『エル・ドラド/黄金の都』:2000、アメリカ

1519年、スペイン。詐欺師トゥリオとミゲールは、ギャンブルに勝って黄金の都エル・ドラドの地図を手に入れた。イカサマがバレた2人は逃亡し、樽の中に身を隠す。ところが、その樽は冒険家コルテスの一行が乗る帆船に積み込まれてしまう。樽から出たトゥリオとミゲールはコルテスに発見され、監禁されてしまう。
トゥリオとミゲールは軍馬アルティヴォーの協力で牢を脱出し、ボートで帆船から逃亡した。2人と1頭は何日も海を漂うが、やがて島に辿り着いた。島を進んだトゥリオとミゲールは、やがて原住民のタナボク族長や祭司ゼケルカーンと遭遇する。トゥリオとミゲールは、彼らの案内で滝の奥にある洞窟を抜けた。そこには、黄金の都エル・ドラドが広がっていた。
タナボクやゼケルカーンたちは、トゥリオとミゲールを神様として迎えた。その気になって神様のフリをするトゥリオとミゲールだが、泥棒娘のチェルにインサキを知られてしまう。チェルは秘密を守る代わりに、自分も黄金を手に入れる仲間に入れてほしい、そして都から連れ出して欲しいと持ち掛けた。
トゥリオとミゲールはタナボクを騙して財宝を手に入れ、船を作らせてスペインへ戻ろうとする。一方、ゼケルカーンは2人の名を騙り、都の民を苦しめる命令を幾つも出していた。何度も生贄を捧げる事を申し出るゼケルカーンに対し、ついにミゲールは都からの出て行くよう命じた。しかしゼケルカーンは呪術で巨大な化け猫を出現させ、トゥリオとミゲールを襲撃する…。

監督はエリック“ビーボ”バージェロン&ドン・ポール、脚本はテッド・エリオット&テリー・ロッシオ、製作はボニー・ラドフォード&ブルック・ブレトン、製作総指揮はジェフリー・カッツェンバーグ、作詞はティム・ライス、作曲はハンス・ジマー、歌はエルトン・ジョン、ナレーターはエルトン・ジョン。
声の出演はケヴィン・クライン、ケネス・ブラナー、ロージー・ペレス、アーマンド・アサンテ、エドワード・ジェームズ・オルモス、ジム・カミングス、フランク・ウェルカー、トビン・ベル、ダンカン・マージョリーバンクス、イライジャ・チャン、サイラス・シャキ=カーン。


『プリンス・オブ・エジプト』に続くドリームワークスの長編アニメーション映画第2作。
トゥリオの声をケヴィン・クライン、ミゲールをケネス・ブラナー、チェルをロージー・ペレス、ゼケルカーンをアーマンド・アサンテ、タナボクをエドワード・ジェームズ・オルモス、コルテスをジム・カミングスが担当している。
音楽には、ディズニーのアニメ映画『ライオン・キング』のティム・ライスとエルトン・ジョンを起用している。

最初に書いておくと、この映画は完全にコケた。
その後、ドリームワークスはフルCGの『シュレック』が起死回生のヒットとなった。
しかし、これはセルアニメだからコケたわけではない。フルCGで作っていても、まず間違いなくコケただろう。フルCGか否かという問題ではなく、シナリオや演出の出来映えの問題だ。

キャラクターのデザインといい、ミュージカル形式といい、この作品はまるでディズニーの真似事である。何も知らない人に「これはディズニー映画です」と言って見せても、たぶん全く気付かないだろう。
ジェフリー・カッツェンバーグのディズニーへの対抗心が、この頃は最悪の形で出てしまっていたということだ。

原題は「The Road to El Dorado」だが、これはボブ・ホープとビング・クロスビーが共演した「珍道中」シリーズから来ている。つまり、アドベンチャー・ロマンよりも、軽妙なコメディーを目指していると解釈していいだろう。
しかし、それにしては笑いを取りに行こうとする意識が薄弱に思えてならない。
まずトゥリオとミゲールの軽妙な掛け合い、セリフのやり取りによって笑いを生み出そうとするのがセオリーだが、そこからして低調。一応は心配性トゥリオ&お調子者ミゲールという性格設定はあるが、2人のキャラクターには「ボケとツッコミ」「真面目と不真面目」といった大きな違いが無い。
どこか似たようなキャラにしたのは失敗だろう。

アニメーションなので、役者の表情やリアクションで笑いを取りに行くことは出来ない。
しかし、その代わりにアニメならではの演出は可能だ。
例えば驚いてアゴが地面まで伸びるとか、目玉が飛び出すとか、体がゴムのように伸縮するとか、そういう誇張した描写は自由に出来る。
だが、その手の誇張は、ほとんど持ち込んでいない。
シーンの1つ1つの演出にしても、例えば偶然にもエル・ドラドの都がある島に到着するシーン、ここはエル・ドラドの島だと気付いた瞬間にスカしてみたり、あるいは1つタイミングをズラしてから大きなリアクションを取らせてみたりと、ギャグとして演出することは可能なはずなのだが、そこをスーッと通り過ぎてしまう。

ミゲールが言い争ったトゥリオが「やめろ」と叫ぶと火山の噴火が止まり、それが2人の神業だと勘違いされるというシーンがある。
これ、本当ならば、ギャグのはずだ。
ところが、なぜか滑稽さや軽妙さへの意識は無く、壮大な音楽を流して感動的なシーンのように盛り上げてしまう。最初から最後まで、音楽はコメディーへの意識を全く示さず、ずっとアドベンチャー・ロマンとして鳴り響く。

「テンポがいい」と好意的には受け取れず、「いい意味での引っ掛かりが無くて何も印象に残らないまま話が進んでいく」という風に感じる。「何故ここでギャグや小ネタを挟まないのか」と、そんなことが気になって仕方が無い。
とにかく話に起伏や抑揚の変化が乏しく、だから例えば行く手にエル・ドラドが出現しても、何の驚きも感動も無い。

前述したように決してプラスの意味ではないが、ともかく前半はサクサクと進んでいた。舞台が次々に移動することで、スピーディーな感覚を作り出していたのだろう。
しかしエル・ドラドに到着してからは、一気に話が停滞モードに入る。次々にエピソードを進めていこうという意識は無く、マッタリと落ち着く。
バスケもどきのゲームなんて、後半に持ってくるエピソードじゃないだろう。

コメディーとしての出来映えがマズいというだけでなく、普通のアドベンチャー・ロマンとして見るにしても出来映えはよろしくない。
最初にコルテスが悪党っぽく出てきたのに序盤で消えて、中盤以降はゼケルカーンが悪党になるのに、最後は再びコルテスが悪党として登場する。そしてゼケルカーンとのバトルではなく、コルテス一味からエル・ドラドを守るというシーンがクライマックスになっている。
しかしコルテスはほとんど話に絡んでいないので、蛇足にしか感じない。

しかも、結局のところ、トゥリオ&ミゲールがコルテスと対峙することは無いのだ。
コルテス一味からエル・ドラドの場所を隠して、マトモに対決することは無いまま終わるのだ。
つまり、コルテスは通りすがりの冒険家に過ぎないのだ。
トゥリオ&ミゲールとコルテスの対立関係が成立していないのに、コルテスからエル・ドラドを守るのがクライマックスというのは、構成としてマズいだろう。

 

*ポンコツ映画愛護協会