『愛の選択』:1991、アメリカ

オークランドに住むヒラリーは、恋人ダニーが他の女と浮気している現場を目撃した。怒ったヒラリーはダニーと同棲していた家を飛び出し、母のいる実家へ戻った。今までダニーの稼ぎで暮らしていたヒラリーは、仕事を探すことにした。
ヒラリーは新聞で病人の看護役の募集広告を見つけ、依頼主の大きな屋敷へと向かった。しかし、面接をした主人リチャードは、その広告は病人である28歳の息子ヴィクターが勝手に出したものであり、看護婦資格の無いヒラリーは雇えないと告げる。
帰ろうとしたヒラリーは執事に呼び止められ、リチャードに内緒で地下に招かれる。そこでヒラリーは、白血病を患っているヴィクターと出会った。ヴィクターは父が仕事で日本に行くので、住み込みを条件に自分がヒラリーを雇いたいと告げた。
ヒラリーは週給400ドルで、ヴィクターの看護人の仕事を始めることになった。ヴィクターは毎週月曜になると、化学療法のために運転手モーマールの車で病院へ通う。ヒラリーは自分では力不足だと痛感し、看護の仕事をやめようと考える。だが、ヒラリーはヴィクターと会話を交わした後、やはり彼の看護を続けることにした。
ある日、ヴィクターは化学療法が全て終わったとヒラリーに告げる。そして彼は、一緒に北へ旅行に出ないかとヒラリーを誘う。ヒラリーはヴィクターと共に北へ向かい、しばらく郊外の貸し家で過ごすことにした。やがて2人はベッドを共にして、互いの愛を確かめ合う。だが、ヒラリーはヴィクターが化学療法を途中で放棄していたことを知る…。

監督はジョエル・シューマッカー、原作はマーティ・ラインバック、脚本はリチャード・フリーデンバーグ、製作はサリー・フィールド&ケヴィン・マコーミック、共同製作はダンカン・ヘンダーソン、撮影はファン・ルイス・アンシア、編集はロバート・ブラウン、美術はガイ・J・コムトワ、衣装はスーザン・ベッカー、音楽はジェームズ・ニュートン・ハワード。
主演はジュリア・ロバーツ、共演はキャンベル・スコット、ヴィンセント・ドノフリオ、コリーン・デューハースト、デヴィッド・セルビー、エレン・バースティン、ディオン・アンダーソン、ジョージ・マーティン、A・J・ジョンソン、ダニエル・ビーア、バフルーズ・アフラクハン、マイケル・ハルトン、ラリー・ナッシュ、アレックス・トレバック、リチャード・フリーデンバーグ他。


白血病患者の青年と彼を介護する女性との恋愛を描いた作品。
ヒラリーをジュリア・ロバーツ、キャンベル・スコット、貸し家に来た2人と親しくなるゴードンをヴィンセント・ドノフリオ、ブドウ園の女主人エステルをキャンベル・スコットの母コリーン・デューハースト、リチャードをデヴィッド・セルビー、執事をジョージ・マーティンが演じている。

金持ちの青年と庶民的な女性の純愛&白血病という要素からは、病気になるのが男か女かという違いはあるが、1970年の映画『ある愛の詩』を思い浮かぶ。
『ある愛の詩』がサイテー映画の扱いを受けていることを考えれば、それに似ている内容の作品を“愛と感動の名作”に仕立て上げることは、相当に困難な道であろう。

ヒラリーは面接を受けるというのに、派手な服にミニスカートで出向く。
しかも、いきなりタバコを吸い始めようとする。
そんなヒラリーを見た性欲マンマンのヴィクターは、「珍しく色っぽい若いネーチャンが来たぜ。これは逃がしてなるものか」とばかりに、父に内緒で採用を決める。
こうして、アーパー女とムッツリスケベ男の物語が始まる。

どうやらヒラリーは異常に感受性が高いようで、ヴィクターが普通に治療を受けている様子を見ただけで、ウルウルしてしまう。そして、彼の若い頃の写真を眺めていると、とうとう泣き出してしまう。
そんな彼女は、すぐに介護の仕事を辞めたいと考える。
ヒラリーが仕事を辞めたいと考えるのは、劇中では介護を始めて10分か15分ぐらいのことだ。
しかし、決して忍耐力が無いわけでも、高給に釣られたのが甘かったわけでもない。
彼女は感受性が強いので、あっという間に強烈な辛さを感じ取っただけだ。
何しろ感受性が強いので、その直後にヴィクターと話すと、すぐに辞職の意思を撤回する。

ヒラリーはヴィクターのために、書物を読んで白血病について勉強したり、野菜を大量に買い込んで食事療法を試したりする。いくら高い給料を貰っているからといって、見ず知らずだった男に対して、そこまで献身的になれるというのは凄いことだ。
ヴィクターの介護を始めるまでに、ヒラリーがどういう人物かという情報がほとんど与えられなかったので、彼女がそんな天使のような女性だとは全く分からなかった。
派手な遊び好きの女にも見えたが、人は第一印象で判断してはいけないということだろう。

ヒラリーは嫌がっているヴィクターを強引にバーに連れて行き、ほとんど見世物のように彼を弄ぶ。しかし、決して自分がバーで楽しみたいだけで、ヴィクターのことを適当に考えているわけではない。
ヴィクターを外の世界に連れ出そうとしただけだ。
ヴィクターはヒラリーを2人だけの旅行に誘い、一緒のベッドで眠らせてもらうが、決して病気を利用して女をゲットしようという魂胆は無い。頼み事をする時に必ず「イヤならいいけど」と付け加えるのは、断りにくくする策略ではない。
純粋な愛による行動だ。

ヒラリーはヴィクターが自分を狙っていることに気付いていながら旅行を承諾するのだから、完全に「抱かれてもいい」ってな状態になっているはずだが、そんな気は全く無いといった素振りを見せる。
それは焦らした方が興奮するという考えだろう。
ヴィクターが2人きりで過ごしたいと願っていることは明白なのに、ヒラリーはクリスマスの夜にゴードンを家に招待する。
わざとヴィクターを不機嫌にさせることを狙っているとしか思えない無神経な行動だが、きっと誰に対しても優しいということなのだろう。

ヒラリーはヴィクターの居場所を父親に知らせた後、自分は派手に着飾ってゴードンと一緒に楽しそうにパーティーに参加する。しかし、ヴィクターの介護が面倒になったわけでも、見捨てたわけでもない。
ちょっと息抜きしたくなっただけだろう。
絶対に勘違いしてはならないのは、ヒラリーのヴィクターに対する気持ちは愛情であり、決して同情ではないということだ。
「同情してる内に愛情だと勘違いしたんだろ?」などと思ってしまったら、それは、あなたの心が歪んでいる証拠だ。
まるで私のように。

 

*ポンコツ映画愛護協会