『愛と哀しみのボレロ』:1981、フランス

1936年、モスクワ。ボリショイ劇場のプリマドンナになれなかったタチアナが、審査員のボリスと結婚した。1937年、パリ。バイオリニストのアンヌは、ピアニストのシモンと結婚した。1938年、ベルリン。ピアニストのカールはヒトラーから称賛の言葉を受けて喜んだ。
1939年、ニューヨーク。ジャズ・オーケストラの指揮者ジャック・グレンは、ラジオの生番組で次女を出産した妻に呼び掛けた。そこへ臨時ニュースが入ってきた。ドイツ軍のポーランド侵攻に対して、フランスとイギリスが宣戦布告したという内容だった。
戦火が広がって行く中、カールはヒトラーから占領軍の軍楽隊長に任命されていた。ユダヤ人だったアンヌとシモンはドイツ軍に捕まり、幼い息子ダビッドを救うために護送列車の外に置き去りにした。ボリスは出征し、スターリングラードで戦死した。ジャックは連合軍の軍楽隊長になった。
戦争が終わった。ジャックはニューヨークへ戻るが、隣家の息子ロバートとドナルドは戦死した。タチアナはボリショイ劇場の講師になり、息子セルゲイをバレエダンサーとして育てた。敵軍と寝ていたことを非難されたイヴリーヌは自殺した。アンヌはダビッドのことを気にしていた。
1960年代。ジャックの娘サラは歌手としてデビューし、スターへと上り詰めていく。カールはニューヨークで演奏会を開くが、ユダヤ人がチケットを買い占めたために、会場には2人の批評家しか客がいなかった。セルゲイはダンサーとして活躍するが、亡命する。
1980年代。イヴリーヌの娘エディットはアナウンサーになった。ロベールは自分の母親がアンヌだと知った。シャイヨー宮広場ではチャリティ・コンサートで「ボレロ」が披露されることになった。オーケストラの指揮をカール、ダンスはセルゲイ、歌唱をロベールの息子パトリックとサラが務めた。会場や生中継の映像が放送されているテレビの前に、様々な人々の姿があった…。

監督&脚本&製作はクロード・ルルーシュ、撮影はジャン・ボフティー、編集はソフィー・ボー&ユーグ・ダルモワ、美術はジャン・ルイ・ポヴェーダ、振付はモーリス・ベジャール、音楽はミシェル・ルグラン&フランシス・レイ。
出演はロバート・オッセン、ニコール・ガルシア、ジェラルディン・チャップリン、ジェームズ・カーン、ダニエル・オルブリフスキー、ジャック・ヴィレル、ジョルジュ・ドン、リタ・ポールヴールド、イヴリーヌ・ブイックス、マーシャ・メリル、フランシス・ユステール、レイモン・ペルグラン、ジャン・クロード=ブリアリ、ファニー・アルダン、ジャン=クロード・ブティエ、リシャール・ボーリンガー、ニコール・クロワジール他。


クロード・ルルーシュの紡ぎ出す大河ドラマ。
ボリスとセルゲイをジョルジュ・ドン、カールをダニエル・オブリフスキー、ジャックと息子ジェイソンをジェームズ・カーン、シモンとロベールをロベール・オッセン、アンヌをニコール・ガルシアが演じている。
さらにタチアナをリタ・ポールヴールド、サラをジェラルディン・チャップリン、イヴリーヌとエディットをイヴリーヌ・ブイックス、カールの妻マグダをマーシャ・メリルが演じている。
また、ノンクレジットだが、最後のコンサートをベッドで見ているジャックの横にいる女性は、シャロン・ストーンである。

セルゲイはバレエダンサーのヌレエフを、カールはクラシック指揮者カラヤンを、ジャック・グレンはグレン・ミラーをモデルにしていると思われる。エディット・ピアフをモデルにしたキャラクターもいるらしいのだが、シャンソン歌手が登場した記憶は無い。

最初の段階での各キャラクターの印象付けが弱いために、誰がどこで何をやっているのかというのが分からなくなってくる。
かなり注意深く観察していなければ、誰が誰だか見分けが付かなくなってくるのだ。
何しろ、名前さえ、なかなか判明しないキャラクターも多い。

ある人物がいて、その子供が成長した姿を、親を演じていた役者が演じている。
それはおそらく分かりやすくしようという工夫なのだろうが、その前の段階で、既に誰が誰だか分からなくなっているので、意味が無い。
もはや途中からは、マトモに物語を追う意欲さえ失われていく。

何人ものキャラクターが登場するが、彼らはほとんど結び付かない。
クライマックスとなるコンサートの場面で同じ場所に集まっても、それは結び付きとは言わない。「ただ同じ場所にいる」というだけのことだ。
彼らの人生が密接に絡み合うことは、ほとんど無いのだ。

おそらく、クロード・ルルーシュにとっては、「誰がどこで何をしているのか」ということは、それほど重要ではなかったのだだろう。
登場人物達の繋がりが全く見えなくても、どうだっていいのだろう。
「この時代はこんな状況にありました」ということを示せば、それで満足なのだろう。

スケールの大きい作品を作りたかったのだろうということは分かった。
だが、器を広げるのは勝手だが、中身が散らばったままで相手に出すのは失礼ではないか。そこまで、ざっくばらんな態度が取れるほど、監督と観客の距離は近くないはずだ。

確かにクライマックスでジョルジュ・ドンが踊る「ボレロ」は素晴らしいかもしれない。
しかし、それまでの物語が、その場面を生かす前振りとして全く成立していない。
ジョルジュ・ドンの舞踏を見せるだけなら、彼のドキュメンタリー・フィルムを撮ればいいだけのコトであって、余計な物語の部分は必要が無いのだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会