『アメリカン・バーニング』:2016、アメリカ

ウィーカイック高校を1951年に卒業した作家のネイサン・ザッカーマンは、45年目の同窓会に出席するため帰郷した。久々に母校を訪れた62歳のネイサンは、スウィードと呼ばれていたユダヤ系の生徒、シーモア・レヴォフに関する数々の展示品を見た。シーモアはネイサンの同級生で親友だったジェリーの兄で、ウィーカイック高校のヒーローだった。シーモアは州で一番のアスリートであり、フットボールでも野球でも活躍していた。
1944年、シーモアは海兵隊に入り、終戦直前になって恋人の元へ戻った。彼の恋人のドーン・ドワイヤーは配管工の娘で、ミス・アメリカの全国大会に出場した美女だ。しかしユダヤ教徒ではないため、シーモアの父で婦人用手袋の製造会社の社長を務めるルーは2人の結婚に反対していた。ロウが子供にキリスト教の洗礼を受けさせたいと主張すると、ルーは「有り得ない」と声を荒らげた。ドーンは全く妥協せずに強い態度を示し、ルーを折れさせた。数年後、シーモアは父の会社を継いで大きく成長させた。彼は職場から50キロほど離れた高級住宅地に家を建て、ニューアークのまで車で出勤した。ドーンとの間には娘のメリーが産まれ、順風満帆な生活が続いた。
同窓会に参加したネイサンは、ジェリーと再会した。「君の兄さんの展示を見たか?」とネイサンが問い掛けると、彼は「ノスタルジーは嫌いなんだ」と告げた。ネイサンがシーモアの思い出話を語ると、ジェリーは「彼は死んだ。葬式のために帰って来た。同窓会のためじゃない」と言う。ネイサンが驚くと、彼は「イカれた連中に人生をメチャクチャにされた。無関係な戦争に巻き込まれたんだ」と吐き捨てた。「知らないのか?1960年代に何をしてたんだ?」と言われたネイサンは、「ほとんど海外にいたんだ」と説明した。するとジェリーは彼に、吃音症のメリーが原因だと明かした。
メリーが12歳の頃、シーモアとドーンは彼女の吃音症について精神科医のシーラ・スミスに相談した。シーラが「彼女の吃音症は、美しい母親との競争を回避するための戦略だと思います」と話すと、シーモアは「娘は吃音を望んでいない。苦しんでいる」と告げる。シーラは「苦しみ以上の利益があるのかも」と述べ、美貌のせいで注目される母親を持つ娘の苦労を考えたことがあるかと問い掛けた。完璧主義の家族でプレッシャーを感じているのではないかとシーラが指摘すると、ドーンは感情的に否定した。
シーモアはメリーとキャンプに出掛けた翌朝、子牛の出産に立ち会うため来られなかったドーンへのプレゼントに花を摘んだ。シーモアはメリーに「キスして」とせがまれ、頬に軽くキスをした。するとメリーは「違う、本当のキス」と求め、ワンピースの肩紐を下げた。困惑しながらシーモアが再びキスすると、さらにメリーは「ママにするみたいにキスして」と頼む。シーモアは「ダメだ」と声を荒らげ、肩紐を上げろと命じた。シーモアが怒鳴ったことを詫びると、メリーは「悪いのは私。学校でも度を越してしまう」と泣いた。
シーモアは娘の吃音を早く治したいと考えるが、ルーは「時間が掛かっているだけだ。舌が脳に追い付くのを待て」と精神科医に頼ることに反対した。メリーは学校の担任に指示され、吃音日記を付けていた。彼女が「人生とは何か」という質問に「人が生きている短い時間」と答えたことを聞き、シーモアは当惑した。テレビのニュースでは、ベトナムの僧侶が焼身自殺した事件が報じられた。するとメリーはニュースに釘付けとなり、「なぜ彼は死ななきゃいけなかったの?」と泣きながら訴えた。
16歳の高校生になったメリーは、ますます政治的な出来事への関心を深めるようになった。ジョンソン大統領がテレビでベトナム戦争について話すのを見た彼女は、シーモアの前で「彼はアメリカを代表する古典的なクソ野郎よ。ベトナムの赤ん坊を焼き殺してる」と怒りを吐露した。彼女が罵倒を続けていると、ドーンは「やめて」と注意する。メリーは「戦争に無関心で幸せな中産階級のくせに」と母を批判し、「私は洗脳されてない」と告げた。
シーモアはドーンに「なぜ私に反抗するのかしら?吃音のせい?」と相談され、「ニューヨークでは友達が出来たらしい」と言う。ドーンが「賢い子だったのに、愚かになってしまった」と告げると、彼は「意志が強いだけさ。それを上手く制御できずにいる」と話す。しかしドーンは「あの子は私を嫌ってる。全く敬意が無い」と語り、ニューヨークでの友人関係への不安を明かした。メリーが変なパンフレットを持っているとドーンから聞いたシーモアは、娘の部屋に入った。すると戦争反対のポスターが貼ってあり、政府に抗議する破壊的な活動団体のパンフレットが置いてあった。
ニューアークでは黒人タクシー運転手に対する警官の暴行が発端となり、大規模なデモ行進が起きていた。シーモアはニューヨークから戻って来るメリーを駅まで迎えに行き、「政治的なことに関わったな?」と質問する。メリーが「何でも政治的なことよ」と言うと、彼は「反戦の連中と付き合ってるのか」と訊く。メリーが「戦争を正しいと信じていない人たちよ」と語ると、彼は「パパも信じてない」と告げる。「だったら何が問題?」と問われたシーモアは、「大学進学に響くのが心配だ」と答えた。メリーは「大学は反戦運動を理由に生徒を追い出すような場所よ」と言い、「ニューヨークでは皆がベトナムの問題に責任を感じている。でも、この町の人々は誰も関心が無い」と批判した。メリーは黒人によるデモにも賛同を示し、両親に自分の意見をぶつけた。
シーモアは秘書のヴィッキーから電話を受け、警察や兵士が黒人の仲間たちに向けて発砲を始めたと知らされる。翌日、シーモアは会社に泊まり込み、過激化した黒人たちの投石を受けた。暴動後も黒人の従業員を以前と変わらず迎え入れた彼は、市長から表彰されることになった。祝賀会の夜、メリーは大音量で音楽を流し、シーモアに嫌味を浴びせた。シーモアは反戦運動に没頭するメリーに、「この町でやったらどうだ?」と提案した。メリーは「郵便局の周囲をデモ行進?」と冷笑し、改革は田舎町では始まらないと主張した。シーモアは「戦争を痛感させろ」と言い、考えるよう促した。
数日後、郵便局が爆破テロの標的となり、局長のラス・ハムリンが死亡した。メリーは自宅に戻らず、ドーンは彼女が犯人ではないかと不安を抱く。メリーが仲間の女性と2人で事件を起こしたという情報が入ったため、FBIのドーラン捜査官は令状を取ってシーモアの自宅を捜索した。シーモアとドーンはラスの家を訪れ、妻のペニーにお悔やみを言う。するとペニーは、「2人のせいじゃない。貴方たちも被害者。同情するわ。貴方たちと違って、私と子供たちは家族として乗り越えられる」と告げた。
1年後、ニューアークの市役所が爆破テロの標的となり、現場からは2人の白人女性が逃亡した。使用された爆弾は、郵便局の事件と同じ種類だった。そんな中、リタ・コーエンという女性がシーモアの会社に現れ、ビジネス・スクールで革手袋産業を調べていると告げる。シーモアは取材に協力し、彼女のために手袋を作った。するとリタはメリーの友人であることを明かし、シーモアを駐車場に呼び出した。シーモアが娘に会わせてくれと頼むと、リタは「彼女はアンタを嫌ってる」と告げた。シーモアはメリーがリタと仲間たちに操られていると感じ、彼女を行かせて向こうからの連絡を待つことにした。
協力を求められたジェリーは兄の考え方に反対し、「FBIに連絡しろ」と告げた。シーモアは拒否し、内密にするよう約束させた。リタの要求を受けた彼は、1万ドルを持ってホテルへ出向いた。リタが「私を抱きに来たんでしょ」と誘惑するので、「からかわないでくれ。娘はどこだ?」とシーモアは言う。しかしリタが執拗にセックスを要求し、「その後で彼女の所へ連れて行く」と告げる。シーモアが「何の意味があるんだ?」と困惑していると、彼女はメリーの吃音を真似た。シーモアは咄嗟に部屋を飛び出し、非常階段を走る。思い直した彼が部屋に戻ると、リタは金を持って姿を消していた。
ようやくドーランに連絡したシーモアは、「貴方は行動を誤った。何もするな」と告げられた。精神を病んだドーンは会社を訪れて大声で歌い、シーモアは慌てて落ち着かせた。ドーンは入院し、療養生活に入った。シーモアから「今まで行った場中で、一番好きな場所を思い出して」と促された彼女は、「叔父の家があった海岸。ライフガードはカトリックの私立高校に通う男子生徒たち。彼らの誰かと結婚していたら」と語った。別の日には、「貴方が私に付きまとったせいよ。音楽の教師になるのが夢だった」とシーモアを責めた。
精神科を退院したドーンは、スイスの形成外科医に強い関心を示した。彼女は整形すれば人生をやり直せると主張し、シーモアはシーラに相談する。シーラは「トラウマや病気に悩む女性が整形で生まれ変われることもある」と語り、スイスへ同行するよう勧めた。「過去を忘れられるわ。ドーンはそれを望んでる」と言うと、シーモアは「過去はメリーだ。忘れたくない」と告げた。しかし結局、彼はドーンの整形を認めた。ドーンは以前のような明るさや積極性を取り戻し、抽象画家のビル&ジェシー・オーカット夫妻と親しくなった。シーモアは画廊を訪れた帰りにリタを目撃し、後を追ってメリーの居場所を教えるよう詰め寄った…。

監督はユアン・マクレガー、原作はフィリップ・ロス、脚本はジョン・ロマーノ、製作はトム・ローゼンバーグ&ゲイリー・ルチェシ&アンドレ・ラマル、製作総指揮はエリック・リード&テリー・A・マッケイ&クイン・ロン、共同製作はゼイン・ウェイナー、共同製作協力はシェン・ボー&チョウ・シーシン、撮影はマーティン・ルーエ、美術はダニエル・B・クランシー、編集はマリッサ・ケント、衣装はリンジー・アン・マッケイ、音楽はアレクサンドル・デスプラ。
出演はユアン・マクレガー、ジェニファー・コネリー、ダコタ・ファニング、デヴィッド・ストラザーン、ピーター・リガート、ルパート・エヴァンス、ウゾ・アドゥーバ、モリー・パーカー、ヴァロリー・カリー、ハンナ・ノードバーグ、ジュリア・シルヴァーマン、マーク・ヒルドレス、サマンサ・マシス、オーシャン・ナル・ジェームズ、デヴィッド・ウェイレン、コリー・ダニエリー、デヴィッド・ケース、マックス・イヴシッチ、チャック・ダイアモンド、ブライアン・クネーベル、カーター・エリス、ニック・マーゾック、トミー・ラフィッテ、イドロ・ジノビル他。


ピューリッツァー賞を受賞したフィリップ・ロスの小説を基にした作品。
主演のユアン・マクレガーが、初めて長編映画の監督を務めている(1999年のオムニバス映画『チューブ・テイルズ』で短編の監督は経験している)。
脚本は『最後の初恋』『リンカーン弁護士』のジョン・ロマーノ。
シーモアをユアン・マクレガー、ドーンをジェニファー・コネリー、メリーをダコタ・ファニング、ネイサンをデヴィッド・ストラザーン、ルーをピーター・リガート、ジェリーをルパート・エヴァンス、ヴィッキーをウゾ・アドゥーバ、シーラをモリー・パーカー、リタをヴァロリー・カリーが演じている。

冒頭、ネイサンは人々に高校へ戻り、「当時の活気を思い出す。アメリカは戦争に勝利した。大恐慌は終焉を迎え、人々の苦悩も終わりを迎えた。高揚感が人から人へと伝染し、皆が一体となって歓喜に酔いしれた瞬間だった」とナレーションを語る。
そしてシーモアについて、「彼を見ていると人は現実逃避できた。戦争を忘れられた」と話す。
彼は「シーモアが家を建てて順風満帆な生活が続いて」と語った後、「彼の人生は、こんな風にずっと順調だと思っていた。明るい未来が彼の前に開けていると。彼はヒーローなのだから」とナレーションを続ける。
シーモアがヒーローだった時代は、アメリカが幸福感で高揚していた時期と合致するわけだ。

ネイサンを語り手にしてシーモアの半生を回想形式で綴るのは、表面的な部分だけを捉えると必要性の無い形式だ。
しかし、「ネイサンがジェリーから話を聞いてシーモアの悲劇を知る」という形を取っていることには、実は大きな意味がある。
それは、シーモアの物語が彼個人の物語ではないということだ。
シーモアとメリーの対立は、決して「この家族特有の出来事」ではない。その当時のアメリカでは、そう珍しくもない出来事だった。

そしてシーモアの身に起きた出来事は、アメリカが辿って来た道を象徴している。いや、もはやシーモアというキャラクターは、アメリカという国そのものだと言ってもいいぐらいなのだ。
シーモアの苦悩はアメリカの苦悩であり、家族の崩壊はアメリカという国家の崩壊だ。
1960年代のアメリカは夢や希望に溢れていたが、1970年代になって国家の正義に対する疑念が高まり、過激な政治運動が広まった。しかし歳月が過ぎると、そこに没頭した若者たちは麻薬による堕落へ向かう。
その変化に1970年代の若者たちは将来設計なんて考えず、目の前にある熱情のままに突き進めばいいと思っていた。だが、それが結局は身を滅ぼす羽目になる。
この映画はシーモアの半生を通じ、アメリカが抱える闇や歪み、腐敗や欺瞞を描いているのだ。

シーラが「彼女の吃音症は、美しい母親との競争を回避するための戦略だと思います」と話すと、シーモアは「娘は吃音を望んでいない。苦しんでいる」と告げる。シーラは「苦しみ以上の利益があるのかも」と述べ、美貌のせいで注目される母親を持つ娘の苦労を考えたことがあるかと問い掛けた。
これはシーラの思い込みやトンチンカンな診察ではなく、どうやら真実を言い当てているという設定のようだ。
それはメリーがシーモアに本気のキスをせがむシーンから推測できる。
メリーはドーンに対抗心を抱いており、シーモアに「自分もママのように愛してもらいたい」と思っていたのだ。

幼い娘が母親に対して「父親を奪い合う競争相手」としてのライバル意識を持つのは、そんなに珍しいことではない。
ただしメリーの場合、かなり曲がった形で表れてしまった。
そこには、美人で完璧すぎる母に対する強烈な劣等感が影響していたのだろう。
そして正面から母と対決しても勝てないので回避しようとする意識、周囲からのプレッシャーから自分を守ろうとする意識が、彼女の言動を次第に歪ませていったのだろう。あまりにも神経が研ぎ澄まされたせいで、メリーは深い闇に落ちたのだろう。

リタはシーモアに対し、「プエルトリコの労働者の賃金は?」「手袋を縫うお針子たちは視力を失っていく」と責めるように問い掛ける。
シーモアは「海外に工場は無い」「従業員を見ただろ?搾取されてたら40年も働くか?」と反論するが、リタは全く耳を貸さない。
彼女は工場を見学しており、シーモアが決して批判されるような経営者でないことは分かるはずなのに、目の前の現実を認めようとしない。
彼女にとっての真実は、「自分が決め付けている図式」の中にしか存在しない。

リタが断定しているのは、「哀れな労働者が銭ゲバの経営者から搾取される」という図式だ。
なのでシーモアはリタにとって悪人でしかなく、彼が何を言っても受け入れようとしない。
リタのような厄介な活動家は、自分たちは貧しい労働者や不幸な庶民の代弁者として行動していると思い込んでいる。
そして政治的な問題に積極的に加担しない人間も、自分たちに共鳴しない人間も、全て憎むべき敵だと決め付けるのだ。

そして厄介なことに、ドーンもリタと同じ病を患っている。
リタはシーモアに対し、「ドーンは自分の出生を恥じている。娘を貴族階級に仕立てた。美の女王とアメフト花形選手の娘。悪夢だわ」と話す。シーモアが「娘は6歳から牛の世話をしてトラクターに乗っていた」と否定しても、リタは全く認めず「上流階級の地主を気取っていた」と批判する。
これはリタの個人的な考えじゃなく、ドーンも同じような意見なのだろう。
思想犯ってのは自分が絶対的に正しいと思い込んでいるので、周囲が何を言おうと無駄なのだ。

終盤、シーモアはリタを追及し、メリーの居場所まで案内させる。
メリーは何年もの間、地下組織の一員だったシーラの手助けで逃亡を続けていた。しかしシカゴで監禁されて、大勢にレイプされた。その後、インドのジャイナ教に入信し、質素な生活を送っていた。
ただ、酷い目には遭っているが、その前に爆破テロを起こしたことは事実だ(っていうか、なんで組織の連中が彼女をレイプしたのかサッパリ分からない)。
幾ら宗教に入信したところで、その罪は決して消えない。「メリーが原因でシーモアは人生をメチャクチャにされた」というジェリーの怒りは、大きく間違っていない。

さて、ここまで「それっぽい批評」を書いて来たけど、実は頑張って捻り出した内容だ。作品の本質を的確に捉えた批評だとは、微塵も思っていない(ダメじゃねえか)。
最初に出て来た感想は、「辛気臭い映画だな」というモノだった。なので、ここまで書いて来たことは、全て無視しても構わない。
深く考えずに娯楽映画として観賞した場合、ただ「陰気で救いが無いだけの話」でしかないからね。
ちなみに、「日本人だから分かりにくいんじゃないか。アメリカ人なら印象が全く違うんじゃないか」と思うかもしれないが、ローリングストーン誌が選ぶ2016年の年間ワースト映画トップ10で8位に選ばれている。

(観賞日:2021年7月3日)

 

*ポンコツ映画愛護協会