『ウルトラ6兄弟vs怪獣軍団』:1974、タイ&日本
太陽の活動が激しくなり、地球に接近し始めた。水飢饉に苦しむ町では、子供たちの雨乞いの踊りが始まった。コチャンという少年も、伝説の白い猿、ハヌマーンの仮面を被って踊りに参加した。コチャンはハヌマーンに成り切り、「雨雲よ、雨を降らせておくれ」と呼び掛ける。一方、ドーナ第7ロケット基地の操縦士であるシープアクとシースリヤーは、喉の渇きで倒れ込んだ。川を見つけた2人はて飛び込むが、「水泳禁止。子供と老人のための飲み水」という看板に気付き、慌てて外へ出た。
ドーナ第7ロケット基地では、ヴィルット博士が人工雨の最初の実験準備を進めている。まずは1基のロケットを打ち上げて小雨を降らせ、それが成功すれば一斉に他のロケットも発射する予定になっている。彼は自信に満ちた表情で、助手のマリサーに「我々の化学は、ついにここまで進んだんだ」と語る。するとマリサーは、「でも精神的な物を忘れているわ。仏様の力を忘れてしまってはいけないと思うわ。ハヌマーンに祈れば雨を降らせてくれるかもしれないわね」と言う。
子供たちが古い寺院跡で踊っていると、ジープに乗った3人の男たちがやって来た。男たちが仏像の頭部を盗み出そうとするのを目撃したコチャンは、「何をするんだ」と叫ぶ。コチャンは逃げる一味を追い掛けるが、銃弾を浴びて死亡した。M78星雲のウルトラの母と兄弟は、その様子を見ていた。ウルトラの母はハヌマーンの魂をコチャンに移し替え、地球を悪から守るために、英雄ハヌマーンとして再び地球に送り戻すことにした。彼女はコチャンの亡骸をウルトラの星に運び、ハヌマーンの魂を与えた。
コチャンの親友であるアナンはハヌマーンが空を飛ぶ様子を目撃し、「コチャンが死んでハヌマーンに生まれ変わったんだ」と感じた。アナンはコチャンを探して走り続け、意識を失った。泥棒たちの前にコチャンが現れ、「死んだはずなのに」と動揺させる。リーダーが発砲するが、まるで効き目は無かった。コチャンはハヌマーンの姿に変身し、巨大化した。ハヌマーンは逃げる3人組を追い回すと、次々に容赦なく殺害した。ハヌマーンは仏像の頭部を奪還し、元の場所に戻した。
ハヌマーンは倒れているアナンを日陰に運び、太陽へ飛んだ。彼は太陽の精スーリヤを説得し、地球から遠ざかってもらった。コチャンはサングラニートリチャワーの花を手に入れ、その果汁でアナンを救った。彼はアナンに「もう遊べないんだ」と告げ、「みんなに言ってくれ、もうすぐ雨が降るって」と述べて走り去った。ドーナ第7ロケット基地では、最初のテスト用ロケットが打ち上げられた。上空で予定通りにロケットは爆発し、地上には小雨が降り注いだ。
実験の成功を受けて、基地の面々は喜び合った。ヴィルットは予定を繰り上げ、他のロケットを打ち上げることにした。秒読みの途中で指揮官から連絡が入り、異常が見つかったので打ち上げを中止するよう要請してきた。しかしヴィルットは「上空に雨雲があるんだ。今やらなければ、やるチャンスが無い。何か異常があれば警報が鳴るはずだ」と告げ、発射を強行する。彼が発射スイッチを押した途端に大爆発が起きた。
基地の職員たちが慌てて避難する中、爆発の影響で大規模な地割れが発生する。そして地割れの中から、5匹の怪獣が出現した。怪獣軍団が暴れ出すと、すぐにタイ軍の戦闘機部隊が出撃した。戦闘機部隊は怪獣軍団を爆撃するが、まるでダメージを与えることが出来ない。怪獣軍団の攻撃を受けて、戦闘機部隊は全滅した。弟のアナンを見つけ出したマリサーは、「コチャンを探しに行こう。怪獣はコチャンがやっつけてくれる。コチャンはハヌマーンになったんだ」と聞かされる。アナンはマリサーを連れて山へ行き、コチャンに呼び掛ける。マリサーは信じなかったが、コチャンはハヌマーンに変身して怪獣軍団に戦いを挑む…。監督は東條昭平、脚本は若槻文三、企画・制作は円谷皐、プロデューサーはソンポート・シングデァンチャイ&伊藤久夫、撮影は町田敏行、照明は佐山五郎、美術は大沢哲三、編集は柳川義博&小林熙昌、録音は中里範、プロデューサー補は福井顕、特殊技術は佐川和夫、音楽は冬木透。
主題歌「ぼくらのウルトラマン」作詞・作曲:谷のぼる、編曲:高田弘、歌:佐々木いさお&コロムビアゆりかご会。
出演はコ・ガオデンディー、アナン・プリーチャー、ヨーチャイ・メクスワン、パワナー・チャナチット、シープア、シースリヤー、カン・ボンチョ、チャン・ワンペン、ソムノーク他。
声の出演は佐久間あい、白川澄子、仲木隆司、栗葉子、滝口順平、兼本新吾、白鳥鉄夫、橋本茂雄、二又一成、古川登志夫、上坂タエ子。
ナレーターは木原正二郎。
タイのチャイヨープロダクションが円谷プロと共同で製作した映画。
監督の東條昭平はTVシリーズ『ミラーマン』や『ジャンボーグA』を手掛けていた人物で、これが初の映画作品。
出演者は全てタイ人で、コチャンをコ・ガオデンディー、アナンダをアナン・プリーチャー、ヴィルットをヨーチャイ・メクスワン、マリサーをパワナー・チャナチット、シープアクをシープア、シースリヤーをシースリヤーが演じている。製作されたのは1974年だが、その時点では日本で公開されなかった。1971年から巻き起こった第二次怪獣ブームが終焉を迎えつつあったということが、影響していたのかもしれない。
その後、ウルトラマンフィーバーが起きたことを受けて、日本では1979年に公開されている。
なお、後にチャイヨーが「ウルトラマンの権利を譲渡された契約書が存在する」と主張し、最初は認めていた円谷プロが反論に出て裁判を起こした。
結果、タイではチャイヨーが敗訴し、日本では円谷プロが敗訴した(最高裁で敗訴が確定)。邦題は『ウルトラ6兄弟vs怪獣軍団』だが、これは内容と全く合致していない。
タイでの原題を邦訳すると「ハヌマーンと7人のウルトラマン(ウルトラ兄弟&ウルトラの母で7人という計算)」になるのだが、そういう内容だ。
この映画の主役はハヌマーンである。もっと言ってしまえば、この映画、ウルトラ兄弟&ウルトラの母の必要性が全く無い。
むしろ、ウルトラ兄弟&ウルトラの母の存在を排除し、「不幸な死を遂げた少年がハヌマーンとして甦り、正義の英雄として悪と戦う」という話にした方がスッキリする。タイの人からすると全く気にならないのかもしれないが、ウルトラシリーズに慣れ親しんできた日本人からすると、これが「ウルトラマンの映画」という扱いになってしまうことには、違和感を禁じ得ない。
この作品に登場するウルトラ兄弟&ウルトラの母は、我々が知っている彼らとは大きく異なるからだ。
そしてウルトラマンの世界観とも大きく異なる。
チャイヨープロダクションとしては人気キャラクターを使いたかったのかもしれないが、だったらウルトラ兄弟を主役にすべきだろうに、なぜウルトラ兄弟の存在価値が完全に無くなるような映画にしたんだろうか。そもそも脚本担当者として『ファイヤーマン』や『ジャンボーグA』の若槻文三がクレジットされているトコに疑問が沸く。
日本人が脚本を書いて、この内容になるとは思えないんのよ。明らかにウルトラマンを愚弄するような中身だし。しかも、かなりタイの宗教観や価値観が投影された内容だし。
たぶんチャイヨープロダクションがシナリオを担当したか、仮に若槻文三の脚本があっても大幅に改変じゃないかなあ。
もしも本当に若槻文三の脚本がそのまま使われているのなら、センスがイカれていると言わざるを得ない。では、内容を見ていこう。
冒頭、「宇宙は果てしない。その大宇宙の中に小さな王国がある。太陽を中心に、9個の大惑星と1600以上の小惑星や衛星などで作られた太陽系と呼ばれる星の王国だ」というスケールの壮大さを感じさせるナレーションが語られ、それに合わせて宇宙の映像が写し出される。そこから「暗黒星雲の裏側にあるM78星雲」「ここにウルトラ6人兄弟とウルトラの母が住んでいる」という語りに繋がっていく。
ウルトラの父やウルトラマンキングの存在は完全に無視されているが、それは置いておくとしよう。
で、その冒頭のナレーションでM78星雲に関して説明し、「ウルトラ兄弟たちは想像を絶する超能力で地球の平和を脅かす悪と戦い続けてきた」と語るんだから、そりゃあ当然のことながら、そこからウルトラ兄弟の物語が綴られるんだろうと期待する。
ところがナレーションが続行され、「そして一万年以上大昔の地球の平和は、タイ国のラマヤーナが守り続けてきた」という説明が入るので、「んっ?」ということになってしまう。しかも「ラマヤーナが何なのか」を説明しないまま、ナレーションは「ハヌマーンの生誕は、まさに神秘的である」という説明に移ってしまう。
ラマヤーナってのはタイに言い伝えられる風神のことなんだけど、日本人にはサッパリ分からない。
たぶん、タイ国で上映された時のナレーションを、そのまま邦訳しただけってことなんだろう。雑だねえ。
しかも、その神秘的だというハヌマーンの生誕に関しても、良く分からない映像が写し出されるだけで、それ以上の説明は無い。ハヌマーンの誕生シーンは、金色の全身タイツを来た奴がチープな特殊効果の風を送り出し、それを受けた女が「アーアー」と声を発し、画面が切り替わると特殊効果で閃光が走り、ウルトラ兄弟の変身シーンを模倣する演出で登場するという流れになっている。
どうやら、その全身タイツがラマヤーナで、女が風の女神サワハってことのようだ。
いや、そんなのサッパリ分からんよ。
そんでハヌマーンが着地するとウルトラ兄弟が並んでおり、みんなでポーズを取ってタイトルが表示されるんだけど、まだ本編が開始されていない段階で、既にコレジャナイ感が満載だ。本編が始まると、子供たちが雨乞いの踊りをやっている。コチャンはハヌマーンに成り切り、雨雲に雨を降らせてくれと呼び掛ける。
その時点で、「ってことはハヌマーンは特殊な能力を持った英雄や神様じゃないのね」と感じる。
シーンが変わるとシープアクとシースリヤーが歩いているが、なぜか『ウルトラマンタロウ』のZATの制服を着ている。
2人は喉がカラカラで倒れ込むのだが、なぜ操縦士である彼らがフラフラになるまで歩き続けているのかはサッパリ分からない。シープアクとシースリヤーは川を見つけて飛び込むが、「水泳禁止。子供と老人のための飲み水」という看板に気付き、慌てて外へ出る。
ここで「彼らはドーナ第7ロケット基地の特設発射機の優秀な操縦士」という説明が入るが、そいつらを登場させるのに、そんな内容のシーンを用意する意味って何なのかと。
その後にドーナ第7ロケット基地でヴィルット博士が人工雨の実験準備を進めている様子が描写されるんだから、そこでシープアクとシースリヤーも登場させりゃいいでしょ。あと、マリサーが人工雨に対して「でも精神的な物を忘れているわ。仏様の力を忘れてしまってはいけないと思うわ。ハヌマーンに祈れば雨を降らせてくれるかもしれないわね」と言うのは、「なんじゃ、そりゃ」って感じだわ。精神的な物の大切さを説きたいにしても、そこで科学を否定するのは違うだろ。
実際に人々は水飢饉で困っているわけで、「それを救うのに必要なのは科学」というヴィルットの考えは、間違っちゃいないだろ。
それが人類に悪影響を与えるとか、科学を間違った形で使っているってことなら、「科学を否定して宗教的なことを大切にする」という方向へ持って行くのも分からんではないが、そうじゃないんだから。
そこで人口雨を否定して「ハヌマーンに祈れば雨を降らせてくれるかも」ってのは、ただの現実逃避か、もしくはボンクラな考えでしかないぞ。寺院跡には泥棒たちが現れるが、すぐ近くで大勢の子供たちが音を鳴らしながら踊っているのに、なぜか全く気付かない。
周囲を警戒している様子はあるのに、なぜ気付かないのかサッパリ分からない。
で、逃げる一味を追い掛けたコチャンは発砲を受けて死亡するんだけど、このシーンはやけに残酷。コチャンは額を真っ赤に染めて絶叫し、飛び付いていたジープから転落する。
ここまでハッキリとした形で、しかも流血までさせて殺人を描くってのは、ウルトラマン映画として捉えると、違和感が強い。コチャンの死を、なぜかウルトラの母とウルトラ兄弟が見ている。
で、「コチャンの勇気と善良さを愛していたウルトラの母は、タイ国の伝説の英雄、ハヌマーンの魂をコチャンに移し替え、地球を悪から守るために、英雄ハヌマーンとして再び地球に送り戻すべく」という語りが入るが、なぜウルトラの母がハヌマーンの魂をコチャンに与えようと思うのかは不明。
ちなみに、これまで「怪獣のせいで死亡した地球人にウルトラ兄弟が魂を与える」ということはあったが、人間に殺された地球人に魂を与えるというのもウルトラシリーズとは大きく異なる。
まあ今さら言うまでも無いだろうけど、これはウルトラシリーズとは呼べないバッタモンみたいな作品だからね。ウルトラの母は亡骸をウルトラの星に運ぼうと考え、手を箱のような物体に突っ込む。
するとタイの上空から巨大な手が出現し、コチャンを掴む。
それがコチャンの亡骸をウルトラの星に運ぶ方法なんだけど、巨大な手が気持ち悪いし、なんか怖いぞ。
で、ハヌマーンは地球に戻り、上空を高速移動する。一応は「空を飛んでいる」ってことなんだろうけど、立ったまま両手と片脚を上げているようなポーズなので、とても飛んでいるとは思えない。ただ上空を滑っているだけにしか見えんぞ。ハヌマーンが地球に戻った後、アナンがコチャンを探して走り続け、倒れて気を失うという、何を描きたいのか意味不明なシーンがある。
で、カットが切り替わると、「遠い昔、ラマヤーナの弟ラックサナが、クンパンキの矢に刺された。ピペークの老人は、サッパーヤ山の頂に咲くサングラニートリチャワーの花の果汁を傷に付ければ鬼の矢が抜け、ラックサナの命が助かると告げた。しかし、それも太陽が昇る前に間に合わないと、薬の効き目が無いというのだ」という語りが入る。
急に何を言い出したのかと思っていたら、「その花をハヌマーンが入手し、アナンを救う」という展開に繋げるんだけど、要らないでしょ、そんなエピソード。
それは「悪と戦うハヌマーン」を描写するエピソードでも何でもないんだし。ただの余計な道草でしかないわ。
そのエピソードを描くために、前述した説明まで入れなきゃいけない羽目になっているし。前述したように、ウルトラの母はコチャンの勇気と善良さを愛しており、地球を悪から守るために英雄ハヌマーンとして復活させたのだ。
だったら地球に戻ったハヌマーンは、地球を悪から守るため、正義の英雄として戦うべきだろう。
ところがハヌマーンが最初にやるのは、仏像泥棒の殺害である。ようするに、ただの復讐者でしかない行動を取るのだ。
しかも、「悪党退治」という感じじゃなくて、必死で逃亡する連中を、「ほーら、ほーら、どうした」と楽しそうに追い回す。まるで殺しを楽しんでいるかのようだ。そしてハッキリとした言葉で「生かしてはおけぬ」「お前たちを殺してやる」と言っている。
ちっとも英雄に見えない。ちなみに泥棒の前でコチャンがハヌマーンに変身する時は『ウルトラセブン』の曲が使われ、まずは等身大で変身してから巨大化する。
そんな手順を踏まず、いきなり巨大化すりゃいいんじゃねえかと思うし、そもそもコチャンの姿を見せてから変身する必要性も無いとは思う。
だけど、その辺りも含めて「泥棒たちを脅かして楽しんでいる」ってことなんだろう。
別にハヌマーンだからどうだっていいんだけど、そんなクソみたいなキャラに『ウルトラセブン』の曲を使わないでほしいわ。復讐を終えたハヌマーンが次に遂行するのは、日照りを解決するというミッションだ。これも「悪と戦う」という仕事ではないので、「そういうのを見たいわけじゃないんだよなあ」と言いたくなってしまう。
だから、そもそも「太陽が地球に接近して日照り続き」という設定から物語を始めていること自体が間違いなのだ。
そういう設定にした以上、その問題を主人公に解決させなきゃいけなくなるわけで。
それが怪獣や宇宙人の仕業なら、「主人公が悪と戦う」という話に出来るけど、そうじゃないからね。で、どうやってハヌマーンが問題を解決するのかというと、「説得」である。太陽にはスーリヤという太陽の精がいて、そいつを説得して地球から遠ざかってもらうのだ。
しかも、その交渉は「お前は地球を焼いてしまうつもりか?良く見ろ、地球の人間の苦しんでいる姿を。お前は地球に近付きすぎているんだ。それだけじゃない、お前の炎は近頃、激しすぎるぞ」とハヌマーンが語るとスーリヤが「そう言えばそうだ」と納得し、「地球からもう少し遠ざかってくれ」と頼むと「そうしよう」と簡単に受け入れるのだ。
なんて盛り上がらない展開だろうか。
そもそも、なんでスーリヤは地球に近付いたんだよ。ただのアホなのか。さて、ここまでは怪獣も宇宙人も全く登場しないので、ウルトラ兄弟を話に絡めるチャンスも無い。
そのままではマズいってことなのか、遅れ馳せながら、ようやく怪獣を登場させる。なぜか無意味にドレスアップしたマリサーが最初のロケットを発射して実験に成功し、他のロケットも飛ばすことになるのだが、中止命令を無視してヴィルットが発射ボタンを押すと大爆発が起きる。そして地割れの中から怪獣が出現するという流れだ。
地割れで出現するぐらいなら、その爆発が無くても出て来られたんじゃないかという気がしないでもない。
地中の奥深くじゃなくて、かなり浅い場所から出現しているっぽいし。ちなみに出現する怪獣は、ゴモラ、アストロモンス、ダストパン、タイラント、ドロボンの5体。
うーむ、微妙な顔触れだ。
そもそもダストパンに至っては、ウルトラシリーズじゃなくて『ミラーマン』の怪獣だからね。どういう経緯で、そのメンツになったんだろうか。
他の顔触れに関しては、その中でゴモラがリーダー格ってのも違和感がある。
どう考えても、ウルトラ兄弟たちに倒された怪獣の怨念の集合体であり、タロウを倒したこともあるタイラントの方がボスにふさわしいと思うんだけど。さて、ようやく終盤になって「怪獣との戦い」という展開が用意されている。
ただ、ハヌマーンは三叉槍という武器を使って戦うので、そんな奴が「ウルトラ兄弟の仲間」という扱いになっているのは違和感が強い。っていうか、そもそも見た目からして違和感は強いけど。
で、危機に陥ったところへウルトラ兄弟が助っ人に駆け付けるんだけど、そうなると急にハヌマーンは元気になり、今まで使わなかった旋風まで発射する。
そんな攻撃方法があるなら、最初から使えよ。で、ウルトラ兄弟が駆け付けたんだから、もちろんハヌマーンと彼らが協力して怪獣たちを退治するもんだと思うよね。ところが最初に命を落とすタイラントは、「ロケット基地が大爆発を起こし、その火が燃え移って倒れる」という形なのだ。
それ、戦ってないじゃねえか。
で、残りは戦いの中で退治されるんだけど、アストロモンスとダストパンはハヌマーンに頭部と両腕を切断されて肉体が飛び散り、ドロボンは頭と腕の肉を剥ぎ取られ、体の肉を飛ばされて骸骨になって死亡する。
コミカルに描写されているけど、実際にやってることは相当に残酷だぞ。最後のゴモラなんて、ウルトラ兄弟の光線を浴び、ハヌマーンも含めた7人に包囲されて滅多打ちにされ、逃げ出そうとしたところをAとタロウに両腕を掴まれ、ハヌマーンに剣でボッコボコにされ、最後は体を真っ二つに切断される。
完全にリンチでしかないぞ、その映像。
最後は夕日の中でウルトラ兄弟が見守る中、ハヌマーンが嬉しそうに踊る。「勝利の舞」ってことなのかもしれんけど、なんか不愉快だ。いやあ、ひでえ映画だわ。
あと、ウルトラ兄弟が「ウルトラマン兄弟」と言われていることに、すんげえ違和感があるぞ。(観賞日:2015年3月10日)