『おかしなおかしな石器人』:1981、アメリカ
紀元前数万年、10月9日。食べ物を探していたアトゥークは、野蛮な族長のトンダに追い払われる。部族から離れた彼は木の実を見つけるが、植物に襲われたので逃げ出す。アトゥークは岩場にいる小さなトカゲを見つけ、捕まえようとする。しかし背後から巨大なツノトカゲが出現したため、彼は慌てて部族の元へ逃走した。ツノトカゲが追って来たため、トンダは部族の2人に石を投げて戦うよう命じた。石を投げてもツノトカゲに全くダメージを与えられず、トンダは仲間を蹴散らして木に登った。
ラーはツノトカゲの尻尾に飛び付くが、弾き飛ばされてしまった。ツノトカゲは木を倒し、クルダをくわえて去った。トンダは食べ物を探しに行こうとするが、右足を骨折したラーは遅れてしまう。アトゥークは片脚で飛ぶよう促すが、トンダはラーを置き去りにした。彼らは食べ物を見つけられず、部族の住処である山の洞窟へ戻る。トンダの妻であるラナに惚れているアトゥークは洞窟で果物を見つけ、彼女に差し出した。するとラナはアトゥークから貰ったと言わず、それをトンダに渡した。
次の日、赤い木の実を発見したトンダは、アトゥークに毒見役を命じた。アトゥークは木の実を食べながら、数粒を密かに隠した。彼は眠り込んでしまい、洞窟に運ばれた。アトゥークはリンゴの中に木の実を詰め、ラナに差し出した。すると彼の狙い通り、トンダがリンゴを受け取って食べ始めた。しかしラナもリンゴを食べ、2人とも眠り込む。その夜、アトゥークはラナと性的関係を持とうとするが、自分も眠ってしまった。
翌朝、目を覚ましたトンダは隣にいるアトゥークに気付き、激怒して襲い掛かる。アトゥークは慌てて逃げ出し、追放処分となった。彼はラーと再会し、喜んで強く抱き合った。その力で彼らの腰骨が伸び、直立の体勢になった。アトゥークがラナへの思いを吐露すると、ラーは革命を起こしてトンダを倒すよう持ち掛けた。2人が底無し沼の近くで様子を窺っていると、ゴグという盲目の老人が孫娘のタラと共に通り掛かった。ゴグは底無し沼に落ちてしまい、アトゥークとラーが駆け付けて救出した。彼らはゴグとタラの腰を伸ばし、自分たちと同じ直立人間に変化させた。
川で水浴びをしたアトゥークたちが移動していると、ティラノサウルスが現れた。ゴグが気付かずに杖で叩いて刺激し、アトゥークたちはティラノサウルスに追い掛けられる。アトゥークは偶然にもティラノサウルスを撃退し、タラは彼に抱き付いて求愛する。アトゥークはラナがいると説明し、彼女の愛を受け入れなかった。アトゥークがタラたちを連れて洞窟へ戻ると、トンダは食べ物を探しに行って留守だった。彼はラナを見て頬を緩ませるが、トンダと仲間が食べ物を持って戻ったので隙を見て逃げ出した。
夜になるのを待って洞窟へ戻ったアトゥークは、ラーと共にラナを拉致しようとする。しかしラナが助けを求めて声を発したので、彼らは逃亡した。翌朝、アトゥークたちはフォグが家長を務める大家族と知り合い、一緒に行動するようになった。ツノトカゲを撃退して移動していた彼らは、大雨に降られたので大木の窪みに入る。すると落雷が木の枝に命中し、燃えて落下した。初めて火を見たアトゥークたちは、警戒しながらも近付いた。彼らが焚き火を始めると、木陰から様子を見ていたラックやヌークといった面々が現れて仲間になる。彼らの仕留めた鳥をアトゥークが引っ張っていると、偶然にも火の上で丸焼きになった。鳥を美味しく食べていると偶然にも音楽が誕生し、アトゥークたちはリズムを取って歌った。
次の日、ティラノサウルスが出現すると、アトゥークは火を使って撃退した。アトゥークは数名を引き連れて食べ物を探しに出掛け、恐竜の卵を発見して持ち帰ろうとする。しかしトンダの部族に見つかり、卵を奪われてしまった。トンダたちは卵を運ぶが、翼竜に襲われて崖下に落としてしまう。卵は噴火口にぶつかって割れ、巨大な目玉焼きが完成した。トンダの部族が翼竜から逃げた後、アトゥークたちは目玉焼きを仲間の元へ持ち帰った。待ち伏せていたトンダの部族が襲い掛かると、アトゥークたちは松明で追い払った。火種が無くなったため、アトゥークたちは探しに出掛けた。
トンダは松明を洞窟に持ち帰り、仲間を直立人間に変身させた。アトゥークたちはティラノサウルスに見つかり、転倒したタラがピンチに陥った。アトゥークは赤い木の実を見つけ、それをティラノサウルスに食べさせた。眠気に見舞われたティラノサウルスはバランスを失い、崖下へ転落した。アトゥークたちはトンダの部族が出掛けている隙に洞窟へ忍び込み、火の付いた松明を奪還した。洞窟を後にした彼らは、トンダの部族が川で魚を獲っている様子を目撃した。アトゥークは仲間が早々に去っても、ラナが気になって観察を続ける。するとトンダの注意でラナが川を流されたため、アトゥークはラーと2人で救出に向かった。アトゥークはラーは激流に飛び込み、ラナを助けた。しかしラーが足を滑らせて激流に落ち、アトゥークは彼の姿を見失ってしまった。ラーは氷河期の池に流れ着き、その背後からは雪男が現れた…。監督はカール・ゴットリーブ、脚本はルディー・デ・ルカ&カール・ゴットリーブ、製作はローレンス・ターマン&デヴィッド・フォスター、撮影はアラン・ヒューム、美術はフィリップ・M・ジェフリーズ、編集はジーン・ファウラーJr.、衣装はロバート・フレッチャー、音楽はラロ・シフリン。
出演はリンゴ・スター、バーバラ・バック、デニス・クエイド、シェリー・ロング、ジャック・ギルフォード、ジョン・マツザック、アヴェリー・シュレイバー、エド・グリーンバーグ、カール・ランブリー、コーク・ハバート、ジジ・ヴォーガン、マーク・キング、パコ・モレイタ、エヴァン・キム、ジャック・スカリッチ、ミゲル・アンヘル・フエンテス、テレ・アヴァレス、エリカ・カールソン、アナ・デ・セイド、フアン・アンコナ・フィゲロア、パメラ・グアル、アナイス・デ・メロ、リチャード・モル、ヘクター・モレノ、フアン・オマー・オルティス、サラ・ロペス・シエラ、エステバン・ヴァルデス、ジェラルド・ゼペダ他。
ザ・ビートルズの解散後、元メンバーのリンゴ・スターが初主演を務めた作品。
『ジョーズ』や『天国から落ちた男』などの脚本を担当したカール・ゴットリーブが、映画初監督を務めている。
脚本は『サイレント・ムービー』『メル・ブルックス 新サイコ』のルディー・デ・ルカとカール・ゴットリーブ監督による共同。
アトゥークをリンゴ・スター、ラナをバーバラ・バック、ラーをデニス・クエイド、タラをシェリー・ロング、ゴグをジャック・ギルフォード、トンダをジョン・マツザックが演じている。アンクレジットだが、ティラノサウルスのデザインを担当したのは『恐竜時代』などで知られるジム・ダンフォース。ストップモーション・アニメーションの巨匠である彼が、当初は視覚効果監修を務めるはずだった。
しかし性格に難がある彼は、早い段階でプロデューサーやスタッフと揉め、腹を立てて降板してしまった。
そのため、スタッフとして参加していたデヴィッド・アレンが後任となっている。
雪男の造形を担当したのは、後に『ザ・フライ2 二世誕生』の監督を務めるクリス・ウェイラス。劇中で出演者が話すのは、この映画用に作られた幾つかのデタラメな原始人語だけ。なので、マトモな台詞は無い。しかし日本語吹替版では、アトゥークたちがデタラメな原始人の言葉ではなく、普通の言葉で饒舌に喋っている。
その理由は、アトゥークの声を担当したのが広川太一郎だからだ。
広川太一郎と言えば、『Mr.BOO!』シリーズでも自由奔放な吹き替えでお馴染みの声優だ。そんな彼を中心にした声優陣は、この映画でも台本を無視してアドリブ合戦を繰り広げた。
皮肉なことに、広川太一郎が吹き替えを担当した洋画は、原語を大事にして翻訳した字幕版より遥かに面白くなっちゃうのよね。
なので本作品も、吹替版での観賞をオススメする。字幕版で見ても、まるで面白くないと思うよ。リンゴ・スターはザ・ビートルズ時代から、グループでの出演作でも中心的な役割を担当していた。ビートルズ映画以外でも、『マジック・クリスチャン』や『キャンディ』などに出演している。
ただ、あくまでも「ザ・ビートルズの中では俳優活動に向いていた」というだけであって、決して俳優としての才能に恵まれていたわけではない。さらに言うと、コメディアンとしての素質も豊かだったわけではない。
だから本作品も、彼の喜劇人としての能力に頼って、そこに多くを委ねることは出来ない。
そんなわけで、脚本や演出の部分で、主人公を演じるリンゴ・スターを盛り立てる必要があったはず。
しかし残念ながら、そっち方面でも全く力が足りていないのだ。前述したように、登場人物はデタラメな言葉をポツポツと喋っているだけなので、「台詞ではなく動きだけで伝わる喜劇」としての面白さが求められる。
ここで厄介なのは、主演がリンゴ・スターってことだ。
アクションで笑いを作り出すには、出演者の表情や仕草ってのが重要になる。例えば『マスク』のジム・キャリーが百面相のような表情の変化で笑いを取りに行っていたような、そういう能力が必要になる。
でも、そういうのをリンゴ・スターに求めるのは酷ってモノであって。「主演俳優に喜劇人として多くは期待できないけど、台詞に頼らずアクションで見せる喜劇を作らなきゃいけない」ってのは、かなり大変な仕事だ。
パッと思い付く方法は2つある。
1つは、「主人公は棒にしておいて、周囲のキャラが積極的に動くことで笑いを作る」という方法だ。仮に主人公が無表情でノーリアクションだったとしても、周囲のキャラを上手く活用すれば喜劇を盛り上げることは可能だ。
だが、そういう方法は取っていない。もう1つの方法が、「キャラクターではなく別の部分で動きを作る」というやり方だ。
具体的には、人物ではなく舞台装置や小道具で笑いを生み出すってことだ。
例えば、生えている植物が奇妙な形に変わるとか、出現する動物がバカな失敗をやらかすとか。
太陽が沈んで月が昇り、一瞬で昼から夜になるカットがあるけど、そういうのも上手く使えば笑いの1つは作れるだろう。しかし、そういう方法も取っていない。むしろ、主人公を笑いの発信源として積極的に使おうとしている。カット割りとかカメラワークとか、そういうトコでも笑いのセンスが高くないと感じさせる。
例えば、アトゥークとラーがタラ&ゴグと出会うエピソード。
ゴグを助けて直立にした後、また彼が底無し沼に向かって歩き出そうとするのでアトゥークたちは慌てて引き留める。
この時、「ゴグが歩き出す」「底無し沼に足を踏み入れようとする」「アトゥークたちが慌てて止める」という3つのカットを割っている。
でも、そこは1カットで見せた方が絶対にいいわけで。1本の長編ストーリーの中に笑いを散りばめるという構成ではなく、基本的にはショートコントを串刺し式に配置して長編にしているといった感じだ。
それが悪いわけではないが、だったら「アトゥークが主人公の物語」として作らず、いっそのこと「石器人たちの暮らし」ってことで複数のキャラを描く内容にすれば良かったんじゃないかな。
そうすることで、「主役」「状況」など複数の要素に分かりやすい変化が生じる。
悪い言い方をすると、喜劇の質から巧みに目を逸らして誤魔化せるんじゃないかと。前述したように、デヴィッド・アレンやクリス・ウェイラスらが参加し、ストップモーション・アニメーションによるティラルサウルスやツノトカゲ、キグルミによる雪男が登場する。
でも、そういうクリーチャーの存在って、喜劇映画としては決してプラスに働いていると言えないんだよね。クリーチャーが登場すると、どうしてもデザインやストップモーション・アニメの動きの方が気になるのよね。
まあ、それは「デヴィッド・アレンやクリス・ウェイラスが参加している」という情報を知った上で観賞していることも影響しているけど。
ただ、それを抜きにしても、そういうクリーチャーを笑いに上手く活用できているとは言えないしね。リンゴ・スターを主演に起用しているんだから、セルフ・パロディーをやらせるってのも1つのアイデアとしては有りだったかもしれない。
それなら、少なくとも本作品よりは面白くなったんじゃないか。
彼の演技力やコメディアンとしての資質が云々ってのを抜きにしても、ザ・ビートルズやリンゴ・スターを絡めた楽屋落ち的なネタなら笑いも生み出しやすいでしょ。
それに楽屋落ちなら、喜劇としての質がそんなに高くなくても、ファンならニヤニヤできちゃったりすることもあるはずで。(観賞日:2020年7月7日)
第4回スティンカーズ最悪映画賞(1981年)
ノミネート:作品賞