『A.I.』:2001、アメリカ

近未来、温暖化の影響で多くの都市が水没した地球では食料問題が深刻となり、ロボットが人間の代わりに雑用を行うようになっていた。そんな中、サイバトロニクス社の発表会が開かれ、ホビー教授は感情を持ったロボットの開発を宣言した。
20週間後、ホビー教授は少年の姿をした新型ロボット、デヴィッドの実験を行うことにした。彼が目を付けたのは、社員のヘンリーとモニカのスウィントン夫妻だ。2人にはマーティンという息子がいたが、治療法の無い難病を患って5年前から冷凍睡眠状態だった。ホビーは、デヴィッドを息子代わりに預かる話をヘンリーに持ち掛けた。
ヘンリーが実験への協力を受け入れたため、デヴィッドはスウィントン夫妻の家に届けられた。デヴィッドは愛情の対象を最初に設定されると、その相手を永遠に愛するようになる。一旦起動してしまったら、その設定を初期化することは出来ない。
最初は途惑っていたモニカもデヴィッドを受け入れ、息子のオモチャだったテディベア型ロボットのテディをプレゼントした。しかし1ヶ月後、奇跡的にマーティンの意識が回復する。自宅に戻ったマーティンは、デヴィッドに様々な嫌がらせを繰り返した。
デヴィッドはモニカによって、テディと共に森の中に捨てられた。森の中をさまよったデヴィッドは廃棄されたロボット達を発見し、男娼ロボットのジゴロ・ジョーと出会う。デヴィッドとジョーは、ロボットを処刑するイベント“フレッシュ・フェア”を催しているジョンソンに捕まった。だが、観客がデヴィッドの処刑に反対したため、2人は難を逃れた。
デヴィッドはモニカに愛されるために、人間になりたいと考えていた。そのために、彼はピノキオの本で知ったブルー・フェアリーに会おうとする。彼はジョーの案内でルージュ・シティーへ行き、情報端末“ドクター・ノウ”からマンハッタンへ行くよう告げられる。デヴィッドとジョーは警察の専用ヘリを奪い、ニューヨークへと向かった…。

監督&脚本はスティーヴン・スピルバーグ、原作はブライアン・オールディス、映画原案はイアン・ワトソン、製作はキャスリーン・ケネディー&スティーヴン・スピルバーグ&ボニー・カーティス、製作総指揮はヤン・ハーラン&ウォルター・F・パークス、撮影はヤヌス・カミンスキー、編集はマイケル・カーン、美術はリック・カーター、衣装はボブ・リングウッド、特殊効果監修はマイケル・ランティエリ、視覚効果監修はデニス・ミューレン&スコット・ファーラー、ロボット・キャラクター・デザイン&アニマトロニクスはステン・ウィンストン、音楽はジョン・ウィリアムズ。
出演はハーレイ・ジョエル・オスメント、ジュード・ロウ、ウィリアム・ハート、フランシス・オコナー、ブレンダン・グリーソン、サム・ロバーズ、ジェイク・トーマス、ケン・リャン、マイケル・マンテル、マイケル・ベレッシー、キャスリン・モーリス、エイドリアン・グレニエ、エイプリル・グレイス、ジョン・プロスキー、ハーレイ・キング、マット・ウィントスン、サブリナ・グルドウィッチ他。
声の出演はジャック・エンジェル、ロビン・ウィリアムズ、ベン・キングズレー、メリル・ストリープ、クリス・ロック、エリック・バウアーズフェルド。


スタンリー・キューブリックが長年に渡って温めていた企画を、彼の没後にスピルバーグ監督が実現した作品。
デヴィッドをハーレイ・ジョエル・オスメント、ジョーをジュード・ロウ、ホビーをウィリアム・ハート、モニカをフランシス・オコナー、ジョンソンをブレンダン・グリーソン、ヘンリーをサム・ロバーズ、マーティンをジェイク・トーマスが演じている。

原作はブライアン・オールディスの短編小説『スーパートイズ』で、キューブリックは原作者による脚本での映画化を考えていた。しかし、その原作者オールディスは、どうやら自身の小説を映画にすることは困難だと考えていたようだ。その後、ボブ・ショウとイアン・ワトソンが脚本執筆に参加するが、企画が実現されることは無かった。
キューブリックの企画を引き継ぎ、その意思を尊重しつつもスピルバーグが自分の主張を盛り込もうとした結果、上手く溶け合わなかったのではないか。もう1つ、スピルバーグになってからの製作期間が短くて、練り込みが不足していたのではないかと思う。

デヴィッドは、かなり奇妙なロボットだ。ほうれん草を食べただけで壊れるのに、プールに飛び込んでも、海の深くに沈んでも、何の異常も起きない。悪ガキに苛められた時には、なぜかマーティンに助けを求める。まだ愛するようにプログラミングされたモニカに助けを求めるならともかく、マーティンに「守って」というのは、どういう仕組みだろうか。
冒頭、発表会の席上で、「ロボットが人間を愛するようになったとして、人間はどのように対応すべきだろうか。ロボットに対して、人間が愛情を注ぐことは出来るのだろうか」という疑問が提示される。しかし、「人間は感情を持ったロボットを愛せるか」というテーマが、扱われることは無い。その疑問は放置されたまま、映画は幕を閉じている。

スウィントン一家とデヴィッドの関係が長く続くのであれば、そしてモニカやヘンリー達のデヴィッドに対する不安や戸惑い、苦悩や葛藤などが表現されているならば、そのテーマも生きてきただろう。だが、スウィントン一家は前半で姿を消すのである。
しかし、「愛を求めるロボットを人間が愛することが出来るのか」という疑問に対する答えは、いちいち語る必要など無かったのかもしれない。なぜならば、たぶん映画を見ている観客の感覚によって、その疑問に対する答えが明らかにされるからだ。

デヴィッドは微笑みを浮かべたまま、モニカの行く先々に姿を見せる。トイレにまで付きまとうが、特に何かを言うわけでもなく、ただ無言で立っている。閉じ込められても泣き叫ぶことも無く、やはり微笑んでいる。ワケの分からないタイミングで大笑いするが、次の瞬間には無表情になる。明らかに、彼は不気味な存在として描写されている。
モニカがデヴィッドを受け入れる気になったことで、その描かれ方は変化する。しかし、モニカをママと呼ぶようになる以外、デヴィッドは以前と何も変わらないのだ。つまり観客にとっては、相変わらずデヴィッドは薄気味悪いロボットなのである。だから、いちいち説明しなくても、「そんなロボットは愛せない」という答えは出てしまう。

デヴィッドが持つ感情は、プログラミングされたモノであって、本当の感情ではない。本当の感情を持っていないから、デヴィッドは愛することは出来ても誰かを憎むことは出来ない。ただ愛する感情だけを所有していても、それは人間とは全く別の存在だ。しかし、そこの「ニセモノの感情」という問題は、完全に放置されたまま終わる。
デヴィッドは母への愛だけが強くて、父はどうでも良い扱いになっている。「人間になりたい」と思うようになるわけだが、しかし「父親は無視して母親だけを思い続ける息子」というのは、人間として“いびつ”な存在ではないのか。それでいいのか?父親が性格の悪い男、悪役゛あれば納得も出来るが、そうではないわけだし。

ヘンリーの存在が父親としては完全に無価値になっている代わりに、ホビーがデヴィッドの父親の役回りを担当するような形となっている。そうであるならば、最初からホビーとモニカが夫婦でデヴィッドを預かる設定でいいと思うのだが、なぜかそうではない。
存在価値という意味では、ジゴロ・ジョーの役回りも全く分からない。デヴィッドの旅の同行者という以上の意味を、彼に感じない。デヴィッドに何か影響を与えたり、変化をもらしたりするというわけでもない。単なる同行者であれば、テディだけで充分だ。そこでデヴィッドの案内役を2体に分散するメリットは、何も無いのだから。

このジョーというセクサロイド(男娼ロボット)も、どういうプログラミングなのか良く分からない。彼は「人間に仕えるのがロボットの仕事」と把握しているにも関わらず、人間に歯向かうような形でデヴィッドを助ける。どういうことなのか、説明が付かない。
そもそもジョーはセクサロイドとして作られているはずで、そのプログラミングからすると、デヴィッドを助けるのは大きく逸脱した行為のように思えるのだ。旅をすることで人間に近付いたということかもしれないが、わずかな時間しか旅はしていないのだ。

人間の側でも、ホビーという人物は良く分からない。自分の息子に瓜二つのロボットとしデヴィッドを作ったにも関わらず、それを自分で引き取らずに他人に預けている。デヴィッドが自分の元へ来るよう回りくどい作戦を取るが、意味は分からない。そしてデヴィッドを本当の息子のように可愛がることも無く、最後までロボットとして見ている。

この映画はスウィントン一家との関わりが第1部、廃棄されてからの旅が第2部、そして2000年後に飛んで第3部という3部構成になっている。第1部と第3部は明らかにベクトルが感動に向けられているが、第2部だけは完全に別物になっている。
第2部では、なぜか廃棄されたロボットがフリークスのような形状になっているとか、フレッシュ・フェアでロボットが破壊されるとか、グロテスクや残酷性をアピールしようとする。もしくは、スタン・ウィンストン・スタジオの技術をアピールしようとする。

もう1つ、第2部になると、ガラリと世界観が変わっている。第1部は、いかにも人工的に整えられたキレイな空間だったのに、第2部では派手なネオンやゴテゴテした飾り付けの多い世界が広がっている。急に別世界に迷い込んだかのようになってしまう。
第3部では、急に時代が飛んで2000年後のロボットの末裔が登場するというだけでも白けてしまうのだが、さらに「モニカのDNAが1日しか保てない」という都合の良すぎる設定がトドメを差す。しかも、「デヴィッドは嬉しかった」とか「外が暗くなった」とか、説明的ナレーションを過剰に入れてしまい、映像や雰囲気で感じさせることを拒む。

デヴィッドはロボットとして、最初にプログラミングされた「永遠に愛し続ける」という任務を忠実に遂行しようとしているだけだ。デヴィッドは人間になろうとしているのだが、しかし端から見ると、彼は最後の最後まで、一点の曇りも無くロボットのままなのだ。
そこには、人間とロボットの違いを感じての苦悩や葛藤、モニカに本当に愛してもらえるのか、本当に人間になれるのかという不安も無い。第2部で旅をすることになるが、何しろ時間や距離が短いし、ロボットから感情を持った生物になっていく成長も無い。

そもそも、「デヴィッドが人間になりたいと願って旅をする物語」というところで無理がある。彼は「人間になればモニカに愛してもらえる」と思っているが、それは間違いだ。人間になろうが、彼はモニカの息子ではないので愛してもらえない。
どんなに頑張ったとしても、最後にモニカと触れ合っても、それはデヴィッドの一方的妄想に過ぎないのだ。

 

*ポンコツ映画愛護協会