『オール・ザット・ジャズ』:1979、アメリカ

ミュージカル演出家で映画監督のジョー・ギデオンは洗面所で音楽を流し、鏡の前に立つ。目薬を差し、薬を飲み、煙草をくゆらせながら鏡に写る自分に「イッツ・ショータイム」と告げる。劇場へ赴いた彼は、煙草を吸いながらミュージカルのオーディションで審査を担当する。大勢のダンサーが舞台で踊り、ジョーが目を留めた面々に話し掛ける。彼は女性ダンサーの顔触れだけを決定するが、その中には個人的な感情を抱いたヴィクトリアも含まれている。ヴィクトリアが音痴だったのでプロデューサーのジョンジーたちは反対するが、ジョーは「他の奴に歌わせる」と押し切った。
オーディション会場には、ジョーの別れた妻であるオードリーと幼い娘のミシェルも来ている。オードリーはミュージカルの主演女優でもあり、ジョーは「あの5人に決めた」と告げる。ミシェルと週末を過ごす約束についてオードリーが確認すると、ジョーは「忘れてた。週末は仕事だ」と言う。オードリーは呆れ、ミシェルは寂しそうに「いいの」と諦める。編集室に移動した彼は、撮影した映画のフィルムを確認する。スタンダップ・コメディアン役のデイヴィス・ニューマンが店で大受けするシーンを試写室で流していると、恋人で女優のケイティーが来る。「後で行ってもいい?」と訊かれたジョーは、「今夜は遅くなる」と嘘をついた。
ジョーは最近、天使と話す機会が増えている。彼女はジョーにだけ見える存在で、笑顔で告白を聞いてくれるのだ。仕事を終えたジョーは、ヴィクトリアを部屋に呼ぶ。「映画スターになりたいの。なれると思う?」と問われた彼は、「無理だろう」と答える。ヴィクトリアとセックスしたジョーがベッドで眠り込んでいると、ケイティーがやって来た。部屋に入った彼女は、ジョーとヴィクトリアを見てショックを受ける。ジョーが目を覚ますと、彼女は「ごめんなさい。黙って入って来たから」と告げて部屋を去った。
次の日、ジョーはケイティーから、半年のツアーら出る仕事のオファーがあることを聞かされる。「どう思う?」と問われたジョーは、「君を愛しているが、自分のことを考えろ。君のためには行った方がいい」と告げた。彼の冷淡な態度を見たケイティーは、マイケル・グレアムというダンサーに電話を掛けてデートの約束を交わした。「俺の電話だぞ」とジョーが言うと、彼女は「貴方は大勢の女と遊ぶ」と指摘する。ジョーは全く悪びれず、「俺と一緒にいろ」と告げる。「貴方は下半身に正直すぎる」とケイティーが泣きそうな表情で口にすると、ジョーは「上手い表現だな。いつか使おう」と述べた。しばらく考えたジョーが「ツアーには行くな。俺と一緒にいろ」と言うと、ケイティーは喜んで抱き付いた。
作曲家のポールが用意した曲を披露すると、プロデューサーたちは気に入った。ジョーはクソみたいな歌だと感じるが、受け入れざるを得なかった。映画の方は撮影延長に加えて編集に7ヶ月も費やしており、ジョーはプロデューサーのジョシュアに「3倍も時間が掛かっているし、予算も大幅に超過している」と激怒される。しかしジョーは適当に受け流し、編集したシーンを見るよう促して舞台のリハーサルに向かう。そのシーンを見たジョシュアは、「良くなってる」と認めた。
ジョーが稽古室でダンサーたちを指導した後、ミシェルの練習に付き合う。再婚しないのかと訊かれた彼は、「二度としない。あんな苦痛を相手に与えたくない」と言う。「ケイティーは?いい人よ」とミシェルが告げると、彼は「いい人だ。だからこそ結婚しない」と話す。「どうして結婚させたいんだ?」とジョーが尋ねると、彼女は「浮気しなくなるでしょ」と答えた。ミシェルを車に乗せて見送った後、1人になったジョーは激しく咳き込んだ。
稽古が続く中、ヴィクトリアはジョーから厳しく注意される日々が続く。彼女が泣き出したので、ジョーは「ごめん」と告げた。するとヴィクトリアは「私が悪いのは分かってるの。自分でも恥ずかしい」と漏らした。「辞めた方がいいのかも」と弱音を吐く彼女に、ジョーは「一流のダンサーは無理かもしれない。だが、続けていれば良くなる。君を育ててみたい」と語る。頑張って踊ったヴィクトリアは、ジョーから「良くなった」と褒められると感涙した。
ジョーはバリンジャー医師の検診を受けるが、その最中も煙草を吹かす。問題は無いと言われ、ジョーは舞台の稽古を続ける。振り付けのアイデアが出て来なくなったジョーは、ポールの伴奏で練習しているオードリーの元へ行って心情を吐露する。オードリーがポールに「気にしないで。いつも彼は同じことを言うのよ」と軽く告げると、ジョーは強い苛立ちを示した。彼が「君が24歳の役を演じるというから、やってるんだ」と声を荒らげると、オードリーは冷笑して「私は出来るわ。辞めたければどうぞ。このショーを貴方が演出するのは、私への罪滅ぼし。いつも私を裏切ってた」と告げた。
これまでの浮気相手についてオードリーから改めて名前を聞かされたジョーは、新しい演出のアイデアを思い付いた。それは露出度の高い服装でエロティックに踊る演出であり、ジョンジーたちは戸惑いを隠せなかった。ジョーは映画の試写をするが気に入らず、再編集することを決めた。映画を完成させたジョーのために、オードリーとミシェルはミュージカルシーンをパフォーマンスした。ジョーは稽古が続く中で心臓発作を起こし、病院に運ばれた。診察したバリンジャーは、「狭心症の発作だ。舞台に出れば死ぬ」と警告した。
2週間から3週間の入院が必要だと言われたジョーは、「ふざけるな。ショーがあるんだ」と感情的になる。しかし頭に血が昇り、意識を失ってしまった。ジョンジーは舞台の延期を決定し、出演者とスタッフに「ショーは必ず開催する」と約束した。しかしジョーの復帰を待てば去る者が出るのは確実であり、ジョンジーは親しくしている演出家のルーカスに相談した。ジョーは入院中も看護婦の目を盗んで喫煙するなど、おとなしく過ごそうとしなかった…。

監督はボブ・フォッシー、脚本はロバート・アラン・アーサー&ボブ・フォッシー、製作はロバート・アラン・アーサー、製作協力はケネス・フィット&ウルフギャング・グラッテス、製作総指揮はダニエル・メルニック、撮影はジュゼッペ・ロトゥンノ、美術はフィリップ・ローゼンバーグ、ファンタジー・デザイナーはトニー・ウォルトン、編集はアラン・ハイム、衣装はアルバート・ウォルスキー、振付はボブ・フォッシー、編曲&指揮はラルフ・バーンズ。
出演はロイ・シャイダー、ジェシカ・ラング、アン・ラインキング、リーランド・パーマー、クリフ・ゴーマン、ベン・ヴェリーン、エリザベート・フォルディー、ジョン・リスゴー、マイケル・トーラン、マックス・ライト、ウィリアム・ルマセナ、クリス・チェイス、デボラ・ジェフナー、キャスリン・ドビー、アンソニー・ホランド、ロバート・ヒット、デヴィッド・マルグリーズ、スー・ポール・キース・ゴードン、フランキー・マン、アラン・ハイム他。


『キャバレー』『レニー・ブルース』のボブ・フォッシーが監督を務めた作品。
脚本は『グラン・プリ』『失われた男』のロバート・アラン・アーサーとボブ・フォッシーによる共同。
ジョーをロイ・シャイダー、アンジェリークをジェシカ・ラング、ケイトをアン・ラインキング、オードリーをリーランド・パーマー、デイヴィスをクリフ・ゴーマン、オコナーをベン・ヴェリーン、ミシェルをエリザベート・フォルディーが演じている。

ボブ・フォッシーは心臓発作で入院して死期が近いと医者に言われ、この映画を製作しようと決めたらしい。
しかし、ボブ・フォッシーが死去するのは1987年9月なので、ちっとも死期は近くなかったわけだ。だから当然のことながら、この後にも映画を撮っている。
そして遺作となったのは、女優がヒモに殺された実話を基にしたゴシップ映画の『スター80』だった。
こっちの映画が遺作なら実話として美しいんだけど、人生ってのはそんなに上手く行くもんじゃないのよね。

映画の世界でキャリアを重ね、充分な地位を確立させた監督は、「自分語りの映画」を撮っても許されると個人的には思っている(ただし生涯に1本限定で)。
それは大物監督だけに許される特権だ。
デビューしたばかりの若僧が自身の人生を綴って内面を描く映画を撮っても、観客からすると「アンタのことを全く知らないんだから、その人生を振り返られても興味が湧かない」ってことになる可能性が高い。
よっぽど波乱万丈だったりキテレツだったりすれば興味を誘うだろうけど、それによって喚起された興味は「監督の内面に共鳴する」ってのとは別物だろう。

「自分語りの映画」として代表的なのは、フェデリコ・フェリーニ監督の1963年作品『8 1/2』だろう。
既に『道』や『甘い生活』などで世界的に有名な監督となっていたフェリーニが、映画製作や対人関係に苦悩する自身を主人公に投影して撮った作品だ。
そして、そんな『8 1/2』を明らかに意識して作られたのが、この『オール・ザット・ジャズ』だ。
ボブ・フォッシーは映画監督よりも振付師としての仕事が多い人だが、それでも「自分語りの映画」を撮る資格を有した人物と言って差し支えないだろう。

ジョー・ギデオンがオリジナルに造形された架空の人物であっても、もちろん「体調不良になろうと、家族を犠牲にしようと、演出に執念を燃やし続けるミュージカル馬鹿の生き様」という物語に全く魅力が無いわけではない。
しかし、それが「ボブ・フォッシーを投影したキャラクター」になった時、その深みや意味合いは格段に違ってくる。
何しろアン・ラインキングなんて、フォッシーの当時の愛人だしね。
つまり、本物の愛人が、フォッシーをモデルにした主人公の愛人役を演じているってことなのよ。

劇中でジョーが監督を務めた映画『スタンド・アップ』は、ボブ・フォッシーの手掛けた『レニー・ブルース』がモデルだ。
つまり、苦労して『レニー・ブルース』を完成させたが、評論家に酷評を浴びたってことを描いているわけだ。
他にも、ジョーにボブ・フォッシーを重ねることで、3番目の妻であるグウェン・ヴァードンや娘のニコル・フォッシー、愛人のアン・ラインキングとの関係がどういうものだったかを観客が感じ取れるようになっているわけだ。
この映画が数々の映画賞を獲得したのも、「ボブ・フォッシーの自分語り映画」ってことは間違いなく大きな影響を及ぼしている。

この映画を心底から楽しみ、本質的部分まで充分に味わいたいと思うのであれば、ボブ・フォッシーについて詳しく知っておく必要がある。
前述したように、自分語り映画は大物に許された特権だが、「どのように自分語りをしているのか」を観客が理解するには、監督に関する知識が必要となる。
ボブ・フォッシーについて何も知らない人からすれば、無名の新人監督が撮ったのと何も変わらないわけで。
そういう意味では、一定のハードルを越えることは要求される映画と言えよう。

家庭を顧みず、身勝手な行動を繰り返しているにも関わらず、ジョーは妻からも娘からも愛されている。愛人がいることを知っているのに、妻は呆れ果てた様子を見せることもあるが、ジョーへの愛を注ぎ続ける。
愛人であるケイティーは、ジョーが他にも多くの女と寝ていることをしりながらも、彼から離れようとせず、自分だけを愛してほしいと願い続ける。
「そんな都合のいいことがあるもんか。ボブ・フォッシーが自分を美化しているか。もしくは家庭を犠牲にしたり愛人を作ったりしていることを自己弁護しているんだろう」と思うかもしれないが、事実なんだから仕方が無い。
そりゃあ多少の美化や自己弁護は含まれているかもしれないが、彼は周囲に迷惑を掛ける身勝手な男でありながらも、「ミュージカル馬鹿」として愛される存在だったのだ。

ジャンル分けをするならば、これは「ミュージカル映画」に属するのかもしれない。
ただ、実際に観賞して、ミュージカル映画という印象は乏しい。
前半から出演者が歌ったり踊ったりするシーンはあるが、それは「ジョーが演出する舞台の稽古や本番」としての描写である。いわゆる「バックステージ物の1シーン」のようなモノだ。
また、ミュージカルシーンは全て『シカゴ』のように「出演者が舞台で歌い踊る」という形に限定されており、ドラマ部分と完全に分断されている。

残り30分ぐらいになってから、「手術を受けたジョーが妄想する」「死の迫ったジョーが妄想する」という形で、ミュージカル・シーンが用意されている。だから終盤になると、ミュージカル・シーンの割合が一気に増える。
しかし全体で考えると、ミュージカル・シーンは少ない。
例えば、ジョーが死期を感じるタイミングを前半に置いて、そこからエリザベス・キューブラー=ロス医師が提唱した「死の受容のプロセス(否認、怒り、取引、抑鬱、受容)」をミュージカルとして描けば、「ミュージカル映画」としての色合いは濃くなっただろう。
ボブ・フォッシーが死期を感じて製作した映画なのだから、もっと「ミュージカル映画」としての色が濃いのかと思いきや、それよりも「自分なりの『8 1/2』を撮りたい」という意識が圧倒的に強かったのかな。

途中で何度も「ジョーが天使と語る」という妄想シーンが挿入されるなど、決して取っ付きやすい映画とは言えない。
そんな中で一服の清涼剤とも言える存在がミシェルであり、「ジョーが彼女と一緒にいる時だけは優しい父親としての一面を見せる」ってことで、主人公の好感度も引き出している。
ジョーがバレエの練習を切り上げようとすると、まだ続けたいミシェルは抱き付いたまま離れようとしない。その様子は、ホントに愛らしい。オードリーと一緒にミュージカルシーンを披露するシーンも、文句無しに魅力的だ。
決して楽しい映画ではないが、彼女の登場するシーンだけは明るい雰囲気に満ち溢れている。

(観賞日:2016年1月29日)


1979年スティンカーズ最悪映画賞

ノミネート:【最悪の助演男優】部門[マックス・ライト]

 

*ポンコツ映画愛護協会