『エクウス』:1977、アメリカ

マーティン・ダイサートは社会復帰センターに勤務する精神科医。ある日、判事のエスターが自分の担当した裁判の被告を調査してほしいと頼んでくる。被告である17歳の少年アラン・ストラングは、自分が働いていた厩舎で6頭の馬の目を鎌で潰したというのだ。
ダイサートはアランに面会するが、彼はCMソングばかり歌って質問に答えようとしない。ダイサートはアランの両親に会う。母親のドーラは、アランがおとなしくて馬が大好きな息子だったと語る。ドーラは息子がラテン語で馬を意味する「エクウス」という言葉を気に入っていたとも話す。
一方、父親のフランクは、ドーラが自分のキリスト教に対する信仰を息子に押し付けたていたことを語る。ドーラはしつこいほどに聖書の教えをアランに聞かせ、「セックスは悪だ」という考え方をアランに押し付けており、それが犯行の原因になったと言うのだ。
ダイサートの質問に答えるようになったアランは、初めて馬を見た時のことや、馬に対する印象について語る。しかし、エクウスについて質問しようとすると、話をはぐらかしてしまう。ダイサートは催眠療法を行い、アランの心の奥に眠る事件の真相に迫ろうとする…。

監督はシドニー・ルメット、原作&脚本はピーター・シェーファー、製作はレスター・パースキー&エリオット・カスナー、製作協力はデニス・ホルト、撮影はオズワルド・モリス、編集はジョン・ヴィクター・スミス、美術&衣装はトニー・ウォルトン、音楽はリチャード・ロドニー・ベネット。
主演はリチャード・バートン、共演はピーター・ファース、コリン・ブレイクリー、ジョーン・プロウライト、ハリー・アンドリュース、アイリーン・アトキンス、ジェニー・アガッター、ケイト・ライド、ジョン・ワイマン、エルヴァ・マイ・フーヴァー、ケン・ジェームズ、パトリック・ブライマー他。


ブロードウェイの舞台劇を映画化した作品。
ダイサートをリチャード・バートン、アランをピーター・ファースが演じている。舞台では、ダイサートをアンソニー・ホプキンスやアンソニー・パーキンスが演じていたらしい。

宗教と精神分析という扱いの難しい要素を持ち込み、その2つだけで引っ張っていく。
序盤の流れを見ただけで、これが普通のミステリーとして成立しないことは、大半の人が分かるだろう。「エクウス」が深い意味を持っているように描かれているが、それほど気にしなくても構わない。

ダイサートは優秀な精神科医という設定のはずなのだが、とてもそうは見えない。
何しろ、アランに「奥さんとセックスしてるのか?」と尋ねられただけで狼狽し、怒り出してしまう。厩舎のオーナーやアランと親しかったジルに面会しないのも不可解だ。

ダイサートのモノローグで状況が説明されるが、説明になっていない。
かなり説明的で難解なセリフが多い。
そして、それを分かりやすく噛み砕く能力を持っていないらしい。
映像は、ほとんど意味を持っていない。
基本的にはダイサートとアランのセリフ合戦で進行する。

簡単に言えば、アランはキチガイである。
夜中に聖書の文句を詠唱しながらロープで自分の顔を締め付け、木の棒でベッドを叩く。厩舎から馬を勝手に連れ出し、人気の無い場所で裸になって馬にスリスリする。
異常な馬フェチなのである。
そして性欲を馬に向けているのである。

この作品が何を言いたいのか、私にはサッパリ分からない。
アランが情念を持っているように描かれているが、だからどうしたというのだ。
ダイサートがアランを妬ましく思う気持ちも、やたら熱く語るのも分からない。
たぶん、ダイサートもキチガイなんだろう。

物語の流れを理解しているのは、映画の向こう側にいる人々だけである。
映画を鑑賞している者には幾つもの点が見えるだけで、それが線として繋がらない。
一生懸命に最後まで観賞しても、「キチガイ少年とキチガイ医師が、イカれた話で盛り上がりましたとさ」という結論しか出てこない。

結局、「馬に対する倒錯的な性癖を持つ少年が、女とセックスしようとしたが失敗し、それを馬に見られていたので目を潰した」というのが事件の真相である。
そんなバカバカしい事件なのだが、そこに宗教的なフィルターを掛けることで、まるで深い意味があるように見せ掛けているのである。たぶん。

 

*ポンコツ映画愛護協会