『アンナ・カレーニナ』:1997、アメリカ&ロシア

1980年、モスクワ。コンスタンティン・レヴィンはエカテリーナ、愛称キティーに出会って心を惹かれた。レヴィンは彼女に求婚するが、断られてしまった。キティーは軍人のヴロンスキー伯爵に恋していたのだ。そのヴロンスキー伯爵は駅でロシア高官カレーニンの妻アンナを目撃し、一目惚れした。アンナは不和状態となった兄スティーヴァと妻ドリーの仲を取り持つため、やって来たのだった。ヴロンスキーは気持ちを抑え切れず、アンナを追い回す。最初は拒もうとしていたアンナだが、やがて彼を受け入れた。
1981年。レヴィンはスティーヴァからキティーが病気療養中だと聞かされ、かつて求婚を断られたことを告げた。レヴィンは田舎の領地で、農作業に精を出した。一方、社交界ではアンナとヴロンスキーのことが噂になっていたが、2人は関係を絶とうとは全く考えなかった。ヴロンスキーは母から「一時の情熱でキャリアを捨てるのか」と言われるが、聞き入れなかった。
ヴロンスキーはアンナから妊娠したことを聞かされ、カレーニンと離婚してほしいと頼んだ。その場では断ったアンナだが、後日、彼女はカレーニンに「ヴロンスキーを愛しているので別れてほしい」と告げた。カレーニンは拒否し、夫婦生活を続けるよう求めた。しかしアンナは流産した後、ヴロンスキーと共にイタリアへ渡って2人の生活を始める…。

監督&脚本はバーナード・ローズ、原作はレオ・トルストイ、製作はブルース・デイヴィー、製作協力はジム・レムリー、製作総指揮はスティーヴン・マクヴィーティー、撮影はダリン・オカダ、編集はヴィクトル・デュボワ、美術はジョン・マイヤー、衣装はマウリツィオ・ミレノッティー、音楽監督はサー・ゲオルグ・ショルティー。
出演はソフィー・マルソー、ショーン・ビーン、アルフレッド・モリーナ、ミア・カーシュナー、ジェームズ・フォックス、フィオナ・ショウ、ダニー・ヒューストン、フィリディア・ロウ、サスキア・ウィッカム、デヴィッド・スコフィールド、ジェニファー・ホール、アンナ・カルダー=マーシャル、ヴァレリー・ブラッデル、ピーター・シェロコノフ、ナイアル・バギー、アンソニー・カルフ他。


レオ・トルストイの小説を基にした作品。これが7度目の映画化になる。
監督&脚本は『不滅の恋/ベートーヴェン』のバーナード・ローズ。
アンナをソフィー・マルソー、ヴロンスキーをショーン・ビーン、レヴィンをアルフレッド・モリーナ、キティーをミア・カーシュナー、カレーニンをジェームズ・フォックス、リディアをフィオナ・ショウ、スティーヴァをダニー・ヒューストンが演じている。

フランス人やイギリス人がロシア人を演じているのだが、まあ、そんなことは置いておこう。

さて、この映画、まずレヴィンがキティーに恋をするところから話が始まっている。それ以降の展開で描かれるのはアンナとヴロンスキーの物語のはずなのに、そんなところから始めている時点で、ちょっと違うんじゃないかと思ってしまう。
レヴィンの視点からアンナとヴロンスキーを描くというのであれば、最初にレヴィンから始めるのも分からないではない。しかし、レヴィンがキティーにプロポーズを断られた後、すぐに視点はヴロンスキーに移動してしまう。

その後も、この映画は視点を定めることが無く、ただ話を進めることだけで手一杯になってしまっている。どういった起伏を付けるか、どこで緊張と緩和を用いるかといったことへの気配りも足りず、のんべんだらりと筋を追い掛ける。
たまに、奇妙なタイミングでナレーションが入ったりもする。「いっそ無くてもいいんじゃないか」と思えるぐらいの回数しかナレーションは入らないのだが、例えば「ヴロンスキーと踊った数分はアンナの心を酔わせた」とか、わざわざ言葉にしなくても映像を見ていれば充分すぎるほど分かるようなことを無駄に説明しようとする。

ヴロンスキーは駅でアンナを一目見て心を奪われたようだが、そのシーンに、それほどのインパクトを感じない。アンナは、ただボーッと座っているだけだ。しかも、ヴェールで覆われていて、顔さえハッキリとは見えない。
ひょっとすると監督は、「演じるのがソフィー・マルソーだから、ただ登場させるだけで美しさが伝わるだろう」とでも思ったのだろうか。
しかし、とにかくヴロンスキーは出会ってすぐにカーッと来てしまったようだ。彼は駅でアンナを待ち伏せするなど、ほとんどストーカー状態になっている。順を追ってとか、駆け引きや心の揺れ動き、躊躇があって、などということは無い。いきなり大きな恋の炎がバアッと燃え上がる。しかし、演出が情熱を感じさせてくれないので、気持ちが入り込めない。

その後もヴロンスキーはアンナを付け回すのだが、共感ではなく不快感しか抱くことが出来ない。相手は人妻なのだし、普通は「一目をはばかって」といった配慮があって然るべきなのに、彼はお構いなしだ。
「抑え切れず」と繰り返しているが、抑えろと言いたい。
そこに情熱よりもエゴイズムを感じてしまう。
一方のアンナも、拒むのは少しの間だけ。かなり簡単にヴロンスキーを受け入れる。しかも不倫に罪悪感を抱くのかと思ったら、カレーニンに忠告されてもシラを切るどころか逆ギレに近い態度を取る。夫に対する配慮は、全く無い。何のためらいも無く、「ヴロンスキーが好きだから離婚してくれ」と冷たい態度で言い放つ。

アンナは何の躊躇も無く、何の葛藤も無く、一直線に不倫愛に突き進む。彼女にはセリョージャという息子がいるが、それが迷いに繋がることは全く無い。そしてセリョージャをポイ捨てして出て行ったのに、後になって「息子に会えない」というところで同情を誘おうとする。
しかし、そんな都合のいいだけの身勝手女に、同情なんて出来ない。

結局のところ、これは「バカな女がバカな行動を取り続けたのでバカな末路を歩みました」というバカな話である。
そんなバカな女に、何の共感も出来ようはずが無い。
ヴロンスキーに共感できないことも問題だが、アンナに共感できないことは、もっと大きな問題だろう。
アンナではなく、彼女を許そうと考えるカレーニンに同情を寄せたくなってしまうぞ。

何を抜き出し、何を捨てるのかという取捨選択の作業も不十分だったように感じる。
この作品において、レヴィンとキティーの物語がどれほどの意味を持っているのか、サッパリ分からない。2人とも最初にヴロンスキーと関わった後は、アンナともヴロンスキーとも、ほとんど関係が無いのだ。
もしかすると2組のカップルの対比を見せたかったのかもしれないが、それも上手く行っているとは思えない。
どうもヴロンスキーを語り手にしたいようだが、それなら、もっとアンナ&ヴロンスキーと絡ませるべきだろう。

 

*ポンコツ映画愛護協会