『アラモ』:2004、アメリカ

1718年、スペインは布教の目的でアラモを建てた。その後、1世紀以上も続いた戦いで宗教的な意味を失い、反乱者の略奪や軍隊の侵攻を防ぐ砦となった。1836年、テキサス陸軍のサム・ヒューストン将軍はアラモ陥落の知らせを受けた。その1年前、ワシントンでパーティーに参加した彼は、顔見知りのデイヴィー・クロケットから声を掛けられる。ヒューストンがテキサスに着目していることを話すと、「まだメキシコの領土じゃないか」とクロケットは言う。ヒューストンが「テネシーが失った自然がテキサスにはある。民兵に志願した者には、好きな場所に土地を与える」と語ると、彼は「テキサス共和国が出来たら、大統領が必要だ」と述べた。
テキサスのサン・フェリペ。ヒューストンは「この戦争はまだ終わっていない」と軍隊の分散に反対し、ジェームズ・グラントたちの反感を買って正規軍司令官を解任されそうになる。そこへ義勇兵のジム・ボウイが現れ、グラントを威嚇した。アラモの守備に向かおうとするウィリアム・トラヴィスは、妻のロサナから離婚を求められて書類に署名した。ヒューストンはボウイと酒を酌み交わして「テキサスを食い物にしてやがる」とグラントたちへの憤りを吐露し、「メキシコ軍は必ず戻って来る。素人の寄せ集めじゃ歯が立たない」と告げた。「アラモに戻って大砲を取って来てほしい。お前が頼りだ」と彼が言うと、ボウイは承諾した。
トラヴィスは息子のチャーリーを信頼できる知人に預け、アラモへ旅立った。サン・アントニオに戻ったボウイは、亡くなった妻のことを思い出した。トラヴィスは騎兵隊と別れ、アラモを視察した。彼は別の町へ行くことになったジェームズ・C・ニール大佐から、アラモの指揮官に任命された。ネイルはトラヴイスに、義勇兵と正規兵の争いを防ぐよう告げた。トラヴィスはボウイと会い、砦を破壊して大砲を町に移すという噂について質問した。自分が指揮官になったことをトラヴィスが話すと、ボウイと仲間たちは冷笑した。
クロケットは多くの志願兵を率いてアラモに入り、トラヴィスたちと合流した。メキシコ軍のサンタアナ将軍は、捕まえた反乱兵を全て射殺させた。トラヴィスはボウイが「部下の規律を正せ」という要求を無視したことを受け、部下たちを逮捕した。ボウイが激怒して詰め寄ると、「秩序を守るためだ」と告げた。ボウイが妻のことで嫌味を浴びせると、トラヴイスも負けずに言葉を返した。ボウイが喧嘩を始めようとすると、クロケットが仲裁に入った。
メキシコ軍がサン・アントニオに近付くと、市民は混乱に陥った。トラヴィスは伝令を送るため急いで書状を作成し、クロケットに防護柵の警備と大砲の人員配置を任せた。ボウイはトラヴィスの指示を待たず、独断でメキシコ軍との和平交渉に入った。それを見たトラヴイスは、近くの建物に大砲を撃ち込ませた。戻ったボウイが激怒すると、トラヴィスは「休戦は優位に立った時にする物だ。苦し紛れの交渉など認めない。降伏したら、それが終わりだ」と言い放った。メキシコ軍のマヌエルはボウイに対し、無条件降伏を要求するサンタアナの書類を渡していた。
ボウイは病気を患い、黒人奴隷が介護に当たっていた。メキシコ軍による最初の砲撃が行われ、トラヴィスは総攻撃に入るまで夜毎に繰り返すだろうと確信した。トラヴィスはボウイを見つけ、部下の前で暴言を吐いたことを謝罪した。するとボウイは、「気にするな。奴らはお前が言ったことの半分も分かっちゃいない」と告げた。トラヴィスが「方針を合わせておきたい。兵力不足でも降伏には反対だ。将軍が来るまで時間を稼いで踏ん張りたい」と話すと、ボウイは「お前の言い方は損をするぞ」と告げた。
クロケットと義勇兵のウィリアム・ワードがメキシコ軍の動きを観察していると、ホワン・セギン大尉が来てサンタアナの居場所を教えた。サンタアナが砲台を前に動かすよう部下に指示していると、クロケットが狙撃した。しかし弾は狙いを外れ、サンタアナは砲弾を砦に撃ち込ませた。爆発せずに地面を転がると、再利用できると考えたトラヴィスは火縄を外して回収した。彼は隊長のディッキンソンに渡し砲弾を渡し、メキシコ軍を砲撃させた。その様子を見ていたボウイは、義勇兵にトラヴィスの指示を聞くよう命じた。
ヒューストンは援軍を要請するトラヴィスからの手紙を受け取り、メキシコ州議会議員の面々に「私が兵を集めてアラモを解放する。その前にテキサスの独立を果たし、全世界から法的に承認される政府を誕生させねばならない。そのために、アラモの兵士たちは必死で戦っている」と語った。トラヴィスは一向に援軍が来ないことを受け、セギンに手紙を託して派遣した。ヒューストンは作戦を議員たちに説明し、自分が全軍を指揮すると宣言した。
メキシコ軍はアラモを包囲し、一斉射撃を開始した。テキサス軍は反撃し、敵を一時撤退に追いやった。兵士たちは大いに盛り上がるが、夕方には砲撃を受けた。奴隷のジョーやサムたちはトラヴィスから、穴を掘る仕事を指示されていた。サムはジョーに、「メキシコの法律では奴隷がいない。だが、俺たちは今でも奴隷だ。だからメキシコ人が壁を越えて来たら、撃つなと言え。それで素通りする」と語った。「トラヴィスさんは俺に銃をくると言った」とジョーが困惑した様子で告げると、サムは「こんなに扱き使われて、命まで投げ出してどうするんだ」と述べた。
テキサスのゴンザレス。ヒューストンは集まった兵士の数が予想を遥かに下回ったことから、セギンたちに「もっと充分な人数が集まるまで、出陣は無理だ」と告げた。セギンが「トラヴィスにどう説明すれば?」と慌てて尋ねると、ヒューストンは残るよう命じた。アラモには32人の男たちが志願兵として駆け付けるが、トラヴィスが頼りにしていたファニン司令官の援軍は来なかった。それでもクロケットは動揺を隠し、志願兵を笑顔で迎えた。
病気で寝込んでいたボウイは、義妹のフアナに看病されて意識を取り戻した。ボウイはフアナとサムに、「今はここを離れろ。サンタアナの気が変わらない内に」と指示する。サムは立ち去るが、フアナは「貴方は姉の愛した人。家族として繋がっている」と告げて留まることを選んだ。トラヴィスはクロケットから「皆に何か言ってくれ」と頼まれるが、「言葉が見つからない」と苦悩を吐露する。しかし「ここの連中は苦難に耐えている。真実を知る必要がある」とクロケットに言われ、皆の前に赴いた。トラヴィスは将軍からの手紙に援軍が来る時期が記されていないことを明かし、「救援は来ないと思う」と正直に話す。彼は「命を投げ打つ覚悟で、何を守ろうとしているのか。全てはテキサスのためだ」と熱く語り、アラモに留まって戦うよう訴えた…。

監督はジョン・リー・ハンコック、脚本はレスリー・ボーエム&スティーヴン・ギャガン&ジョン・リー・ハンコック、製作はマーク・ジョンソン&ロン・ハワード、製作総指揮はトッド・ハロウェル&フィリップ・ステュアー、製作協力はK・C・ホーデンフィールド、撮影はディーン・セムラー、美術はマイケル・コーレンブリス、編集はエリック・L・ビーソン、衣装はダニエル・オーランディー、音楽はカーター・バーウェル。
出演はデニス・クエイド、ビリー・ボブ・ソーントン、ジェイソン・パトリック、パトリック・ウィルソン、ジョルディ・モリャ、エミリオ・エチェヴァリア、マーク・ブルカス、レオン・リッピー、マット・オレアリー、エドウィン・ホッジ、W・アール・ブラウン、カスチュロ・ゲッラ、トム・エヴェレット、アフェモ・オミラミ、トム・デヴィッドソン、ロバート・プレンティス、ケヴィン・ペイジ、ジョー・スティーヴンス、スティーヴン・ブルトン、ローラ・クリフトン、リカルド・S・チャヴィラ、スティーヴン・チェスター・プリンス、クレイグ・エリクソン、ニック・コキッチ、リチャード・ナンス、ジェット・ガーナー他。


テキサス独立派がメキシコ軍を破った1836年の「アラモ砦の戦い」を題材にした映画。
監督は『オールド・ルーキー』のジョン・リー・ハンコック。
脚本は『デイライト』『ダンテズ・ピーク』のレスリー・ボーエム、『英雄の条件』『トラフィック』のスティーヴン・ギャガン、ジョン・リー・ハンコックによる共同。
ヒューストンをデニス・クエイド、クロケットをビリー・ボブ・ソーントン、ボウイをジェイソン・パトリック、トラヴィスをパトリック・ウィルソン、セギンをジョルディ・モリャ、サンタアナをエミリオ・エチェヴァリアが演じている。他に、エミリー・デシャネルがロサナ役で、ランス・ハワードがスミス知事役で出演している。

この作品は、「観客はアラモ砦の戦いについて詳しく知っている」という前提で作られている。
だから映画が始まると、いきなり「アラモが陥落した」という知らせが届く。そこから回想として、アラモを巡る戦いの理由や陥落の経緯が示されることも無い。どういう経緯でテキサス軍とメキシコ軍が対立することになったのかは、まるで描かれない。
なぜテキサスが独立を目指すのかも、まるで示されない。テキサス軍にアメリカの兵士たちが多く参加する理由も、何も説明されない。
その戦いにおいてアラモがどういう意味を持つのか、なぜ双方がアラモにこだわるのかも、全く説明が無い。

「観客が詳しく知っているはずだ」というスタンスは、登場人物についても同様だ。だからジム・ボウイやデイヴィー・クロケットは「あのボウイ、あのクロケット」として登場するが、どういう理由で英雄視されているのかは全く説明されない。
彼らも含め、主要キャラを丁寧に紹介するための手順は用意されていない。
例えばヒューストンを指揮官から解任しようとする面々が何者なのかも、全く説明が無い。
「アメリカじゃ有名すぎる話だから、いちいち説明しなくてもいいでしょ」ってことだろう。

アラモ砦の戦いを日本で例えるのは難しいかもしれないが、関ヶ原の戦いみたいな出来事ってことだろうか。
ってことは、これを日本の映画に置き換えると、関ヶ原の戦いを題材とした作品で、どういう経緯で戦いが勃発したかを全く説明しないってことだ。
合戦に参加する主要な人物についても、全く紹介しないってことだ。誰と誰がどういう関係なのか、どういう過去があるのかを、バッサリと割愛するってことだ。
そんな風に考えると、「さすがに説明が不足しすぎだろ」と言いたくなるぞ。

この映画には、「アラモ砦の戦いは、本当にアメリカが誇れるべき戦い、美化できる戦いなのか」という疑問がある。
劇中でも軽く言及しているが、当時のテキサスはメキシコの領土だった。そこでの戦いにアメリカの軍人たちが参加してメキシコ軍を排除し、テキサス独立まで持ち込むってのは、ただの侵略行為ではないのか。
劇中、クロケットの友人であるメキシコ人が「汚い白人野郎は全世界を支配しようとしている」と言うシーンがあるが、そういう行為じゃないのかと。
当時のアメリカでは黒人が奴隷として扱き使われていたし、「WASPの傲慢で横暴な行為じゃないのか」と言いたくなるし。

これを日本で例えるなら、満州事変を「誇るべき出来事」として映画化するようなモンだろうか。
仮に誰かがそういう企画を立てたとして、少なくとも大手の映画会社は製作しないだろう。満州事変を描く時に「日本の正義」「日本の大勝利」として肯定的に描くってのは、決して有り得ないことだ。
しかしアメリカは、かつて先住民を悪者にした西部劇が多く作られたように、侵略行為を「正義」として描くことを当たり前にやっていた国だ。
ベトナム戦争が勃発して以降は批判的に捉える作品も増えたが、相変わらず「アメリカは正義」という映画も作られ続けている。

アラモ砦の戦いを舞台にした映画と言えば、ジョン・ウェインがデイヴィー・クロケット演じた1960年の『アラモ』が有名だ。
今回の映画では、それと比較して「もっとリアルに」という意識があったようだ。
リアル志向そのものに関しては、それだけで間違った方針と言うことは出来ない。
ただ、そういう方針を打ち出した結果として出来上がった映画は、登場人物の魅力に乏しく、物語の盛り上がりに欠ける。それは失敗と断言してもいいだろう。

クロケットは旧友に会いに来ただけのに、戦いに巻き込まれてしまったという設定だ。一応は「クロケットの伝説を守るために振る舞う」という動かし方をしているが、派手に活躍することは無い。
ボウイに至っては、序盤から病気を患っており、途中で寝込んでしまう。その後、意識は取り戻したものの戦いに参加することは出来ず、ベッドで休んでいたトコを襲われて死んでいる。
まだトラヴィスは演説をぶつシーンがあるだけ2人よりマシだが、英雄としての存在感を発揮するわけではない。
最終的にトラヴィスたちの軍はメキシコ軍との戦いに敗れるのだが、人物やドラマ描写が弱いため、そこには滅びの美学も悲劇のカタルシスも無い。

最終的には「敵が分散するのを待つ」というヒューストンの作戦が功を奏し、わずかな18分でメキシコ軍を敗北させている。
だけど、それで「アラモ砦の復讐を果たした」という印象を受けるかというと、答えはノーだ。「アラモ砦の人々が犠牲になったのは、アンタが援軍を送らなかったからじゃないのか」という疑念が残る。勝利のために、アラモ砦の軍を見捨てたんじゃないのかと。
それと、アラモに固執しなくてもメキシコ軍を敗北に追いやれば目的は達成できるんだから、そもそも「アラモに集まって戦う」という考え自体が過ちだったんじゃないのかと。実際、ヒューストンの軍勢はアラモが陥落した後で勝利しているんだから。
いや、もちろん「そこには事情があって」ということだとは思うのよ。ただ、その辺りの説明も不足しているから、色々と引っ掛かっちゃうのよ。

(観賞日:2018年12月6日)


第27回スティンカーズ最悪映画賞(2004年)

ノミネート:【最も嬉しくないリメイク】部門

 

*ポンコツ映画愛護協会