱いたのか、いつの間に考えが変わったのか、それは全く分からない。
もちろん、それ以降の展開を考えた時、「村で過ごす内にツィポラへの恋心が芽生え、彼女と結婚して留まることにした」という変化の経緯を丁寧に描いている余裕なんて無いってのは分からなくもない。ただ、それにしても雑な処理だなあと。
いっそのこと、モーゼに旅立つ意志を語らせたトコで9年後へ飛び、「ツィポラと結婚して村に留まっている」ってのを見せた方が良かったんじゃないかと。

モーゼはマラクが現れて話を聞かされた途端、彼が神の化身であることを全面的に信じる。
それまで神なんて全く信じておらず、信仰心の強いツィポラの考え方も否定していたのに、そこで急に変化しちゃうのだ。
ツィポラが「幻覚だった」と言っても全く認めず、「神の化身を見たから信じる」という形になっているけど、それを受け入れるのは難しいなあ。
そこまでに伏線が張ってあり、それを回収する形で「だからモーゼはマラクの存在も言葉も全て信じる」という形なら腑に落ちただろうけど、そうじゃないので強引さが目立つ。

モーゼはヌンやアロンたちと会った後、すぐにラムセスの元へ赴く。神はマラクの姿を借りて「同胞の様子を見に行け」と指示しただけなのに、もう奴隷の解放を要求している。
迅速な行動と言えなくも無いが、それで実際に奴隷が解放されることが絶対に無いのは分かり切っているはずでしょ。
むしろ、そんな脅しを掛ければ、自分だけでなくヘブライ人の立場が一層悪くなることは目に見えているわけで。実際、ラムセスはモーゼに脅されて「こっちから仕掛けなきゃマズい」と考え、次々にヘブライ人を殺しているわけで。
なのでモーゼの行動は、ただ愚かしいだけなのだ。

せめてモーゼが「ヘマをやらかした。自分のせいで同胞が犠牲になった」ってことで反省したり、罪悪感を抱いたりすれば、まだ何とかなったかもしれない。
しかしモーゼは、何の罪悪感も抱かない。自分の身代わりでヘブライ人が次々に処刑されても、「同胞を救うために名乗り出るべきでは」と苦悩することも無い。
また、前半にはモーゼの情報を密告するヘブライ人がいたが、今回は「モーゼの居場所を知らせよう」と考える者が誰一人として現れず、「戦おう」という気持ちで一致団結する。
まあ都合のいいことで。

モーゼは同胞の家族が次々に処刑されても、「もしも自分の妻や息子だったら」と想像することは無いまま戦闘訓練を指揮する。
そりゃあ素人がエジプト軍と戦っても勝ち目は無いので、訓練を積むことは必要だろう。ただ、「だったらラムセスを脅す前に戦う準備を整えておくべきだろうに」と言いたくなるのよ。
ラムセスを脅して、向こうが処刑を開始してから慌てて戦闘準備を始めるってのは、ものすごく愚かしいでしょ。
それって、「自分と家族がヤバい立場になったから同胞を戦わせようとする」という見方も出来るし。

で、戦闘訓練を積ませたモーゼは、「補給路を断ち、疲弊したエジプト人からラムセスに圧力を掛けさせる」という作戦を提案する。
正面からエジプト軍と戦っても勝てないから、そういう方法を考えたのかもしれない。
しかし、その作戦だと、ラムセスが要求を飲むまでに随分と時間が掛かることは明白だ。つまり、それだけ処刑されるヘブライ人の家族は多くなるわけで。
大人の男だけでなく、女子供も犠牲になっているので、そういうトコで「揺るぎない意志」を示されても共感できんよ。

モーゼは街に火を放たれて多くの犠牲が出ても「消耗戦は時間が掛かる」と平気な顔で言うけど、むしろ苦悩しろと言いたくなる。マラクが「この調子では一世代は掛かるな」と呆れるのも理解できる。
ただし、神は神でモーゼに批判されるように、400年もヘブライ人を奴隷にしたまま放置していたわけで、「どの口が言うのか」って話だわな。
それに対してマラクは「何もせずにいたのは私だけか」と言うが、モーゼは最近まで自分の出生を知らなかったわけで。
あと、他のヘブライ人の責任を言っているのなら、「だったら蜂起するよう促して力を貸してやれば良かっただろ」って話だし。

モーゼが「なぜ俺を家族から引き離した」と怒鳴ると、マラクは「お前が勝手に来た」と言う。
いやいや、違うだろ。同胞の様子を見に行くよう指示したのはテメエだぞ。そんで将軍になるよう言ったのもテメエだぞ。
そのくせ、モーゼの作戦に時間が掛かると感じた途端、「お前は何もするな」と言い出す。
なんちゅう勝手な奴だよ。
そんで神は自らエジプト人への攻撃を開始するのだが、だったら最初からテメエでやれよ。なんでモーゼに任せようとしたんだよ。

で、神が動いて「十の災い」のターンへと突入するのだが、すんげえ残酷なのよね。
もはや神の奇跡じゃなくて、完全に悪魔の所業だよ。どう考えても、ヘブライ人を奴隷として扱き使っていた支配階級だけじゃなくて、罪深くない面々まで犠牲になっているし。
第十の災いに至っては、エジプト人家庭の長子を次々に殺していくんだぜ。なんで幼い子供が犠牲にならなきゃいかんのかと。
それは『出エジプト記』に記された内容を描いているだけなんだけどさ、ちっともヘブライ人のサイドを善玉として見られんよ。

この映画では、十の災いを「神が起こした」と明確な形で示すのではなく、自然現象として描こうとしているようだ。
だから、例えば第一の災いは、「大量の泥が川へ流れ込み、それをワニが蹴散らして色が変わった。水が汚染されて魚が大量に死んだ」という説明が用意してある。
「その程度で川が全て赤く染まるのは無理があるだろ」とは思うけど、一応は「ホントに神の仕業かどうかは分からないよ」という形にしたかったようだ。
そういう形にすることで得られるメリットは、ボンクラなワシにはサッパリ分からないけどね。

しかも、どんなに強引な手を使ってでも「全ては自然現象で説明できる」という形を取るのかと思いきや、そうじゃないんだよね。他の災いについても「蛙は川が汚染されたから逃げ出した。でも水が無いから死んで腐敗した。そこでブヨとアブが大量発生した」という風に、関連付けて説明している。
でもね、エジプト人家庭の長子が次々に命を落とす第十の災いに関しては、何の説明も付かないでしょ。
そこで統一感は取れなくなってしまうわけだから、「全ては自然現象」という理屈を付けようとする試みは、中途半端な状態に陥ってしまう。
だったら、やっぱり「神の仕業」ってことで良かったんじゃないのかと。

あとさ、ヘブライ人の神は、ラムセスに「奴隷を解放せよ」という要求を飲ませたいんでしょ。だったら、川を赤く染めたり、大量の蛙やブヨやアブを発生させたりしても、まるで意味が無いんじゃないのか。
普通は「だから何なのか」という程度の認識になるでしょ。それがモーゼの要求を飲ませるための災いってことも伝わらないし。
そもそも、そんなことをして苦しむのはエジプト人だけじゃなくヘブライ人も同様なので、神の所業がアホにしか思えんぞ。
おまけに、モーゼから合意を要求されたラムセスは、ますます奴隷を扱き使うんだから、むしろヘブライ人を追いこんでいるじゃねえか。

ヘブライの神が本当に目的を達成したいのであれば、「次々に災いを起こす」という回りくどい方法ではなく、ファラオが側近たちといる所へ現れて「要求を飲まないと殺すよ」と脅せばいい。で、拒否したらホントに殺せばいい。それで他の人間が王位を継承しても、同じ脅しを掛ければいい。
まあ、そういうことを言い出しちゃったら、たぶん旧約聖書の内容は、ほぼ否定することになっちゃうんだけどね。
で、ともかくヘブライの神が次々に愚かな災いを放つ中、モーゼは批判的な意見を口にする。そしてラムセスに会い、「神が最悪の災いを起こす。自分には止められない」と教える。
そうすることでモーゼを善玉扱いしようという狙いがあるのかもしれないが、でも子供を守る方法はヘブライ人にしか教えないのよね。ホントに罪の無い子供たちを守りたいと思ったのなら、エジプト人にも同じ方法を教えてあげるべきでしょ。
なので、やっぱりモーゼはクズなのよ。

ラムセスは赤ん坊を殺され、「これがお前らの神か。子を殺す神。そんな神を崇める狂信者どもめ」とモーゼを責める。しかしモーゼは涼しい顔で、「ヘブライ人の子は死ななかった」と言い放つ。
つまり、「同胞の子は死ななかったから、これっぽっちも心は痛まないよ」ってことなのだ。
ラムセスはモーゼと仲間たちに「出て行け」と告げるが、それは「交渉に応じた」ってことじゃなくて、「こんな腐った連中とは二度と関わりたくない」という気持ちによる決断に過ぎない。
それは本当に「ヘブライ人の勝利」と言えるのか。
っていうかさ、そんな形で奴隷解放を勝ち取ったことに、モーゼは罪悪感を抱いたり苦悩したりしろよ。なんで平然と受け入れてんのよ。

モーゼと奴隷たちを追い払ったラムセスだが、我が子を弔って怒りが爆発したのか、追い掛けて皆殺しにしようと目論む。
それは充分に理解できる心情である。前半におけるラムセスは非道なクズ野郎だったが、十の災いが始まると、途端に「可愛そうな被害者」へと変化する。
そして奴隷はともかくモーゼに関しては、完全に「非道なクズ野郎」へと落ちぶれる。
なので、「モーゼたちを皆殺しにしてやる」と復讐心を燃やすラムセスの方が遥かに共感を誘うという、困った状態になってしまう。
他の面々はともかく、モーゼだけはラムセスに殺させてやりたいと思っちゃうんだよな。

「海が割れる」という『十戒』で描かれたクライマックスの見せ場を排除し、モーゼたちは引き潮になった紅海を渡ってカナンに到着する。で、またモーゼを善玉にしたいための作業として、「自分たちが行ったら侵略者になる」と言わせている。
でも、何をやってもモーゼが非道な男であることは確定済みなので、無駄な努力に過ぎない。
で、最後は石板に十戒を刻む作業があり、もちろん「汝殺すなかれ」の言葉も含まれる。
『十戒』の時も思ったけど、「神は大勢を殺してるじゃねえか」と言いたくなるんだよな。
ともかく、身勝手で残虐な神と、そんな神を崇める狂信者モーゼの物語は、こうして幕を閉じるのであった。

(観賞日:2016年10月26日)

 

*ポンコツ映画愛護協会