『イレイザーヘッド』:1977、アメリカ

フィラデルフィアの工業地帯に暮らすヘンリー・スペンサーは、印刷屋の職工として働いている。ある日、彼がアパートに戻ると、隣人の女性が声を掛けて来た。彼女はヘンリーに、恋人のメアリーから電話をがあり、実家での食事に誘っていたことを教えた。部屋に入ったヘンリーはレコードを掛け、ラジエーターで靴下を乾かす。彼は箪笥の引き出しを開け、破れているメアリーの顔写真を手に取った。
ヘンリーは線路伝いに歩き、メアリーの実家を訪れる。ドアから外を覗いていたメアリーに、ヘンリーは「本当に来てほしかったのか」と苛立ちをぶつける。メアリーはヘンリーを招き入れ、両親と祖母に会わせる。父親はチキンを調理師、食卓に並べる。母親は険しい顔になってヘンリーを呼び出し、「メアリーと寝たの?」と詰め寄る。ヘンリーが返答を渋っていると、母親は「病院に赤ちゃんがいるのよ。貴方の子供ね」と告げた。
ヘンリーが「そんなはずは」と困惑していると、母親は「すぐに結婚して子供を引き取りなさい」と要求した。メアリーが泣きながら「結婚してくれる」と尋ねると、ヘンリーは「もちろん」と答えた。メアリーが産んだ赤ん坊は、とても普通の人間には見えないような形状をしていた。ヘンリーは異様に小さくて奇形の赤ん坊を引き取り、メアリーとの新婚生活を始めた。夜中に赤ん坊が泣き叫ぶので、メアリーは苛立って「うるさい」と怒鳴った。
いつまで経っても赤ん坊が泣き止まないので、耐えきれなくなったメアリーは「実家に帰るわ。頭が変になりそう。一晩ぐらい貴方が面倒を見てよ」とヘンリーに告げて部屋を出て行った。メアリーが出て行った後、赤ん坊の泣き声は止んだ。ヘンリーが体温計で熱を測った直後、突如として赤ん坊の皮膚に発疹が出た。ヘンリーは苦しそうな赤ん坊を観察し、加湿器を置いて看病した。ヘンリーが出掛けようとすると赤ん坊が泣き出すので、彼は外出を断念した。
ベッドに潜り込んだヘンリーがラジエーターに視線を向けると、その中には小さな女がいた。その女は舞台の上で微笑みを浮かべ、音楽に合わせて稚拙なステップを踏んだ。天井からは細長い生物が降り注ぎ、女は笑顔で次々に踏み潰した。いつの間にか眠り込んだヘンリーが目を覚ますと、ベッドの隣ではメアリーが寝ていた。「ずれてくれ」と要求しても、メアリーは全く従わなかった。シーツの中に謎の管を発見したヘンリーは、それを壁に投げ付けた。
ヘンリーの部屋を隣の女が訪ね、「鍵を忘れちゃったの」と告げた。部屋に上がり込んだ女は、「奥さんは?」と問い掛ける。ヘンリーは部屋を見回し、「また実家に戻ったらしい」と告げた。赤ん坊が声を発しようとすると、ヘンリーは口を塞いだ。ヘンリーは女に誘惑され、肉体関係を持った。ラジエーターの女は、「天国には悩みなんか無い、天国には何でも手に入る」と歌った。ヘンリーが舞台に上がって触れようとすると、女は姿を消した。舞台には植物が運び込まれ、ヘンリーの頭が取れて床に転がった…。

脚本&製作&監督はデヴィッド・リンチ、撮影&照明はフレデリック・エルムズ&ハーバート・カードウェル、編集はデヴィッド・リンチ、音響効果はデヴィッド・リンチ&アラン・R・スプレット、美術&特殊効果はデヴィッド・リンチ。
主演はジョン・ナンス(ジャック・ナンス)、共演はシャーロット・スチュワート、アレン・ジョセフ、ジーン・ベイツ、ジュディス・アンナ・ロバーツ、ローレル・ニア、V・フィップス=ウィルソン、ジャック・フィスク、ジーン・ラング、トーマス・クールソン、ジョン・モネズ、ダーウィン・ジョストン、ニール・モラン、ハル・ランドンJr.、ジェニファー・リンチ、ブラッド・キーラー、ペギー・リンチ、ドディー・キーラー、ギル・デニス、トビー・キーラー、レイモンド・ウォルシュ。


デヴィッド・リンチの長編映画デビュー作。日本では2作目の『エレファント・マン』がヒットした後で劇場公開された。
5名のスタッフによって超低予算で製作された自主映画で、完成までに5年の歳月が費やされている。
デヴィッド・リンチは脚本&製作&監督&音響効果&美術&特殊効果を兼ねている。
ヘンリーを演じるのは、デヴィッド・リンチ作品の常連となるジャック・ナンス(ジョン・ナンス名義)。メアリーをシャーロット・スチュワート、メアリーの父をアレン・ジョセフ、母をジーン・ベイツ、アパートの女をジュディス・アンナ・ロバーツ、ラジエーターの女をローレル・ニアが演じている。

冒頭、タイトルが表示され、真っ黒の背景の中に惑星が浮かび上がり、ヘンリーの上半身が横に寝ている状態でユラユラと漂う。カメラが惑星に寄った後、窓辺で外を眺めている男が写し出される。
横になっているヘンリーの姿に、巨大な精子が重なる。男がレバーを引くと、その精子が勢い良く発射される。男が他のレバーも引くと、精子は水の中に落下する。
このオープニングだけで、「ああ、これはマトモな映画じゃなくて、ちょっとイカれた映画なんだな」と感じることが出来る。
まあ、「ちょっと」じゃなくて「随分」なんだけど。

メアリーの父親が出したチキンにヘンリーがフォークを突き刺すと、中から血がジュワーと流れ出し、チキンの両脚がカクカクと動く。
それを見ていたメアリーの母は口から舌を出して白目を剥き、変な声を発していたかと思うと泣いて部屋を飛び出す。しかし戻って来ると落ち着きを取り戻しているどころか、妙に怖い顔でヘンリーに「話があるの。こっちへ来て」と口にする。
一方、父親は作ったような笑顔を浮かべ、全く動かなくなる。母親はヘンリーに「メアリーと寝たの?」と詰め寄るが、ヘンリーが言い淀んでいると「言わないと厄介なことになるわよ」と告げ、欲情したかのようになって彼の首筋に吸い付く。
普通の感覚なら、ヘンリーが初めて奇形の赤ん坊を見た時のリアクションを描こうとするだろう。そして当然のことながら、明らかに普通ではない奇形の赤ん坊を見て、ヘンリーが驚いたり戸惑ったりする様子を表現するだろう。
しかし本作品は、ヘンリーが初めて赤ん坊を見るシーンをバッサリと省略している。そして、赤ん坊を引き取って新婚生活を始めている様子からすると、どうやらヘンリーは奇形の赤ん坊をすんなりと受け入れているようだ。
主人公が異常な物や状況を平然と受け入れる辺りは、まさに悪夢のメルヘンである。

ラジエーターの中には、両頬にブツブツだらけの瘤を付けた女がいる。彼女が舞台で横移動していると、天井から精子が降り注ぐ。女は笑顔のまま、精子を次々に踏み潰す。
目を覚ましたヘンリーはベッドの中にブヨブヨとした巨大な精子を見つけ、それを引き抜いて壁に投げ付ける。
引き出しに入れておいた鉤針のような物質は、ナメクジのように変化して動き出す。その生物は土の中に入ったり出たりして、最後は口を大きくパックリと開ける。
ヘンリーが隣の女に誘惑されてキスをすると、2人はベッドの中に出現している小さな池のような場所に沈んでいく。ラジエーターの女がいる舞台にヘンリーが上がって手を伸ばすと、閃光に包まれる。

女が消えた後、舞台にはヘンリーの部屋にある土に盛られた木を大きくした物が運び込まれる。ヘンリーは首チョンパになって頭部が地面に転がり、木から血が流れ出し、穴の開いたヘンリーの首から赤ん坊が顔を出す。
ヘンリーの両手が棒をクルクルと回転させる中で、転がった頭部の下を大量の血が流れて行く。ヘンリーの頭部はアパートの外に落下し、天上部分が剥がれ落ちる。
頭部を拾った少年は、ある建物にそれを持って行く。職員が少年を作業部屋に案内すると、鉛筆を作る技師がいる。技師は機械を頭部に突っ込み、鉛筆の先に付ける消しゴムの部分に加工する。
隣の女が他の男といるのを見たヘンリーは、包帯に包まれている赤ん坊の胴体部分をハサミで切る。露わになった内臓にハサミを突き刺すとドロドロとして液体が溢れ、赤ん坊は喀血する。

ここまでの記述を読んで「ワケが分からない」と思った人、それは正しい感覚だ。実際、ワケの分からない映画なのである。
ストーリーは、全く用意されていないわけでは無いが、でも無いに等しい。っていうか、ストーリーを真剣に追い掛けようとしたら夢幻地獄に落ちるだけなので、「頭を空っぽにして、不条理なイメージの連続する情景をボンヤリと眺め、その雰囲気に身を委ねる」という鑑賞方法を取った方が賢明だろう。
この映画は、理路整然とした説明や納得できる意味を求めると、「難解で良く分からない」という感想になってしまう。しかし「意味なんて求めるのは無駄だ。それこそ意味が無い。だってデヴィッド・リンチだもの」と割り切ってしまえば、何も難しいことなんて無い。「グロテスクでシュールな映像」だけを、シンプルに受け止めればいい。
いわゆる、ブルース・リー先生が言うところの「考えるな、感じろ」ってことでいいんじゃないか。

サルバドール・ダリの絵画『記憶の固執』や『ホメロス礼賛』を見た時に、最初から「この物体は何を表現しているんだろう」とか、「この絵画にはどういうメッセージが込められているんだろう」と冷静に分析しようとする人は、あまりいないだろう。
大抵の人は、まずは目に飛び込んでくるシュールな絵画のインパクトだけを感じ取るはずだ。そして、意味を探ったり構図や表現方法を考察したりする段階に移らず、そこで終わっても別に構わないと思う。
凡人の絵画鑑賞方法としては、「普通じゃないけど、なんか凄い、面白い」という感想で終わってもいいと思う。
強烈に惹き付けられるモノを感じたのであれば、それで充分だろう(もちろん、つまらないと思ったり、何も感じなかったりしても、それはそれで構わない)。

そ我々が寝ている時に見る夢は、デタラメで整合性なんて全く取れていない。起きた後で夢を覚えている人が「こういう夢だった」と話す時、キッチリと筋の通った物語になっているケースもある。
しかし、それは起きてから物語を組み立てているのであって、寝ている時に見ていた内容とは異なっている。
夢の中では、急に場所が変わったり、急に状況が変わったり、急に人が変わったりすることは良くある。
この映画も、「悪夢」の内容をそのまま見せられているのだと思えばいいんじゃないだろうか。

もちろん、夢には夢で「夢判断」というモノがあって、その意味を分析することも出来る。
だから本作品だって、その気になれば「このシーンは、こういう意味があるんじゃないか」「この人物の動きは、こういう意味の暗喩なんじゃないか」など、色々と分析することは可能だ。若くして父親になったデヴィッド・リンチ自らの不安や恐怖、そこから脱出したいという欲求、もがき苦しむ姿、強迫観念と恐るべき衝動など、それぞれのシーン、それぞれの描写に対して、それなりの分析をして説明を付けることは出来る。
だけど、そういうのはデヴィッド・リンチの熱烈なファンとか、知的な映画評論家とか、そういった類の人々に任せておけばいいんじゃないかな。
私も含めた凡庸な人間は、「こんな悪夢を見ました」ってのを、ただボンヤリと観賞して、その場その場の映像表現を味わえばいいんじゃないかな。

正直に言って、私はデヴィッド・リンチの全ての映画が好きなわけじゃないし、否定的な感想を持つ作品もある。
しかし本作品に関しては、イカれたカルト映画としては悪くないんじゃないかと思っている。
89分という上映時間で収めているのも良し。
これが100分を超えていたら、たぶん個人的な評価は大幅に下がっていた。こういうのって、長く見せるようなモノじゃないからね。

(観賞日:2015年2月5日)

 

*ポンコツ映画愛護協会